櫛笥家(くしげけ)は、藤原北家四条流の公家・華族である。公家としての家格は羽林家、華族としての爵位は子爵。
家の歴史
立家
戦国時代に四条家を再興した四条隆昌が勅勘を蒙り堺に出奔した。四条家は正親町三条公兄の孫にあたる四条隆憲が継承することとなり、さらに隆憲の弟である隆致が兄の後を継承した。
慶長6年(1601年)5月、隆昌が徳川家康の奏請により許されて四条家当主に帰されると、隆致の系統は櫛笥を称し別家を立てた。
櫛笥は平安京の櫛笥小路に由来する。
江戸時代
隆致の女の隆子は後水尾天皇の後宮に入り、後西天皇の国母となり院号宣下あって逢春門院を号した。さらに隆賀の女の賀子は東山天皇の後宮に入り、中御門天皇や閑院宮直仁親王など5皇子1皇女を産み、のちに院号宣下あって新待賢門院を号した。功により隆賀は従一位内大臣に任ぜられた。
江戸時代の石高は183石[2][注釈 1]。。
明治以降
明治維新後の明治2年に公家と大名家が華族として統合されると櫛笥家も公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 2]として隆督が子爵を授けられた。隆督は貴族院の子爵議員に当選して務めるとともに実業家としても活躍した。櫛笥家の邸宅は昭和前期に東京市中野区文園町にあった。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によれば幕末期の櫛笥家領は、山城国愛宕郡一乗寺村のうち60石、山城国葛野郡梅小路村のうち49石余、山城国乙訓郡鶏冠井村のうち54石、山城国乙訓郡開田村のうち20石であり、合計4村・183石余。
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた。
出典
参考文献
外部リンク