占守郡(しゅむしゅぐん)は、北海道(千島国)根室支庁にあった郡。
人口1,805人(1940年)、面積3,291km²[1]。
当該地域の領有権に関する詳細は千島列島#領土問題を参照。
概要
全域が千島列島北部の島嶼で構成され、町村制が施行されなかったため所属町村はない。2010年まで日本の一部法令に名称だけが残存していた。
中心集落は幌筵島の柏原で、駐在所や郵便局(季節開業)など行政機関が置かれた。そのほか加熊別、村上、摺鉢などには集落や缶詰工場が建てられた。さらに占守島の片岡でも缶詰工場が操業するなど、北洋漁業の基地として栄え、夏期期間には函館や小樽から命令航路の船が通うなど、中部千島以北で最多の定住者を数えた。
本郡の東端は東経155度線を越えるが、東経135度を基準とする日本中央標準時(UTC+9)を用いていた[2]。
郡域
1876年(明治9年)から2010年(平成22年)まで変更なし(並び順は北から)。
- 占守島(シムシュ島)
- 幌筵海峡(パラムシル海峡。占守島と幌筵島との間の海峡)
- 幌筵島(パラムシル島)
- 磐城海峡(イワキ海峡。幌筵島と阿頼度島との間の海峡)
- 阿頼度島(アライド島)
- 志林規海峡(シリンキ海峡。幌筵島と志林規島との間の海峡)
- 志林規島(シリンキ島)
- 温禰古丹海峡(オンネコタン海峡。幌筵島と温禰古丹島との間の海峡)
- 温禰古丹島(オンネコタン島)
- 大和水道(ヤマト水道。温禰古丹島と磨勘留島との間の海峡)
- 磨勘留島(マカンル島)
- 春牟古丹海峡(ハリムコタン海峡。温禰古丹島と春牟古丹島との間の海峡)
- 春牟古丹島(ハリムコタン島)
- 捨子古丹海峡(シャスコタン海峡。春牟古丹島と捨子古丹島との間の海峡)
- 捨子古丹島(シャスコタン島)
- 越渇磨海峡(エカルマ海峡。捨子古丹島と越渇磨島との間の海峡)
- 越渇磨島(エカルマ島)
- 知林古丹島(チリンコタン島)
- 牟知列岩(ムシル列岩)
- 牟知海峡(ムシル海峡。牟知列岩と雷公計島との間の海峡。占守郡の南限) - 別名Kruzenshtern海峡(クルーゼンシュテルン海峡)、最大水深1,900メートル。
沿革
人口
国勢調査の結果のうち、1925年(大正14年)から1935年(昭和10年)のデータは、1935年(昭和10年)の国勢調査報告[9]による。
- 明治17年(1884年) - 先住アイヌ(約100人)を移住させ、無人化。
- 明治29年(1896年) - 拓殖団が入植(57人)。
- 明治36年(1903年) - 占守島の定住者170人(男100人、女70人)(郡司成忠#第二次千島拓殖)。
- 大正9年(1920年) - 第1回国勢調査 3,070人(男2444人、女626人)、世帯数89[10]。
- 大正14年(1925年) - 第2回国勢調査 450人。
- 昭和5年(1930年) - 第3回国勢調査 424人。
- 昭和10年(1935年) - 第4回国勢調査 2,820人(男2,530人、女290人)、うち常住人口132人。
- 昭和15年(1940年) - 第5回国勢調査 1,805人(男1,729人、女76人)、世帯数104[11]。
- 昭和20年(1945年) - 国勢調査は行われなかったが、多数の民間人(約2,000人)と守備隊(陸軍約23,000人、海軍約1,500人)が滞在していた(占守島の戦い#民間人)。
行政
特記なき場合『根室・千島歴史人名事典』による。
- 根室郡外八郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
和田正苗 |
明治13年(1880年)7月15日 |
明治18年(1885年) |
花咲郡の一部から色丹郡が分立
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- 根室郡外九郡長
代 |
氏名 |
就任年月日 |
退任年月日 |
備考
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1 |
松下兼清 |
明治18年(1885年) |
明治19年(1886年) |
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2 |
広田千秋 |
明治19年(1886年)12月 |
明治22年(1889年) |
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3 |
細川碧 |
明治22年(1889年)7月 |
明治23年(1890年)7月 |
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4 |
高岡直吉 |
明治23年(1890年)8月11日 |
明治28年(1895年)12月3日 |
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5 |
林悦郎 |
明治28年(1895年)12月18日 |
明治30年(1897年)11月5日 |
根室郡外九郡役所を廃し根室支庁を置く。
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脚注
参考文献
- 根室・千島歴史人名事典編集委員会 編『根室・千島歴史人名事典』根室・千島歴史人名事典刊行会、2002年。