壬生家(みぶけ)は、藤原北家中御門流持明院家支流にあたる公家・華族。公家としての家格は羽林家。華族としての家格ははじめ子爵、後に伯爵家。
歴史
江戸時代初期に園基音の末子、基起によって創立された(当初の家名は葉川を名乗り、曾孫の代の時に壬生と改めた)。江戸時代の家禄は130石。
基修(もとおさ)は、幕末・明治維新期の公卿で七卿落ちの一人。
明治維新を迎えて東京に移住。当初は甘露寺家、大炊御門家、醍醐家などと共に新宿御苑内に各屋敷を構えた[1]。
維新後は、参与。戊辰戦争では参謀となり従軍し、会津藩を攻略した。越後府知事、東京府知事を経て、元老院議官、貴族院議員となる。明治17年7月8日子爵の位を授けられた。明治24年伯爵に陞爵した。
基義(もとよし)は、陸軍士官学校を卒業後、陸軍軍人の道を歩み陸軍少将まで累進し、侍従武官も務めた。夫人は久邇宮朝彦親王の第8王女篶子(すずこ)女王。
基泰(もとやす)も貴族院議員を務めた。
基博(もとひろ)は、昭和天皇の第1皇女成子内親王と東久邇宮稔彦王の長男盛厚(もりひろ)の二男。初名は秀彦(ひでひこ)。壬生家の養子となり、第一ホテル専務などを務めた。また二人の息子(壬生基成・壬生基敦)がいる。
系譜
- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
系譜参考
幕末の領地
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』によると、幕末期の壬生家(堂上家)領は山城国綴喜郡内里村のうち130石であった。
脚注