ジェフ・クロスノフ

ジェフ・クロスノフ
Jeff Krosnoff
1994年のル・マン24時間レースで表彰台に上がったクロスノフ。(写真左)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1964-09-24) 1964年9月24日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オクラホマ州タルサ
死没日 (1996-07-14) 1996年7月14日(31歳没)
死没地 カナダの旗 カナダ
オンタリオ州トロント

ジェフリー・ジョン・"ジェフ"・クロスノフ(Jeffrey John "Jeff" Krosnoff、1964年9月24日 - 1996年7月14日)は、アメリカ合衆国オクラホマ州タルサ出身のレーシングドライバー

人物

きっかけ

幼い頃よりテレビアニメスピードレーサー』を視聴、番組のファンとなる。

また元F1ドライバーロニー・バックナムの長女スージーと同い年であり、幼少期より近所で育つ。小学校時代に同じクラスとなった際、授業の一環の中で、スージーが父のヘルメットレーシングスーツを持参し、その仕事を紹介したことがあった。これ以後、ますますレースに興味を持つようになったという。

1977年からはF1のアメリカ西グランプリを観戦し、F1ドライバーへの思いを強くする。

レース活動

1983年ジム・ラッセル・レーシングスクールに入り、レース活動を開始。その後、フォーミュラ・マツダやフォーミュラ・アトランティックやSCCAレーストラックチャレンジに参戦した。1988年に来日し全日本F3000全日本GT選手権等に参戦。1995年まで日本で活動した。

陽気かつ紳士的な性格からパドックでも人気は高く、日本で知り合ったエディ・アーバインローランド・ラッツェンバーガーマウロ・マルティニミカ・サロトーマス・ダニエルソンらは親友として知られた。ジャーナリストとしてレース取材をしていた漫画家のすがやみつるとも親交があった[1]。また、在籍した5ZIGENの木下正治代表とは強い信頼関係を築いた[2]

1996年、クロスノフは日本を離れアルシェロ・ウエルズ・レーシング(AWR)から、トヨタの開発ドライバーとして北米のフォーミュラカー最高峰であるCART参戦を開始する。トヨタもクロスノフ同様CART参戦1年目であったことから、上位に食い込むことは出来なかったが、完走率は高く懸命にマシンを走らせていた。

事故死

第11戦トロントのレース終盤、クロスノフはエマーソン・フィッティパルディステファン・ヨハンソンと数珠繋ぎで走行していた。95周で行われるレースの92周、クロスノフがヨハンソンを抜こうと挙動を変えた瞬間、ヨハンソンもフィッティパルディを抜こうと、同じ向きに挙動を変えた。この結果、クロスノフのマシンの左フロントタイヤが、ヨハンソンのマシンの右リヤタイヤに乗り上げ、クロスノフのマシンが宙を舞った[3]

宙を舞ったクロスノフのマシンはヘルメット側からフェンスに沿って何度も回転しながら砕け散り、最後は街灯の柱に激突した。クロスノフは頭部に致命的な損傷を負って即死し、事故現場付近にいたコースマーシャル1人も、事故に巻き込まれて亡くなっている。

F1への参戦を目標にしていたクロスノフだったが、叶う事は無かった。31歳没。

死の影響

クロスノフの死を受け、マルティニは翌年限りでフォーミュラカーレースから引退し、事故の際に接触相手となったヨハンソンも同年限りでフォーミュラーカーから引退した。普段快活・陽気な性格で知られるアーバインも、「鈴鹿を走るために日本に来たら、いつもローランドやジェフと六本木で馬鹿騒ぎをするのがお決まりだったんだ。でもローランドはもう居ない。そしてジェフも、もう居ないんだ…」と発言するほどに落ち込んだ様子を見せた。

亡くなった次のレース、第12戦ミシガンでサーキットにはクロスノフと亡くなったマーシャルに哀悼の意を表しアメリカとカナダの半旗が掲げられた。パドックには特設テント内にクロスノフのパネルや花が飾られ、メモリアルセレモニーが開かれた[4]。数名のドライバーはマシンにクロスノフのヘルメットと、座右の銘としていた言葉"Stay Hungry" (ハングリー精神をいつまでも)のステッカーをマシンに貼り付けてレースを戦った。

事故の翌年、アルシェロ・ウエルズ・レーシングは前年のミシガンのレースとは異なるが、クロスノフのヘルメットと、座右の銘”Stay Hungry”のステッカーを2台のマシン(ヒロ松下マックス・パピス)に貼り付けてシーズンを戦った。

クロスノフが激突したフェンスの内側に立っていたニレの木は、2002年ニレ立枯病により切り倒された。しかし切り倒されることが判明した2001年頃より行われた募金活動により、切り株は残されている。また、クロスノフと亡くなったマーシャルの2人の名前が刻まれたプレートが埋め込まれた。

レース戦績

全日本F3000選手権

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1988年 スピードスターホイールレーシングチーム SUZ FSW MIN SUZ SUG FSW SUZ SUZ
13
NC 0
1989年 SUZ FSW
5
MIN
9
SUZ
Ret
SUG
Ret
FSW
13
SUZ
9
SUZ
3
12位 6
1990年 SUNTEC RACING TEAM SUZ
10
FSW
Ret
MIN
DNQ
SUZ
3
SUG
10
FSW
Ret
FSW
4
SUZ
5
FSW
17
SUZ
3
7位 13
1991年 SUZ
7
AUT
10
FSW
4
MIN
Ret
SUZ
Ret
SUG
14
FSW
17
SUZ
Ret
FSW
C
SUZ
9
FSW
4
14位 6
1992年 スピードスターホイールレーシングチーム SUZ
12
FSW
9
MIN
Ret
SUZ
13
AUT
11
SUG
14
FSW
Ret
FSW
24
SUZ
10
FSW FSW NC 0
1993年 SUZ
14
FSW
13
MIN
2
SUZ
13
AUT
C
SUG
Ret
FSW
C
FSW
11
SUZ
11
FSW
13
SUZ
15
11位 6
1994年 GIZA RACING TEAM SUZ
6
FSW
11
MIN
Ret
16位 1
スピードスターホイールレーシングチーム SUZ SUG FSW SUZ
12
FSW
7
FSW
16
SUZ
Ret
1995年 TEAM 5ZIGEN SUZ
10
FSW
C
MIN
9
SUZ
12
SUG
9
FSW
10
TOK
Ret
FSW
12
SUZ
Ret
NC 0

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

所属チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1991年 TWR サンテック・ジャガー イタリアの旗 マウロ・マルティニ
デンマークの旗 ジョン・ニールセン(Rd.3-4)
ジャガー・XJR-11 C1 FSW FSW
Ret
FSW
Ret
SUZ
Ret
SUG
6
FSW
5
18位 12
イタリアの旗 マウロ・マルティニ ジャガー・XJR-14 SUG
2
1992年 NISMO 日本の旗 長谷見昌弘
日本の旗 影山正彦
日産・R92CP C1 SUZ
1
FSW
4
FSW
5
SUG FSW 9位 38
日本の旗 鈴木利男 日産・NP35 C MIN
4
6位 10

全日本ツーリングカー選手権

チーム コ.ドライバー 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1989年 ダンロップ・シミズ・シエラ 日本の旗 長坂尚樹 フォード・シエラ JTC-1 NIS SEN
Ret
TSU SUG SUZ FSW
Ret
1990年 Suntec Racing イタリアの旗 マウロ・マルティニ JTC-1 NIS
3
SUG
5
SUZ
7
TSU
Ret
SEN
8
FSW
Ret

全日本GT選手権

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1994年 トヨタチームサード トヨタ・スープラ GT1 FSW SEN FSW SUG
Ret
MIN
10
27位 1
1995年 GT1 SUZ
3
FSW
12
SEN
5
FSW
16
SUG
3
MIN
11
8位 32

CART

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1996年 アルシエロ=ウェルズ・レーシング レイナード・96i トヨタ MIA
Ret
RIO
Ret
SRF
Ret
LBH
Ret
NZR
18
MIS1
Ret
MIL
18
DET
15
POR
17
CLE
Ret
TOR
Ret
MIS2 MDO ROA VAN LS 35位 0

ル・マン24時間レース

チーム コ・ドライバー クラス 周回 総合順位 クラス順位
1991年 イギリスの旗 トム・ウォーキンショー・レーシングサンテック・ジャガー イギリスの旗 デイビッド・レズリー
イタリアの旗 マウロ・マルティニ
ジャガー・XJR-12 C2 183 DNF DNF
1994年 日本の旗 サード イギリスの旗 エディ・アーバイン
イタリアの旗 マウロ・マルティニ
トヨタ・94C-V LMP1 343 2位 1位
1995年 イタリアの旗 マルコ・アピチェラ
イタリアの旗 マウロ・マルティニ
トヨタ・スープラ LM GT1 264 14位 8位

エピソード

  • レーシングドライバーとしては異色の存在で、大学時代は心理学を学んでいた。
  • 来日したきっかけはフォーミュラ・アトランティックとSCCAレーストラックチャレンジでスピードスターホイールを使用していた関係から、1988年の秋に日本に招かれたことである。F3での試走の予定がF3000に変更となり、そこで好タイムをマークしたことから、急遽全日本F3000選手権最終戦・鈴鹿に出場した[5]

1994年ル・マン24時間レース

1994年4月30日、親友の一人でありこの年のル・マン24時間レースでチームメイトになるはずだったラッツェンバーガーが、F1サンマリノGP予選中の事故で他界。トヨタチームはもう一人のチームメイトだったマルティニに加えて、代役にアーバインを抜擢しル・マンに参戦することとなった。

チームはレース終盤までトップを走行していたが、残り2時間というところでミッショントラブルでストップ。ピット出口付近であり、そのままリタイヤかと思われたが、その際にドライバーを務めていたクロスノフが、ミッションに手を突っ込み、無理矢理3速に固定して再び走り出し、マシンをピットまで帰還させた。レーススタート前にそのような事態に備え、メカニックから方法を聞きだしていたのだという。

優勝は出来なかったが、最終的にはチームは2位に入賞した。

注釈

  1. ^ バイバイ、ジェフ・クロスノフ すがやみつる 1996年7月15日
  2. ^ 追悼・TEAM 5ZIGENから天国のジェフ・クロスノフへ オートスポーツ No.709 30-31頁 三栄書房 1996年9月1日発行
  3. ^ TV放送ではアンドレ・リベイロも巻き込まれた様に放送されたが、リベイロは事故の前を走っておりトラブルか、ミラーで事故を確認しエスケープゾーンに避けた後、クロスノフのマシンのパーツが飛んできてタイヤバリアまで押されている。
  4. ^ Racing On」No.224、p.84、ニューズ出版、1996年。
  5. ^ 「Racing On」No.223、p.19、ニューズ出版、1996年。

関連項目

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!