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室町家(むろまちけ)は、藤原北家閑院流西園寺家の庶流の公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は伯爵家。
四辻家と称した時期もある。西園寺家・洞院家・清水谷家とともに西園寺流四家のひとつ。
歴史
封建時代
鎌倉時代西園寺公経の四男、実藤によって創立された。藪内や四辻とも号する。また今出川家の邸宅が菊亭と呼ばれたことと同様に、室町家の邸宅は花亭と呼ばれた。公家としての家格は羽林家、旧家、内々。
室町季顕以降、「室町殿」を名乗った足利将軍家を憚り四辻を称したが、明治期に家名を室町に戻した。なお足利将軍家には室町家本邸であった「花亭」も譲っている。
江戸時代初頭、四辻公遠の娘・与津子は後水尾天皇の典侍となり、天皇の寵愛を受けて皇子(夭折)と皇女(後の文智女王)を儲けたが、徳川秀忠の娘和子の入内を企む江戸幕府の圧力によって無理矢理天皇から遠ざけられて落飾させられた[3]。
また、これに先立って与津子の姉(死後「桂岩院」と称される)は上杉景勝の継室となり、嗣子定勝を出産したが、百日余り後に死去した。また、猪熊事件で処刑された猪熊教利も公遠の子(桂岩院・与津子の兄弟)で、一時期高倉家及び山科家の当主になったものの、朝廷内の事情で当主を退いて別家を立てたことが明らかになっている。
江戸時代後期に内大臣徳大寺実堅(東山天皇男系曽孫)の子公績が養子に入ったことから、これ以降天皇男系子孫の家系となっている。
江戸時代の家禄は200石だった[注釈 1]。家業は神楽、和琴、箏。屋敷は梨木町。
明治以降
幕末・明治維新期の公賀は、国事に奔走し維新後は、越後府知事、三等陸軍少将、宮内権大丞、雅楽助を務めた。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると同家も公家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として公賀の子公康が伯爵位が授けられた。公康は同年に家名を四辻から室町に改めた[7]。
2代伯爵公大(きんもと)は、貴族院議員を務めた。3代伯爵公藤(きんふじ)の代の昭和前期に室町伯爵家の邸宅は東京市淀橋区西大久保にあった。公藤は戦後の昭和34年(1959年)掌典長に就任し、宮中祭祀に尽力した。
以下は公賀の子孫の系譜である。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
その他の室町家
関白藤原師通の子・家政の系統が政範・雅長と続いたが、雅長の子・家信が「室町」を家名とした。 6代目の雅秋が「木幡」と改称したが、その曾孫の雅遠の代である室町時代末期に絶家した。
この他に近衛基通の子兼基が鷹司または室町を家名にしたとされているが、4代で絶家している。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の室町家領は、山城国葛野郡西八条村のうち42石3斗4升4合、山城国葛野郡東寺廻りのうち59石6升2合、山城国葛野郡七八条村のうち7石5斗2升4合、山城国葛野郡朱雀村のうち1石7升、山城国乙訓郡下植野村のうち90石であり、合計5村200石。
- ^ 同家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた)の回数は12回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当。
出典
参考文献
関連項目