滋野井家(しげのいけ)は、藤原北家閑院流三条家支流にあたる公家・華族だった家。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は伯爵家(後に爵位返上)。
家の歴史
封建時代
平安時代末期、藤原公教(三条公教)の次男の滋野井実国から始まる。文和元年(1352年)に当主の滋野井実勝が八幡の戦いで横死して断絶するが、15世紀の中頃に阿野家の庶流実益が再興した。永禄8年(1565年)滋野井公古が死去して再度断絶するが、17世紀に入って五辻家より季吉が入り再興した。なお江戸時代の当主公麗は『滋野井家不断絶之証』を著して、実勝は当家の人ではないため断絶はしていないと述べるが、季吉のことには触れていない。
江戸時代の寛文4年(1664年)4月、当主の滋野井教広の職務怠慢を理由に滋野井家は御家断絶の処分を受け、教広は広島藩へ流され、嫡男の実光も連座して土佐藩に流された。実光は3年後に家名再興を許されたものの、教広は配流先で死去している[3]。
実光の養子である公澄、息子の実全、その息子にあたる公麗(前述)と3代にわたって有職故実の大家を輩出する。
江戸時代の家禄は180石[注釈 1]。家業は神楽。ただし、公澄以降は有職故実が家業であったとする説もある[4]。
幕末に実在・公寿は尊皇攘夷・討幕派の公卿として活躍した[5][6]。
明治以降
明治維新後、公寿は佐渡裁判所総督、佐渡鎮撫使、甲府県知事などを歴任した[5]。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると滋野井家も公家として華族に列した。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 2]として公寿が伯爵位を授けられた。
次の実麗は1913年(大正2年)1月27日に爵位を返上した[11]
その後、滋野井家が復爵運動をやっていたことが確認されるが、実現せず終わった。
系譜
滋野井家系図
凡例
1) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
2) 構成の都合で出生順より組み替え。
3) 系図の出典は(日本の苗字7000傑)、(公卿類別譜)。
脚注
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の滋野井家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち100石、山城国紀伊郡石原村のうち80石の合計2村・180石。
- ^ 滋野井家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、直任される家は中納言を一度辞してから大納言になる家より格上と見なされていた)の回数は7回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当。
参考文献
- 系譜参考文献