大炊御門家(おおいのみかどけ)は、藤原北家師実流の公家・華族だった家。公家としての家格は清華家、華族としての家格は侯爵家。
歴史
封建時代
平安時代後期の摂政関白藤原師実の三男経実(1068年(治暦4年) - 1131年(天承元年))を祖として創立された。経実は権大納言どまりであったが、娘の懿子は後白河天皇の女御となり、二条天皇の国母となった。
経実の子経宗(1119年(元永2年) - 1189年(文治5年))は平治の乱で当初藤原信頼・源義朝方に付きながら寝返って平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。二条天皇が崩じたのちには後白河法皇に接近し、死去する直前まで左大臣の地位にあって京都貴族社会の長老として後白河院政を支えた[4]。
経実・経宗以後この家流は清華家の一つ大炊御門家となる[4]。大炊御門の家名は経宗の屋敷である大炊御門富小路第に因む。
経宗の子頼実(1155年(久寿2年) - 1225年(嘉禄元年))は後鳥羽上皇の側近の女房藤原兼子(卿二位)と結婚したことで娘麗子(陰明門院)を土御門天皇の中宮にし、また後鳥羽上皇の後見という立場を得たことで権勢をふるった。二度に渡って太政大臣を務めている[5]。
これにより太政大臣まで昇る清華家の家例を確立した。他の家格として内々、旧家。家紋は菱に片喰。家業は四個の大事、有職故実、装束、雅楽(和琴・笛)。一条家の家札。
7代当主大炊御門信嗣(1236年-1311年)も太政大臣に昇っている[6]。信嗣は『信嗣公記』の著者でもある。他に大炊御門信宗(1391-1468)も死後に太政大臣を追贈された。信宗の猶子である信子(右馬助藤原孝長女)が後花園天皇の後宮に入り、後土御門天皇の国母となったのが影響している。
1542年(天文11年)4月に16代当主の従一位前右大臣大炊御門経名が後嗣のないまま出家したことで一時中絶したが、同族の権大納言中山孝親の次男経頼が養子に入って家を継承した。経頼の嫡男頼国は猪熊事件に連座して勅勘を被って硫黄島に流罪になったため、弟の経孝が大炊御門家を継いでいる。
江戸時代の所領の表高は400石だった[注釈 1]。江戸期の屋敷は西殿町北側にあった。家臣に諸大夫として上田家、橋本家、山本家、榊原家、侍に一見家、岩崎家があった。
明治以降
従一位右大臣大炊御門家信の代に明治維新を迎えて東京に移住。当初は壬生家、甘露寺家、醍醐家などと共に新宿御苑内に各屋敷を構えた[9]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると、大炊御門家も旧公家として華族に列した。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で357石6斗[注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄との引き換えで支給された金禄公債の額は1万2960円81銭5厘。家信の夫人伊賀は松下威久の長女。
明治17年(1884年)2月9日に家信は隠居し、嫡男の幾麿(いくまろ)が家督相続。同年7月7日に華族令の施行に伴い華族が五爵制になると、旧清華家を侯爵家と定める叙爵内規の規定に基づき幾麿も侯爵に叙された。
幾麿が大正8年8月11日に死去した後には経輝(明治41年9月24日生)が爵位と家督を相続。彼は理学博士号も取得していた。夫人絹子は徳川義親侯爵の長女。
経輝の嫡男は経昭(昭和16年8月5日生)であり、その夫人みつ子は黒澤正雄長女。その娘に紀子(昭和47年1月20日生)がある。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
- ^ 三条実量の子。
- ^ 藤原孝長の子。
- ^ 中山孝親の子。
- ^ 近衛基熈の次男。
- ^ 徳川生物学研究所から石油会社勤務
分流
始祖の大炊御門経実の四男経定の嫡流は堀河家、支流は三条家を起こし、また3代頼実の頼平は鷹司家を起こしたが、3家とも絶家している(高倉家庶流の堀河家や、閑院流の三条家、摂家の鷹司家は特に関係はない)。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の大炊御門家領は、山城国愛宕郡幡枝村のうち30石、山城国乙訓郡今里村のうち100石、山城国乙訓郡石見上里村のうち34石9斗、山城国紀伊郡吉祥院村のうち35石1斗、山城国久世郡上津屋村のうち203石9斗4升5合であり、合計5村・403石9斗4升5合である。
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
出典
参考文献
- 系譜参考
関連項目