ホセ・マリア・"ペチート"・ロペス (José María "Pechito" López , 1983年 4月26日 - )は、アルゼンチン ・コルドバ州 リオ・テルセロ 出身のレーシングドライバー。
経歴
初期
2001年にルチディ・モータースポーツ からフォーミュラ・ルノー・2000・ユーロカップ [ 1] 、2002年はチームを移籍しクラム・コンペティション チームからフォーミュラ・ルノー・2000・ユーロカップに参戦しながら同年にはイタリア・フォーミュラ・ルノー に参戦しロバート・クビサ を負かしてチャンピオンを獲得した[ 1] 。そのパフォーマンスを評価され、クビサに代わってルノーの育成プログラム入りを果たした[ 2] 。2003年はフォーミュラ・ルノーV6・ユーロカップ にDAMS から参戦、チャンピオンを獲得した[ 1] 。
2004年はフォーミュラ・ルノーV6・ユーロカップに参戦しながらCMSチームでフォーミュラ3000 に参戦した(6位・28ポイント)[ 1] 。またFIA GT選手権 のテストを得て1レースのみDAMSランボルギーニ チームからFIA GT選手権に参加[ 1] 。
2005年はフォーミュラ3000からシリーズ名が変更されたGP2 へ、引き続きDAMSから参戦(9位・36ポイント)[ 1] 、2006年はスーパーノヴァ チームから参戦(10位・30ポイント)[ 1] 。
ツーリングカーレースでの活躍
ルノーとの契約が切れた2007年からはアルゼンチンの国内ツーリングカー シリーズであるTC2000アルゼンチン選手権 にヴィクトール・ロッソのチームから参戦、総合5位で終えた[ 1] 。またアメリカン・ル・マン・シリーズ でリシ コンペティツィオーネのフェラーリ・F430GT に乗り、GT1クラスからセブリング12時間レース とセントピーターズバーグ のみ参戦した[ 1] 。
2008年には欧州が主戦場であった彼のACA アルゼンチン・フェラーリ・プロジェクトの一員としてACA・アルゼンチンチームからFIA GT選手権[ 1] 、さらにはトゥリスモ・カレテラとトップレース V6にも並行参戦を開始[ 1] 。TC2000では2年目にして早くもチャンピオンを獲得した[ 1] 。元々欧州が主戦場であったロペスのことはアルゼンチンでは知られてなかったため、この若き才能に敵味方問わず夢中となり、「一体こんなところで何をやってるんだ」「早くヨーロッパに戻ってF1に行け」という内容のことを言われ続けたという[ 3] 。
2009年もTC2000に参戦し2年連続のチャンピオンを獲得し同年にはトップレースV6のチャンピオンも獲得した。トゥリスモ・カレテラでもタイトルを争ったが、最終戦で他車の撒いたオイルによりクラッシュし、国内ツーリングカー三冠王は惜しくも逃した。この頃からF1参戦に向けて父やその友人、ロッソらが奔走。さらにはアルゼンチン政府も資金援助を申し出ていた。
こうした周囲の支援に恵まれ、2010年にはUSF1 と契約を発表し、同年からのF1参戦の夢が実現目前となった。しかしチームが資金難によって参戦を断念したため自身のF1デビューも幻となってしまった(後述)。
以降は同年のFIA GT1世界選手権 の終盤2戦に出場。その後は母国アルゼンチンに戻り、再びTC2000をメインに参戦。新規定『スーパーTC2000 』が導入された2012年に3度目のチャンピオンを獲得している。
2013年8月、WTCC の地元アルゼンチンラウンドに、小規模プライベーターのヴィヒャーズ=スポーツよりBMW・320で出走。このラウンドのみの出場ながら第1レースで5位、第2レースにおいてはワークス勢を破って総合優勝を飾り、同チームでフル参戦のフレディ・バースの年間獲得ポイントをたった1ラウンドで上回る結果を残した(シーズン15位)。
2014年のWTCC鈴鹿戦(2014/10/25 WTCC Race Of Japan)
2014年は前年の実績が認められ、この年からワークス参戦となるシトロエン から2014年の世界ツーリングカー選手権 (WTCC)にフル参戦。
開幕戦モロッコラウンドの第1レースでいきなりポールトゥウィンを決めると、第6戦ロシアラウンドの第1レースでもポールトゥウィン。母国レースの第8戦アルゼンチンラウンドにおいては、第1レースでシーズン3度目のポールトゥウィンを決めると、リバースグリッドで10番グリッドスタートとなった第2レースでも残り4周でロバート・ハフ を抜いて優勝し、地元の声援に応える見事な走りを見せた。第11戦日本ラウンドの第1レースで9勝目をシーズン4度目のポールトゥウィンで決め、フル参戦1年目にしてWTCCシリーズチャンピオンを獲得した。アルゼンチン人 ドライバーによるワールドチャンピオンの獲得は、ファン・マヌエル・ファンジオ が1957年のF1世界選手権 で5度目のワールドチャンピオンを獲得して以来となる[ 4] 。最終戦マカオラウンドの第1レースでも勝利し、WTCCシーズン最多記録更新となる10勝を挙げた[ 5] 。
2015年も引き続きシトロエン から参戦。開幕戦アルゼンチンと第2戦モロッコの第1レースでポールトゥウィン。さらに第4戦ドイツ、第8戦ポルトガル、第10戦中国でも第1レースポールトゥウィンを達成し。第11戦タイの第1レースポールトゥウィンでチャンピオン連覇を果たした。
2016年もシトロエン から参戦。前半戦は昨年とは違いライバルであるホンダ との接戦となるも、後半戦は勢いを取り戻し計8勝を挙げ世界選手権3連覇を果たした。
フォーミュラ1
2003年から2006年にかけてルノーF1 の育成プログラムとなるルノー・ドライバー・デベロップメント の一員で、2006年はルノーF1のテストドライバーを務めていた[ 1] 。
2010年のF1世界選手権 においてUSF1 との契約を発表したが800万ドルのスポンサーシップをチームに持ち込むことを条件とされていた[ 6] 。そして、2010年1月26日にUSF1から参戦すことが発表された[ 7] 。しかし、3月2日 に契約したUS F1チームが資金難の為にチーム経営・運営を終了した為、ロペスも契約を解除された。そのため、ヒスパニア・レーシング・F1チーム でリザーブドライバーとしての契約を目指した。この一連のUS F1による騒動と契約解除劇はロペスにとってメディアや世間も非常に同情的であり、その背景にはレギュラーシート獲得の為に既にUS F1側に前払金として約83万ドル を渡している事が関連している。ロペス側陣営も「今回のチャンスは彼にとって最後のF1へのチャンスだろう」と述べた後、リザーブドライバーへの契約に尽力することを明かした。又、この件に関してロペスはUS F1について「彼らはFIA やFOTA 、FOM 、そしてアメリカ のレースファンの全てをだました。」と述べている[ 8] [ 9] 。
3月5日、マネージャーのフェリペ・マクゴーはホセ・マリア・ロペスがF1での仕事を見つけることが出来なかった事を公表した。それを表すかの様に、3月4日に行われたヒスパニア・レーシングの体制発表会にロペスの姿はなかった。又、契約していたUS F1側は、ロペスの前払金の返金を拒否していると伝えられる[ 10] 。
フォーミュラE
2019年マラケシュ戦(フォーミュラE)
2016年-17年のフォーミュラE においてWTCCの所属チームであるシトロエンとパートナーシップ提携しているDSヴァージン・レーシング・フォーミュラEチーム で参戦することが発表された[ 11] 。フォーミュラ選手権にフル参戦するのは11年ぶりながらシーズン9位、表彰台2回を記録する。総合リザルトでこそ4位の同僚サム・バード に水をあけられたが、後半戦の出走レースではリタイア1回を除きバードに全勝しWTCC王者の意地を見せた。
翌シーズンはWECとのバッティングにより離脱したが、その後の日程変更により参戦が可能となったため、同じ理由でドラゴン・レーシング から離脱したニール・ジャニ の代役として、残りのシーズンを戦った。しかし戦闘力不足もあり、入賞3回に終わっている(シーズン17位)。
2018-2019年はフル参戦となるが、昨シーズンを下回る入賞2回(シーズン21位)で、スポット参戦のチームメイトのマクシミリアン・ギュンター にも敗れるという有様で、このシーズン限りでシリーズから離脱している。なお後任にはWECで同僚のブレンドン・ハートレイ が就いている。
世界耐久選手権(WEC)
2017年ル・マン(WEC)
2017年2月2日、FIA 世界耐久選手権 (WEC)に2015年冬よりテストをしていたトヨタ・ガズー・レーシング からLMP1 Hybridクラスに参戦することが発表される[ 12] [ 13] 。TS050 HYBRID の7号車をマイク・コンウェイ 、小林可夢偉 とシェアする。なお同年ル・マンのみ9号車よりニコラ・ラピエール 、国本雄資 と出場したが、ラピエール走行中のトラブルによりリタイアに終わった。
以降は小林可夢偉 /マイク・コンウェイ とのコンビで2019-2020年には選手権を、2021年にはル・マンを初めて制覇した。アルゼンチン人のル・マン総合優勝は、1954年のホセ・フロイラン・ゴンザレス 以来67年ぶり2人目、ラテン・アメリカ人としても1968年のペドロ・ロドリゲス 以来53年ぶり3人目となった。また複数の異なるカテゴリでのFIA世界選手権制覇は、ペター・ソルベルグ 、フェルナンド・アロンソ に続く3人目となった。
2022年も同じ体制で参戦。開幕戦セブリング1000マイルでは同一周回で二度立て続けにクラッシュし、リタイアしている[ 14] 。第3戦ル・マンでは僚機と争うが、ロペスのスティント中にマシントラブルが発生。短時間で回復して総合2位でフィニッシュしたが、連覇は逃した。
人物
海外の実況やメディアでは愛称の「Pechito 」で呼ばれるのが一般的である。アルゼンチンには他人を罵る言葉として「Pecho frío(直訳すると"冷たい胸")」という俗語がある[ 注 1] が、ロペスが生まれる前にレースをしていた父[ 注 2] は対戦相手たちと口論の末に「¡Ustedes son unos pecho frío!(お前らみんなPecho fríoだ)」と叫んだことで、「Pecho」とあだ名された。そして彼の息子には指小辞 の「ito」をつけて「Pechito」と呼ばれるようになった。なおアルゼンチンには"Cocho"・ロペス[ 注 3] [ 15] 、その息子の"Cochito"・ロペス[ 16] というツーリングカーレースのスターがおり、さらに後者はホセと同い年で経歴に共通点も多いため、同国ではしばし混同される[ 17] 。
ラテン人らしく陽気で、常に人を笑わせることを考えているようなムードメーカーな性格を持つ一方で、仕事ぶりは極めて勤勉で繊細、エンジニアへの要求は厳しいと評される。ドライビングは限界点を果敢に攻めまくって探るスタイルであり、シトロエン・レーシングのテクニカルディレクターであったクサビエ・メステラン・ピノンは「ロペスはC-エリーゼをまるでF1マシンかのようにドライブし、アンダーステア をオーバーステア にしている」と語っていた。加えて鋭いフィードバックに解析データの正確な理解、シミュレーター での入念な準備などを併せ、走り方やセッティングの最適解を見つけ出すのがずば抜けて早い。さらにオーバーテイクの技術も卓越しており、「彼の仕掛けに二度目はまず無く、ほぼ一撃で相手を仕留める(ピノン談)」という。初めてのマシンに知らないコースだらけのWTCCで初年度から王者を取れたのは、こうした彼の能力によるものだとされている[ 18] 。
トヨタの同僚であるアンソニー・デビッドソン は、ロペスはツーリングカーレースのイメージが強いが、本質はフォーミュラレーサーであると評している[ 19] 。
一流ゲーマー で、世界大会にも出場経験がある[ 20] 。WECでの彼のヘルメットにはソニック・ザ・ヘッジホッグ を模したキャラクターがあしらわれている[ 21] 。
カーナンバー37はカート時代からのもので、選択できる場合は必ず37を選ぶ。SNSのIDにも使われている。
トヨタのGRスープラ やGRヤリス の公式インプレッション動画にも登場している。
レース戦績
フォーミュラ・ルノーV6・ユーロカップ
国際F3000選手権
GP2シリーズ
FIA GT1世界選手権
(key )
世界ツーリングカー選手権
フォーミュラE
(key )
+ : ファンブースト。
† : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。
FIA 世界耐久選手権
ウェザーテック・スポーツカー選手権
ル・マン24時間レース
脚注
注釈
^ 意味は「臆病者」「自分のことしか考えていない」「人情が無く他人に冷たい」「情熱がなく一生懸命になれていない」「期待されてる割に結果が残せていない」など文脈によって様々である。
^ 文献によっては祖父が発言し、父があだ名を受け継ぎ、ロペスで指小辞がついたとするものもある
^ オスバルド・ロペス。由来は彼がまだ母の胎内にいる頃、母の友人のCochoと呼ばれている息子が立派に教育されていることに感銘を受けて、「この子が生まれたら本名とは別にCochoと呼ぶことにする」と決めたからであるという
関連項目
外部リンク
現在の関係者※ 過去の関係者 現在のドライバー 過去のドライバー 車両 関連組織
※役職等は2023年 4月時点。
1998年 - 1999年 LMGT1 / LMGTP
1989年 - 1993年 IMSA GTP
1968年 - 1970年 グループ7
関連項目
WTC (1987年)
WTCC(2005年 - 2017年)
WTCR(2018年 - )
世界耐久選手権 世界スポーツプロトタイプカー選手権 スポーツカー世界選手権 FIA 世界耐久選手権
ワールドシリーズ・バイ・ニッサン
ユーロカップ・フォーミュラ・ルノーV6
フォーミュラ・ルノー3.5
フォーミュラ3.5 V8