万里小路家(までのこうじけ)は、藤原北家勧修寺流支流の公家・華族だった家。公家としての家格は名家、華族としての家格は伯爵家。
歴史
参議吉田資経の四男資通を家祖とし、鎌倉時代中期に始まる。家祖資通がその邸宅地を冠して万里小路と称されてから、子孫代々これを家名とした。家格は名家・旧家・内々。
家祖資通は建長2年(1250年)父資経から所領・記録類を分与されたが、これは資通が「器量者」であったためといい、一家を興した事情が知られる。その子宣房は後醍醐天皇の親政下で重用され、吉田定房や北畠親房とともに「後の三房」と称された。藤房・季房兄弟も後醍醐天皇に仕え、藤房は建武政権の要職に就いたが、天皇に直諫を容れられなかったため出家し[2]、季房の子仲房が家督を継ぐ。その子嗣房は初め甘露寺家より豊房を迎えて嗣子とするも、時房が生まれると家督をこれに譲らせた。時房は内大臣まで昇り、日記『建内記』を残している。その子冬房は准大臣に進んだが程なく出家し、嗣子春房もにわかに出家して、万里小路家は一旦断絶した。
ここに同流諸家の公卿が協議し、勧修寺家より賢房を迎えて遺跡を相続させる。賢房は密通が露見して暫く解官され、その間は勧修寺経郷が名代として家督を継いだが、賢房が勅免を得て出仕すると、以後2代にわたって天皇と縁戚関係を結び、家運は隆盛を極めた。賢房の女栄子は後奈良天皇の後宮に入って正親町天皇を生み、同様に秀房の女房子は正親町天皇の後宮に入って誠仁親王(陽光院)を生んだ。
江戸時代の家禄は390石9斗余[注釈 1]。家業は儒学・文筆・有職故実。近衛家の家礼、菩提所は伏見松林院。江戸時代には武家伝奏・議奏などとして朝幕間の調停に努めた者が多く、江戸時代後期の政房は尊号一件で伝奏を免職され、幕末の正房は条約勅許と将軍継嗣問題に奔走。博房は尊皇攘夷派公家として活躍した。その子通房は戊辰戦争で大総督参謀を務め、その軍功によって賞典禄100石を永世下賜された。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると万里小路家も公家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として通房が伯爵位が授けられた。通房は宮内省に勤務し、貴族院の伯爵議員に当選して務めた。
正房の八男正秀(通房の叔父)も分家して男爵を授けられている。
昭和前期に万里小路伯爵家の邸宅は東京市杉並区天沼にあった。万里小路男爵家の邸宅は東京市麻布区広尾町にあった。
歴代当主
系譜
万里小路家
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の万里小路家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち50石、山城国葛野郡朱雀村のうち30石、山城国乙訓郡下植野村のうち50石、山城国乙訓郡今里村のうち90石、山城国乙訓郡粟生村のうち166石9斗、山城国紀伊郡吉祥院村のうち4石7升であり、合計6村・390石9斗7升。
- ^ 正親町家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、直任される家は中納言を一度辞してから大納言になる家より格上と見なされていた)の回数は9回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当。
出典
参考文献
関連項目