DRIFT KING TELEVISION YouTube チャンネル
活動期間
2009年9月1日 - ジャンル
車、ドライブ 登録者数
23.4万人 総再生回数
24,988,855回 チャンネル登録者数・総再生回数は000000002024-03-07-0000 2024年3月7日 時点。 テンプレートを表示
土屋 圭市 (つちや けいいち、1956年 1月30日 - )は、日本 の元レーシングドライバー 。長野県 小県郡 東部町 (現:東御市 )出身。血液型B型。ドリフト走行 を多用するそのドライビングスタイルから「ドリキン 」(ドリフトキングの略)とも呼ばれる。レーサーとしての経験から、その類の作品に監修として業務することもある[ 1] 。
来歴
デビュー
長野県出身。埴生高等学校 卒業。高橋国光 の日産・スカイライン2000GT-R に憧れて2000GTを購入。碓氷峠 などといった峠道での「走り屋 」として腕を磨き、1977年 に富士フレッシュマンレース でレースデビュー。以降倉田自動車と坂東商会 のサポートを受けながら日産・サニー 、トヨタ・スターレット を乗り継ぎ、ツーリングカー (いわゆる「ハコ車」)でのレースを中心に活動する。
ヨコハマタイヤ 専属ドライバーとして、1984年 の富士フレッシュマンレースではADVAN カラーのトヨタ・スプリンタートレノ で開幕6連勝を果たしたことで、その名は一躍モータースポーツ の世界に広まり、また当時、「ADVANには足を向けて寝られない」と言い残すほどであり、現役末期の2002年 までヨコハマの開発ドライバーとして活動した。
グループA/JSS
1993年の全日本ツーリングカー選手権参戦マシン
その後全日本ツーリングカー選手権 (グループA)には初年度の1985年 はトヨタ・カローラレビン (AE86 )でフル参戦。翌年からはトヨタ・カローラFX やホンダ・シビック 、BMW・635CSi 等でスポット的に出場した後、1989年からはBMW・M3 やフォード・シエラ のようなトップグループのマシンで再びシーズン通して参戦するようになった。
そして、1991年 に日産・スカイラインGT-R がプライベーターチームにも本格導入されるようになると、タイサン から高橋健二 とのコンビで参戦。1992年からタイサンはチーム国光 とのジョイントとなり、憧れのドライバーであった高橋国光 との「ドリキンコンビ」を結成し、グループAラストイヤーとなった1993年に1勝を挙げた。この間、JSS にも並行して参戦。マツダのFC3S型RX-7 を駆り、ドリフト走行を始めとするコーナリングで、現在以上の高速コースだった富士スピードウェイ にて、ストレート性能に勝るHR31スカイライン に真っ向勝負を挑んだ。
フォーミュラ3
1989年 から1992年 にはドライビングスキルの向上等を目指して全日本F3選手権 に参戦。しかしツーリングカーほどマシンの荷重移動を活かせず、ましてやドリフトなど以ての外というフォーミュラカーではドライビングスタイルの違いに苦しんだこともあって目立った結果は残せず、最高位は1991年 6月の筑波サーキット で記録した2位(参戦中唯一の表彰台)。1990年 のインターF3リーグ では、若き日のミハエル・シューマッハ やミカ・ハッキネン を見て、「どんなに努力してもフォーミュラではかなわない」と悟ったと言う。その一方でドリフト走行に近い状態で走れるレインコンディションには強さを発揮し、初年度の第4戦仙台ハイランド ではポールポジションを獲得している(決勝レースは中止)。また、マカオグランプリ やインターナショナルF3リーグ にも参戦した。
JGTC/JTCC
その後、1994年から始まったJGTC とJTCC に参戦、どちらもADVANワークスのドライバーとして、JGTCではポルシェ・964 やポルシェ・993 、ダッジ・バイパー 、トヨタ・スープラ 、JTCCではホンダ・シビックフェリオ やトヨタ・チェイサー など、様々なマシンを操りながら参戦した。そして2000年から引退する2003年までホンダ・NSX に乗車した。
ル・マン
1995年のル・マン参戦マシン
1994年 からル・マン24時間レース に参戦して、1994年〜1996年 は高橋国光率いるチーム国光から飯田章 と共にHONDA NSX GT2で参戦し、1995年 にはGT2クラス優勝を果たした。1998年 には片山右京 、鈴木利男 らと共にトヨタ・GT-One TS020 で総合9位、翌年の1999年 にも同チームとして参加し総合2位(クラス優勝)の成績を残した。このレースでナイトセッションのトップタイムを出し、夜やレインコンディションに強い峠の走り屋の片鱗を示した。
また、GT-Oneは電気系のトラブルで突然ヘッドライトが消えるというトラブルを抱えていたためほとんどのスティント を担当した。その後、2000年 にチーム郷 とテレビ朝日 のジョイントでパノス・ロードスター を駆って参戦した際には、決勝レース中にコース紹介も務めたが、この年を以てル・マンから退いた。
NASCAR
1996年から1999年まで日本開催されたNASCARにも全て参戦[ 2] 。川井一仁 がエンジニアを務めたり、7度のNASCARカップ戦 チャンピオンであるデイル・アーンハート とバトルを繰り広げるなど見所は多かったが、トップ10フィニッシュには至らなかった(1997年の11位が最高位)。
引退
2000年 にJGTCではARTA へと移籍。2003年 からはブリヂストン の開発ドライバーにも抜擢。「BS(ブリヂストン)を履いて戦うということは、表彰台が約束されているということに他ならない」という言葉を残し、早速この年1勝、翌2001年 はオーナードライバーだった鈴木亜久里 の引退に伴い金石勝智 にパートナーが代わるも、この年も1勝を挙げ、ランキング2位を獲得した。
しかしその後の成績低迷や、それまでの「ハコ」からフォーミュラカー仕様のパーツ構成へと変化するなど、高速化を続けるマシンに自らの体の限界を感じていたこともあり、2003年を以て引退した[ 3] 。その後2017年 にスーパー耐久 にホンダ・シビック TCRで2戦した。
引退後
現役を退いた翌2004年 よりARTAのチーム運営に携わり、2004年は全日本GT選手権 (現・SUPER GT )GT500、GT300両クラスのチーム監督、2005年はGT300クラスのチーム監督を務めた。2006年は当初監督から外れ、J SPORTS のSUPER GT中継に解説者として登場していたが、セパン・インターナショナル・サーキット で行われた第4戦以降、再びARTAの監督代行を務めた。2007年以降はARTAのエグゼクティブ・アドバイザー職に就き、チーム運営やGT300の監督としての業務を担当している。
またARTAやホットバージョンなどでホンダとの関係を深めたこともあり、現在はModulo の開発ドライバーを務めており、同ブランドのエアロパーツのテスターとしても活躍中。
D1グランプリ
また自身が峠の走り屋出身であった経緯から全日本プロドリフト選手権 (D1グランプリ)を設立し、現役時代からD1の審査委員長として活躍し、自らを「D1グランプリのバーニー・エクレストン 」と称していた。しかしJAF公認競技化を推進しようとする彼に対して、興行面を重視しようとする運営体制との間に深い溝ができ、2010年 12月9日 、D1グランプリ運営会社であるD1コーポレーション取締役会にて稲田大二郎 と共に取締役を辞任すると表明。併せて2011年度のD1グランプリ審査員を辞退した[ 4] 。
ドリフトマッスル/ドリフトキングダム
その後2011年2月には新たなドリフトイベントの運営母体として「株式会社ドリフトエンタープライズ」を設立したことを発表[ 5] 、「ホットバージョン」との連携により新イベントの展開を進める方針を明らかにし、D1グランプリの対抗カテゴリーとなる新シリーズ『ドリフトマッスル 』(2018年からは『ドリフトキングダム 』に改称)を立ち上げたが、2019年シーズン終了後にドリフトキングダムとD1GPのシリーズ統合が発表され、ドリフトキングダムは消滅した。
レース以外の活動
レーシングドライバーの他にも、1987年 に創刊されたビデオマガジン 『ベストモータリング 』のキャスターを務めた後、自身のバックボーンである走り屋向けコンテンツを扱って1991年に派生した『ホットバージョン 』のメインキャスターとして活動しており、引退後も現在まで続くライフワークとなっている。また現役当時からラジオパーソナリティとしての活動も行うなど活躍の場は広く、タレント活動をするレーシングドライバーの元祖とも言われている。
2006年 9月 に日本でロードショーされた映画『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT 』では、同映画が自身が主宰するD1 人気によるドリフトを題材にした映画の為、ドライバーおよびスーパーバイザーとして撮影に参加。監督の指示に従ってわざと下手なドリフトをやってのけるなどして、ドリフトシーンの迫力UPに大きく貢献した。劇中では、埠頭でのドリフト練習の音だけで、主人公の上達ぶりとハンドリングの是非をスキール音 のみで聞き分ける「ドリフト仙人」的な釣り人役でカメオ出演 もしている。
エピソード
レーシングスーツのカラーは緑。そのため、雑誌Option やビデオオプション では「(緑の)おじさん」と呼ばれることも多い。
当初は歌手を目指していたといわれ、業界ではなかなかの歌い手とされる。あみん 等を輩出したヤマハ主催のヤマハポピュラーソングコンテスト (通称ポプコン)で自身のバンドでエントリーしたものの、他の出演者のレベルのあまりの高さに音楽の道を断念したという。
学生時代はサッカー 部に所属。
青年時代は家業の金型工場やサラリーマン生活、夜は風俗店等などで働き、金型の配達でドライビングの基礎とも言える荷重移動を覚えた逸話がある。また、青年時代は碓氷峠 に通いつめていた走り屋 だった。
当時はハコスカの4ドアGT で峠を攻めていたが、「60km/h以上では曲がれない」と言われていたカーブを100km/hで曲がろうとしてガードレールを突き破り、車ごと谷に転落する事故で廃車にした。この事故を境に「モータースポーツにはルールと安全性が必要」と感じるようになり本格的にレーサーを目指すことになったと著書の中で語っている(参考文献参照)。
過去に峠アタックのビデオ(「ザ・峠」)を発売したが、後に暴走行為を煽るなどと問題になりビデオは発売禁止処分となり、JAF よりライセンスを剥奪される寸前の状態まで追い込まれた。しかし、稲田大二郎 など、当時、彼を起用していたメディア関係者の取り成しによってライセンス剥奪は取り下げられている。この事を今も尚「稲田さんは恩人」として感謝している。
自著「PRiDE」にては、自身の暴走族時代のことや、峠での危険運転についてもつづっている。
自著「PRiDE」によれば、ル・マン24時間レース に出場した際、夜のレースで雨のコンディショニングで全く前方が見えずにアクセルを踏めなかった時、すでに亡くなっていた母親に「助けて」とすがったという。すると不思議と視界が開けてきたという。
「はえー!」や「(アクセルを)踏め!」が口癖である。またカーインプレッションの際にはまず足回りについてコメントした後にエンジン特性に対してコメントをする。また、初期のホットバージョンでは度々、読者のマイカーやショップのデモカーであるチューニングカー に対してピークパワーのみを追求することを良しとしない旨の発言を繰り返している。「エンジンに手を入れるとそれが壊れた時にチューニングショップがその修理にさらに金を要求する」ことへの嫌悪感が根底にあるとしている。
自身のテンションが上がった時は常に「ウッハッハッハッハ!!」と高笑いをする。
好物はカレーうどん 。
2000年のル・マン24時間 では、決勝でドライブしながらチームラジオで生解説するという離れ業をやってのけた。
人間関係
少年時代に当時トップドライバーだった高橋国光 のレースを見て以来(ホンダ・ダックス で当時住んでいた長野県 から富士スピードウェイ のある静岡県 まで自走していったと自伝「ドリキン伝説」に記述がある)、高橋を師と仰ぎ、息子の名前に「国光」と名づけるほど尊敬していると言われる。ドライバーになってからは全日本GT選手権では1994年から1996年までチーム国光 に所属していたり、1995年のル・マン24時間レースのGT2では優勝をしている。自身の引退セレモニーでは、高橋から「本当はまだまだ走ってもらいたいという気持ちはある」「全国にファンを作って、そして、日本のGTレース、あるいは、モータースポーツファンを、こんなに増やしてくれたのは圭ちゃんだったと言っても言い過ぎではないと思います」という言葉を送られ、こらえきれず涙を流した。
28歳年下の妻がいる。バツ1で二度目の結婚となる[ 6] 。
もうひとりの師匠とも言える稲田大二郎も尊敬しており、レース活動を引退するとき「俺には帰る場所があった。稲田大二郎っていう場所がね」とコメントを残している。稲田は引退セレモニーの最後に「お帰りなさい、土屋圭市」の幕を渡している。その他にも、青年時代に東京に来たとき、寝る場所もなかったが、稲田の計らいで雑誌Option の編集部で寝泊りさせてもらったりとかなりの世話になっている。
2003年 10月、鈴鹿サーキット でJGTCの最終戦後にレーシングドライバーとしての引退式が行われた。当人はひっそりと引退をするつもりだったのだが、チーム監督だった鈴木亜久里によるサプライズとして一大セレモニーが開かれた。挨拶の後にパレードランが行われた際、高橋国光の運転によるパレードカー(ホンダ・S2000 )へ脇阪寿一 ・本山哲 ・飯田章 など後輩ドライバーが殺到して乗り込み、S2000は定員大オーバーとなり、さらに乗り込めなかったドライバーが原付 で追ってきたと言う[ 7] 。しかしS2000は足まわりが曲がってしまい、後にホンダから大目玉を食う羽目になったことを、出演していたBRIDGESTONE AUTOMOBILE RADIOにて明かしている。
自身が幅広いレース活動を行なっていたため、弟子筋も走り屋出身の織戸学 や谷口信輝 から生粋のフォーミュラカー 育ちである伊藤大輔 ・伊沢拓也 と幅広い。また歌手の河村隆一 もレーシングドライバーとしては師弟関係で、現役時代に着用していたレーシングスーツ姿で河村が雑誌などの媒体にしばしば登場している。
木下みつひろ は碓氷峠 の走り屋の弟分だったが、木下が富士フレッシュマンレース にエントリーする際エントリー方法の仕方などを手伝ったが、土屋が名前が分からずひらがな表記で書類を提出したためとOption 誌が言及していたことがある。
レース業界以外での活動も積極的に行なっているため、交友関係も清原和博 、タレントのヒロミ、声優の三木眞一郎 、B'z の松本孝弘 など幅広い。
同じレーサーの土屋武士 とは名字が同じだが、特に血縁関係はない。しかし仲はよく、1998年にはJTCCでコンビを組んでいた時期もある。
レース関係
パーソナルカラーはグリーン。1991年にヘルメット のカラーを周囲の人の勧めでグリーン(それ以前は水色<全日本F3選手権の項を見れば分かるように、当時メインスポンサーであり、立ち上げに関わったったエンドレス のカラー>、その前は紺、白、赤の3色)とシルバーのカラーパターンに変更して以来、同デザインのArai 製ヘルメットを被り続けている。グリーンへのこだわりは強く、ビデオマガジン出演時に着用する私用のレーシングスーツ (ARD/5ZIGEN )、自身が経営していたチューニングショップ「圭オフィス」や「KT」ブランドとして発売されていたアパレル、果ては愛車・AE86 カーボン製ボンネットフードのペイント色としてあしらわれるほどである。また、レーシンググローブやシューズにもこだわりを持っており、グローブはグリーンとレッドの2タイプを自身で開発し後に圭オフィスから市販されたほか、シューズはアシックス 製のローカットタイプを使用している。[ 8]
雨の富士フレッシュマンズレースでAE86 でスカイライン(R30型スカイラインRSターボ)と対等に渡り合った際、NISMO から「速すぎる、インチキがある」とクレームが付き、エンジン・ミッション・含めてマシンをバラバラに分解されたが、何も違反は無かったためお咎め無しだった。また、あまりにも速かったことから最終戦で「(土屋が出ると)他のドライバーのモチベーションが下がるから出ないでくれ」と富士スピードウェイからクレームが付き欠場したとも語っている[ 9] 。
アドバンのワークスであるAE86 を駆ってグループAに参戦したものの、当時監督を務めていた土屋春雄 から通達された「ドリフト禁止」に反発。チームメイトの鈴木恵一 の取りなしにも耳を貸さず、1年限りでアドバンワークスから脱退[ 10] した(なおパーソナルスポンサー契約は維持されたため、プライベーターとして参戦し結果を残すこととなる)。そこから1997年の全日本ツーリングカー選手権 でアドバンチェイサーを、奇しくも脱退の契機となった春雄率いる土屋エンジニアリングから走らせるまで、アドバンワークスとは断絶状態にあった。この当時を「若さゆえに尖っていた」と振り返っている。[ 11]
トークスキルを買われる形で、JTCCやル・マン参戦時には、レース中にコメンタリーブースとマシンを無線で繋ぎ、コース紹介や戦況のレポートなどを視聴者に伝える役割を担っていた。自らのマシンの不調や欠点も包み隠さず伝えていた。
若い頃の事故で片目の視力を落としていたが、レース中は眼鏡 を掛けず「勘で走っていた」という。一方で、海外テスト時やダートなど初走行のコースでのテストやメディア登場時には眼鏡姿を度々見せていた。だが年齢と共に戦績が落ちてきたことから2000年頃にレーシック 手術を受ける。この時の視力の回復ぶりを「レーサー生命が10年延びた」と比喩した。以後は引退後の公の場ではファッションとしてサングラスを着用する以外は基本的に裸眼となっている。
車関係
この件に関しては「広報チューン 」「ベストモータリング 」それぞれの項も参照
2002年 にフェアレディZ が登場した際、雑誌などではフェアレディZを絶賛していたが、日本カー・オブ・ザ・イヤー (COTY)では、当時所属していたレースチームを支援していたホンダ が発売したアコード に満点を投じた。投票理由に「運転支援システムという発想の素晴らしさ」を挙げていたが、その前年には同様のシステムを提案した日産・シーマ に対し「運転の楽しさを奪い取る」として酷評していた。この件について、Option で連載しているコラムでは「シーマは1000Rまでしか対応していないが、アコードは260Rまで対応し、高速道路をどこでも走れるようになった」とその技術を褒める一方、フェアレディZに対しては「確かにすごいけど、技術は何も無い。以前の車の延長線上」との発言を残している(この年、土屋はフェアレディZを購入したが、アコードは購入していない)。この時はオフィシャルサイトの掲示板が大炎上し、「男芸者」「ホンダの飼い犬」などと、手厳しい書込みが殺到した。なお、同年を最後にCOTY選考委員を退き、2005年までベストモータリングの出演を控えた。
『頭文字D』との関わり
1995年に連載が始まった漫画「頭文字D 」を、自らのラジオ番組で絶賛したことから、1997年 に雑誌の対談を経て作者のしげの秀一 との親交が始まり、翌1998年 から始まったアニメ版「頭文字D」では、バトルシーンにおける監修を務め、登場する車の走行音を自ら運転して収録するなど、製作で深く関わっている。
土屋自身も第23話で本人役の声優 として特別出演した(電話を通しての声のみ)ほか、同作のドラマCD 『ドリキン青春グラフティー』でも、半ばノンフィクションなストーリーで主人公として出演(若き日の土屋役は上田祐司(現・うえだゆうじ) )し、アニマックス で放送の特別編やDVD の特典映像にも司会者兼解説者として出演している。
出演声優との交流では、藤原拓海役の三木眞一郎 や武内樹役の岩田光央 、高橋涼介役の子安武人 らを同乗させて走行したことがあり、もともと車酔いを起こしやすい体質の子安は運転のすごさに悶絶したとされる。また、藤原文太役の石塚運昇 と「圭市&文太」としてユニットを組み、「86」という題名の先述のドラマCDのイメージソングを歌っている。
出演
テレビ番組
ラジオ番組
映画
ビデオ
CM
錦之堂 スーパーrein・Xシリーズ(1994 - 1998年)
横浜ゴム (現・横浜タイヤ)GRAND PRIX M7「土屋圭市の手は」篇(1995年)
横浜ゴム (現・横浜タイヤ)GRAND PRIX M7「土屋圭市の足は」篇(1995年)
カロッツェリアジャパン オーリンズ 「レーサー・土屋圭市が選んだその性能」篇(1995年)
横浜ゴム (現・横浜タイヤ)GRAND PRIX M7「その男、60兆の細胞が走る」篇(1996年)
エヌ・ティ・ティ・ドコモ中国 (現・NTTドコモ 中国支社)ながら運転啓発CM(2001年)
オートバックスセブン (2004年 ) - 鈴木亜久里 と出演。
政府広報 (飲酒運転禁止)
ミュージック・ビデオ
著書
土屋圭市FR・MR最強テクニック(講談社 2000年10月) ISBN 4061797247
「PRIDE」
「ドリキン流 基本のクルマBEST40」
「うまくやっている人のクルマの秘密術」
レース戦績
全日本F3選手権
全日本ツーリングカー選手権(JTC)
全日本ツーリングカー選手権(JTCC)
全日本GT選手権
ル・マン24時間レース
脚注
注釈
^ この事件の後、セダン車対決の企画(96年6月号)でR33型スカイライン(4ドア)に対して「ローレル」と呼ぶ(自身はJZX90型マークIIに搭乗していた)、初代インプレッサタイプR登場時のバトル企画(97年6月号)でBCNR33に対してインプレッサで抜き去る際に「GT-R敵じゃないよ君は」と発言するなど、R33系に対するネガティブな発言が散見される。
出典
^ “野村周平「100点満点。うそ1つない、ド迫力の映画」ドリフトシーン納得 ”. 日刊スポーツ (2022年1月14日). 2022年1月14日 閲覧。
^ KEICHI TSUCHIYA PLANNING
^ ホットバージョン vol.66
^ 稲田大二郎/土屋圭市両氏のD1コーポレーション辞任について - D1グランプリオフィシャルサイトニュース 2011年12月22日付
^ 新しいドリフトイベントについて - 土屋圭市オフィシャルサイト・2011年2月1日
^ “レーシングドライバー 土屋圭市の「今一番会ってみたい人」は、羽田空港の掃除“職人”(カーセンサー) | 自動車情報サイト【新車・中古車】 - carview! ”. 日本最大級のクルマ総合情報サイト、カービュー! . 2019年11月22日 閲覧。
^ [1] webCARTOP―土屋圭市ドリキン伝説「土屋圭市が「引退」を決めた盟友の涙のひとこと」
^ ホットバージョン vol.50
^ 大衆車ではないカローラ オレがAE86に乗り続けるワケ
^ ベストモータリング ビデオスペシャル vol.46
^ https://www.webcartop.jp/2015/11/23114 webCARTOP「土屋圭市ドリキン伝説」
^ 『土屋圭市レーシングヒストリーVol.2』三栄書房。
^ おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE! #58 #59
^ ホットバージョン vol.23
^ “テリー伊藤、車の“アレコレ”を伝える ドリフトキングと共演「画期的な番組です」 ”. ENCOUNT . 2021年10月30日 閲覧。
^ "野村周平 日本発祥の"ドリフト"描く映画で主演「土屋圭市さんの車で練習した」" . TOKYO HEADLINE . 株式会社ヘッドライン. 14 January 2022. 2022年1月15日閲覧 。
関連項目
外部リンク
現在の関係者※ 過去の関係者 現在のドライバー 過去のドライバー 車両 関連組織
※役職等は2023年 4月時点。
1998年 - 1999年 LMGT1 / LMGTP
1989年 - 1993年 IMSA GTP
1968年 - 1970年 グループ7
関連項目
創設者 主な首脳・関係者 SUPER GT ドライバー主要ドライバー
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
マシン
スポーツカー (シグマオートモーティブ時代を含む) GTカー
関連組織 ジョイント 関連項目 SUPER GT