植松家(うえまつけ)は、村上源氏久我家流の公家・華族。公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。
華道「日本生花司 松月堂古流」の家元[5]。
歴史
久我家庶流・千種有能の末子・植松雅永を祖とする。雅永は千種家と別に堂上家を立てて植松と号した。堂上源氏十家の一つ。
家格は羽林家、新家、内々。江戸時代の家禄は130石。国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の植松家領は山城国綴喜郡内里村のうち130石であった。
明治維新後の明治2年(1869年)に旧公家として華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると同年8日に大納言直任の例がない旧堂上家として雅徳が子爵に叙せられた。2代子爵・植松雅道は宮内省に出仕し、主殿寮出張所での奉職を経て、陵墓監兼内匠寮出張所長などを歴任した。邸宅は昭和前期に京都市左京区下鴨高木町にあった。
華道「日本生花司 松月堂古流」家元
賞雅は、宝暦から明和の頃(1751年 - 1572年頃)に松月堂古流を創流した学僧の是心軒一露()に師事し、3代家元として流派を継承した[5][9]。以降、代々家元を継承しており、現在の12代家元・雅房に至る[10][11]。
安政3年(1856年)、7代家元・雅言が孝明天皇に生花を献上したところ、これを大変喜んだ天皇から「日本の生花の司であれ」との言葉を賜った[5][11]。以後、雅言は、この「日本生花司」を冠した「日本生花司 松月堂古流()」[11]を流名とし、分流した他の松月堂古流との区別化を図った[5]。
略系図
(出典:『公卿辞典』、『日本史総覧』、『現代華族譜要』、『昭和新修華族家系大成』)
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。*は同一人物。〔〕は家祖。
脚注
注釈
- ^ 藤波景忠の子、梅渓通条の養子
- ^ 千種有政の二男
- ^ 『日本史総覧』は、雅徳の母を東園基貞の娘としている
- ^ 梅渓通治の妻
- ^ 細谷吉左衛門の養子
- ^ 山崎謇の妻
- ^ 伊東駒千代の妻
- ^ 司城通敏の妻
- ^ 桜井亦男の妻
- ^ 今西清之亮の妻
- ^ 的埜中の妻
- ^ 橋田正信の妻
出典
参考文献
外部リンク