烏丸家(からすまるけ)は、藤原北家日野氏流の公家・華族である。公家としての家格は名家。華族としての家格は伯爵家。
歴史
室町時代の権大納言裏松資康の三男・贈内大臣豊光を祖とする。家名は邸宅が京都の烏丸にあったことに由来する[3]。
公家としての家格は名家、旧家、内々。代々歌道の家として朝廷に仕えた[3]。代々優れた歌人を出したが、特に江戸時代初期の光広は、細川幽斎門下の歌人として後陽成天皇・後水尾天皇の二代に仕えて宮廷文化の中の重きをなした[3]。
江戸時代の所領の表高ははじめ1500石、後に954石[5][注釈 1]。江戸時代の家臣に雑掌として大沢家、牧家。菩提寺は常盤法雲院。
幕末・明治維新期の当主光徳は尊皇攘夷派の公卿として活躍。戊辰戦争でも軍功を挙げ、賞典禄50石を下賜される。明治維新後は新政府で参与、初代東京府知事等を務めた。
明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると烏丸家も公家として華族に列した。旧禄高に替えて支給された家禄は、現米で457石3斗[注釈 2]。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と賞典禄との引き換えで支給された金禄公債の額は2万570円94銭8厘(華族受給者中225位)。当時の当主光享(光徳の二男)の住居は東京市麹町区富士見町にあった。当時の家扶は川瀬則義、乙牧正次。
明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると大納言宣任の例多き旧堂上家[注釈 3]として光亨が伯爵位を授けられた。
光徳の三男・光臣は、大審院長を務めた南部甕男の養子となり男爵。内務官僚となり群馬県知事、貴族院議員、宮中顧問官等を務めた。
3代伯爵である烏丸光大は掌典を務め、昭和前期の烏丸伯爵家の邸宅は東京市大森区田園調布にあった。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
脚注
注釈
- ^ 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の烏丸家領は山城国葛野郡上嵯峨村のうち31石4斗6升9合5勺、山城国葛野郡天竜寺門前のうち5石4斗5升3合、山城国葛野郡池裏村のうち46石4斗8升9合5勺、山城国葛野郡高田村のうち74石5升4合、山城国乙訓郡久我村のうち130石、山城国紀伊郡吉祥院村のうち18石、摂津国島上郡上牧村のうち335石1斗6升5合、摂津国島上郡井尻村114石1斗2升3合、摂津国島上郡萩庄村168石2斗3升9合、摂津国島上郡鵜殿村のうち32石7斗6升7合であり、合計10村・955石7斗6升である。
- ^ 明治3年12月10日に定められた堂上華族の家禄の計算方法は、本禄米に分賜米・方料米・救助米・臨時給与を合算して現高を出し、現米と草高の比率である四ッ物成で計算して草高を算出し、その二割五分を家禄とするものである。
- ^ 烏丸家の大納言直任(中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた)の回数は7回なので叙爵内規の伯爵の基準である「大納言まで宣任の例多き旧堂上」に該当。
- ^ 勘解由小路資善の子。
出典
参考文献
外部リンク