虻田郡(あぶたぐん)は、北海道(胆振国)胆振総合振興局・後志総合振興局の郡。
人口41,266人、面積1,527.9km²、人口密度27人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)
以下の6町2村を含む。
胆振管内
後志管内
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記6町2村から洞爺湖町の一部(川東・岩屋・早月)を除き、山越郡長万部町の一部(静狩)を加えた区域にあたる。
歴史
「虻田」の由来については虻田町の項目を参照。なお、「虻田」の「虻」の字は常用漢字に加える予定はない。
郡発足までの沿革
江戸時代の虻田郡域は東蝦夷地に属し、松前藩によってアブタ場所が開かれていた。寛政年間になり、それまで地形が険しく道が途絶え舟に乗り換えていた区間を、幕命をうけた松前藩によって山越郡と虻田郡の境を越える礼文華、弁辺等の山道(国道37号静狩峠の前身)が開削され、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る陸路が繋がっている。
江戸時代後期、国防のため寛政11年虻田郡域は天領とされ、後に蝦夷地各地に馬を供給する馬産牧場であった有珠・虻田牧場が開かれ馬頭観音碑が入江地区に建立されている。享和3年には幕命で警固にあたった陸奥弘前藩によって長万部 - 虻田間の道路が改修されている。また、虻田場所請負人和田茂平によって文化元年には恵比須神社が、文化4年には稲荷神社が建立される。後世、恵比須神社は稲荷神社に合祀されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり陸奥盛岡藩が警固を行った。安政6年の6藩分領以降、虻田郡南西部は盛岡藩領となり、東部は箱館奉行「御預所」のままであった。
虻田郡域では古くから火山活動が盛んで、有珠山は寛文3年、明和6年、文政5年、嘉永6年と江戸時代だけでも頻繁に噴火しており、特に文政5年の噴火では火砕流によって虻田の集落が壊滅的な被害を受け多数の犠牲者を出し、有珠・虻田牧場も多くの馬を失う被害を受けた。慶応3年4月漁場請負人和田屋茂兵衛によって豊浦神社が創建される。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して胆振国虻田郡が置かれた。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治3年9月 - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治4年
- 明治5年 - 黒松内村の所属郡が後志国寿都郡に変更[1]。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第20大区
- 1小区 : 礼文村、弁辺村
- 2小区 : 振苗村、虻田村
脚注
参考文献
関連項目