高丘家(たかおかけ)は、日本の公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。江戸時代には藤原北家閑院流四辻支流として扱われていたが、明治時代以降は藤原南家高倉流中園庶流として扱われている。
歴史
江戸時代参議中園季定の三男・高丘季起を祖とし、延宝4年(1676-1677年)に一家を興した[2]。家格は羽林家。江戸時代の石高は御蔵米30石[3]。
明治維新後の明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると高丘家も公家として華族に列した。明治9年(1876年)に始まった華族の宗族制においては本家の藪家・中園家とともに第43類内大臣鎌足孫左大臣武智麻呂裔として、藤原南家の一族として扱われている[6]。明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同8日に大納言直任の例がない旧堂上家[注釈 1]として紀季が子爵に叙された。
季昭は東京新聞記者、ニッポン放送解説委員を経て、堤清二の誘いを受けて西武百貨店に入社。流通産業研究所勤務、西友ストアー(現在の西友)に入り西友会長[9]。セゾングループ筆頭代表幹事、日本チェーンストア協会会長、経団連副会長などの財界の公職を務めた他、セゾングループの映画事業にもかかわり、千利休 本覺坊遺文、嵐が丘などの製作総指揮を務めた。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
脚注
注釈
- ^ 中納言からそのまま大納言になることを直任といい、中納言を一度辞してから大納言になるより格上の扱いと見なされていた。叙爵内規は歴代当主の中にこの大納言直任の例があるか否かで平堂上家を伯爵家か子爵家かに分けていた。
出典
文献
外部リンク