飛鳥井家(あすかいけ)は、藤原北家花山院流難波家の庶流である公家・華族[1]。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位は伯爵。
歴史
封建時代
平安時代末期の難波家の祖大納言難波忠教の子頼輔は蹴鞠一道の祖といわれた[1]。その子である難波頼経の五男雅経が鎌倉時代前期に飛鳥井家の祖となった人物である[1]。雅経も蹴鞠に通じ、飛鳥井流蹴鞠を興した[1]。鎌倉にも招かれて蹴鞠を伝授し、鎌倉幕府2代将軍源頼家も蹴鞠を愛好して雅経を厚遇した。これをきっかけに雅経は鎌倉幕府と縁深くなり、幕府重臣の大江広元の娘と結婚している。
また雅経は藤原俊成や藤原定家に歌道を学んだため和歌にも優れたため、後鳥羽上皇の寵愛を受け、元久2年(1205年)には定家とともに『新古今和歌集』の撰者に任じられた。これが飛鳥井家が蹴鞠と和歌両道の家として繁栄する基礎となった[1][4]。
雅経と大江広元娘の間の子教定以降関東祗候を世襲する廷臣として鎌倉幕府との縁を深めた。
教定の子雅有や、その曾孫雅縁も著名な歌人だった[1]。その子雅世は後花園天皇の勅命を受けて永享11年 (1439年)に『新続古今和歌集』を撰した[1]。その子雅親(法名栄雅)も歌人として優れ、後土御門天皇に勅撰集編纂を命じられるも応仁の乱で中絶。しかし室町幕府将軍足利義政や義尚、公家や諸大名に和歌・蹴鞠を伝授し、文明・長享期の歌壇で活躍した[5]。雅親は書も優れ、書流の飛鳥井流を開いている[1]。弟の雅康も歌や書道に通じ、二楽流を創始している[1]。
南北朝時代に中絶した本家の難波家は、江戸時代初期に飛鳥井雅庸の次男が難波宗勝として再興したが、宗勝は慶長14年に猪熊事件で勅勘を蒙り、伊豆に配流されたが、慶長17年に勅免となり、飛鳥井雅胤(雅宣)と改名して飛鳥井家を相続。その弟で跡を継いだ雅章は雅親以来の和歌の名手と謡われた。
公家としての家格は羽林家、内々、旧家。家職は蹴鞠・和歌・有職故実。
江戸時代の所領の表高は928石であった。雅宣、雅章が武家伝奏、雅香、雅久、雅典が議奏を務めた。家臣に雑掌として市岡家、本多家、安田家があった。
明治以降
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると飛鳥井家も旧公家として華族に列した。
明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で450石8斗[注釈 1]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は1万6343円79銭(華族受給者中268位)。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、大納言迄宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として飛鳥井雅望が伯爵に叙せられた。
また、明治維新後に飛鳥井家は邸宅を東京に移転させたが、明治天皇はその邸宅跡に第75代崇徳天皇(後に第47代淳仁天皇も併祀)を祀った白峯神宮を新造、奉迎鎮座した[14]。飛鳥井家が邸内で祀ってきた「精大明神」も祀られているが、飛鳥井家が蹴鞠の師範だったことから、この神は「鞠の守護神」とされ、現代ではサッカーなど球技全般の神と解釈され、日本サッカー協会をはじめ各種スポーツで使用された公式球が奉納されている[14]。
雅望の嫡男だった雅広は、素行不良で遊惰な生活を送って300円の負債を抱えた。明治33年に資金繰りに苦労していた岩田万次郎とともに田畑の売却を計画していた奥村権右衛門に売買契約書を作成させ、その文字を修正して土地だけを手に入れる詐欺を働いた。詐欺と気づいた奥村は雅広と岩田を京都地方裁判所に詐欺取財で告訴。さらに同時期、雅広は自分の名義を沢源吾と後藤吉之助に貸し、沢と後藤がそれを使って恐喝取財に及んだ事件も起き、そちらでも雅広は告訴を受けた。
拘留された雅広は、華族礼遇停止処分を受け、明治36年に家督相続人廃除の手続きが取られた。そのため雅望の養子である雅忠が跡取りとなったが、この雅忠はもともと大分県平民で戸籍売買で穂波経度、ついで飛鳥井雅望の養子に入っていた(穂波と飛鳥井は彼に戸籍を売却した)。これが明るみとなり、穂波経度、穂波経藤、飛鳥井雅忠は戸籍法違反容疑で拘留され、明治37年2月12日に華族礼遇停止処分を受けた。このスキャンダルで穂波家は華族の爵位返上に至ったが、飛鳥井家は爵位返上に到らなかった。当時、宮内省爵位局長だった岩倉具定が、江戸時代にできた新興家の穂波家はともかく、中世からの名門貴族の飛鳥井家が華族でなくなることは惜しみ、同家が華族に残れるよう尽力したことが背景にあった。
明治39年4月21日に雅望が死去すると、飛鳥井家は襲爵者未定で爵位を喪失したが、この時も岩倉具定が尽力し、明治42年12月には雅望の先代雅典の四男恒麿に再度伯爵位が与えられて、飛鳥井家は華族として存続した。
大正13年に恒麿が死去した後、長男雅信が爵位を継承。彼は宮内省京都事務所長を務めていた。彼の代の昭和前期に飛鳥井伯爵家の邸宅は東京市渋谷区原宿にあった。
雅信の長男雅道は、歴史学者で京都大学教授。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
脚注
注釈
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
- ^ 飛鳥井家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた)の回数は14回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言迄宣任の例多き旧堂上」に該当。
出典
参考文献
系譜参考
関連項目