標津郡(しべつぐん)は、北海道(根室国)根室振興局の郡。
人口27,021人、面積1,309.56km²、人口密度20.6人/km²。(2025年2月28日、住民基本台帳人口)
以下の2町を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町から標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類[2]・茶志骨[3])、中標津町の一部(協和・豊岡[4]および俵橋の一部[3])除いた区域にあたる。
江戸時代の標津郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。標津神社は天明年間(1781年~1789年)に創建されたと伝わる。いまから300年ほど前には養老牛温泉が発見されている。
江戸時代後期、標津郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え1799年(寛政11年)標津郡域は天領とされた。文化年間にはそれまで蝦夷の人々が利用していた道を根室、釧路など三場所の蝦夷に請負わせ改修した斜里越も開削されている。斜里越は標津からチライワツタリに至る8里(31.4km)、チライワツタリから根北国境のルチシ峠を越え北見国斜里郡のワツカオイに至る8里32町(34.9km)など3区間にわたる道である。当時、最も権力の強かった釧路の蝦夷は自己の負担をできるだけ軽くするため、オタウニ(ルチシ峠の南方)にある斜里蝦夷と釧路蝦夷の境を本来より南東約20町(2.2km)のケネカワツカオイに移して開削したと言われている。
1821年(文政4年)に一旦松前藩領に復したものの、1855年(安政2年)再び天領となり会津藩がホニコイに陣屋を置き警固をおこなった。安政6年には会津藩領となっている(6藩分領)。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して標津郡が置かれた。
特記なき場合『根室・千島歴史人名事典』による[5]。
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太字斜体は、振興局所在地。