| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ハンヌ・ミッコラ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年7月) |
ハンヌ・オラヴィ・ミッコラ(芬: Hannu Olavi Mikkola、1942年5月24日 - 2021年2月26日)は、フィンランド、ヨエンスー出身の元ラリードライバーで、1983年の世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。フィンランドの1000湖ラリーに7回 [1]、英国のRACラリーに4回優勝した。
経歴
ミッコラの1970年ロンドン-メキシコ・ワールドカップ・ラリー優勝車フォード・エスコート
1963年のボルボ PV 544に始まるミッコラのラリーキャリアは31年に渡ったが、最も成功したのは1970年代と1980年代だった。1970年代、ミッコラはフォード・エスコートを駆る数多くの国際的イベントのフロントランナーだった。WRCドライバーズタイトルが創設された1979年には重要な局面をつくり、チャンピオンとなったビョルン・ワルデガルドに僅か1ポイント及ばず総合2位でシーズンを終えた。
ミッコラは1977年にスウェーデン人のコ・ドライバー、アーネ・ヘルツと組んだ。この組は非常に速く力を発揮し、エスコートで1978年の英国ラリー選手権タイトルを獲得した。ミッコラ / ヘルツのパートナーシップは1990年シーズンの終わりまで13年間続き、1991年シーズンはヨニー・ヨハンセンと組んだ。
ミッコラはフォードで1980年再びシーズン2位となったが、1981年シーズンには新しいアウディ・ファクトリー・チームに移り、革命的な四輪駆動アウディ・クアトロをドライヴした。この提携は当初から成功し、ミッコラはアウディのデビューイベント、1981年ラリー・モンテカルロをアクシデントでリタイアするまでリードした。次のWRCイベント、スウェーディッシュ・ラリーでは圧勝したが、クアトロは信頼性の問題を抱えており、RACラリーで更に勝利を重ねたにもかかわらずミッコラはドライバー選手権で3位となっただけだった。翌年は1000湖とRACに勝利したが、オペルのヴァルター・ロールとチームメイトのミシェル・ムートンに遅れ再度3位で選手権を終えた。
アウディ・クアトロを駆るミッコラ(1986ラリー・モンテカルロ)
1983年はミッコラの年となった。4勝し3回2位となり、ついに彼とコ・ドライバー、アーネ・ヘルツが世界選手権タイトルを獲得した。続く1984年はチームメイトのスティグ・ブロンクビストに次いで選手権2位となったが、1985年は新しいグループB競技でアウディ・チームはプジョーとランチアに圧倒され、4戦エントリーに留まり3回リタイア、4位1回で最終順位は22位に落ちた。ミッコラは1987年シーズンまでアウディに残り、この年グループA アウディ・200でサファリラリーに勝利し、翌年マツダに移籍した。
1993年に完全にモータースポーツを引退するまで国際的なラリーにスポット参戦していたが、1991年にセミ・リタイアに入るまではマツダに留まっていた。その後ミッコラは1970年ロンドン-メキシコ・ワールドカップ・ラリー25周年記念ランでのコ・ドライバー、グンナー・パルムとの再会(ミッコラは1970年のこのイベントと1995年の再走に優勝している)や、1968年の1000湖ラリー [2]で優勝したフォード・エスコートで長男のユハ・ミッコラ とロンドン-シドニー・マラソン 2000 ラリー出場などを行った。
2008年9月、ミッコラはスコットランド・ラリー選手権のラウンド、コリン・マクレー・フォレスト・ステージ・ラリー( Colin McRae Forest Stages Rally )にフォード・エスコートで参加した。2007年に死去したマクレーの追悼イベントには何人かの元世界チャンピオンも参加しており、ミッコラもそのひとりだった。
人物
家族
長男のユハ (Juha Mikkola) はフロアボールのカナダ・カップの創設者。また、ユハの弟のヴェーサ (Vesa Mikkola) はスズキのワークスドライバーとして2004年ラリージャパンに参戦しており、このときハンヌ自身も来日している。甥のイルッカ・ミッコラ (Ilkka Mikkola) はフィンランドのプロアイスホッケーSMリーガの選手。
エピソード
- 英国のインディーズバンド、ハーフ・マン・ハーフ・ビスケットの1985年の歌 "Architecture and Morality, Ted and Alice" のオープニングでミッコラは不滅になった。“ハンヌ・ミッコラの素晴らしい腕前は / フィンランド人みんなと握手したくさせる”
- ハンヌ・ミッコラは同着となった唯一の国際ステージラリーに関与した。1978年ビルマ・インターナショナルで、ミッコラとラッセル・ブルックスは全ステージ終了時同タイムでフィニッシュしたが、ミッコラは最初のステージでブルックスより速かったためこのイベントに勝利した。
戦績
タイトル
世界ラリー選手権での優勝
世界ラリー選手権リザルト
色
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結果
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金色
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優勝
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銀色
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2位
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銅色
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3位
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緑
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ポイント圏内完走
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青灰色
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ポイント圏外完走
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WRCアカデミー完走 (Aca)
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紫
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リタイヤ (Ret)
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黒
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除外 (EX)
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失格(DSQ)
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白
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スタートせず (DNS)
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空白
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エントリーせず (WD)
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- 1973 - 1976年はコンストラクターズ選手権のみ開催。
- 1977、1978年シーズンは、FIA カップ・ラリードライバー( FIA Cup for Rally Drivers )が WRC 全イベントの他に 10 のイベントも含めて争われた。
脚注
参考文献
外部リンク
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WRC |
1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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