紋別郡(もんべつぐん)は、北海道(北見国)オホーツク総合振興局の郡である。
人口36,242人、面積3,912.64km²、人口密度9.26人/km²。(2024年12月31日、住民基本台帳人口)
以下の5町1村を含む。
滝上町・興部町・西興部村・雄武町は西紋と呼ばれる場合がある。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね上記5町1村に紋別市を加えた区域にあたる。後に常呂郡との間で境界変更が行われている。現存する日本の郡では最も面積が大きい[1]。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の紋別郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれたが、後にモンベツ場所が新たに分立した。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年紋別郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が紋別に出張陣屋を築き警固をおこなった。同6年の6藩分領以降は会津藩領であった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して紋別郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治3年8月 - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
- 10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
- 同年、モンベツ村、モウベツ村、ショコツ村、オコッペ村、ルロチ村、サロル村、雄武村、幌内村、沢木村、ユウベツ村が成立。
- 明治8年(1875年)- 漢字表記が定まっていなかった村名に漢字を当て、紋別村、藻鼈村、渚滑村、興部村、瑠橡村、沙留村、湧別村とする。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第27大区
- 4小区 : 紋別村、藻鼈村、瑠橡村、渚滑村、幌内村、興部村、沢木村、湧別村、沙留村、雄武村
脚注
参考文献
関連項目