万里小路 宣房(までのこうじ のぶふさ、正嘉2年〈1258年〉 - 貞和4年/正平3年〈1348年〉?)は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけての公卿。従三位・万里小路資通の子。官位は従一位・大納言。北畠親房・吉田定房と共に、後醍醐天皇の側近「後の三房」の一人に数えられる。主な業績は、後醍醐帝が鎌倉幕府討幕の疑いをかけられた正中の変(元亨4年〈1324年〉)において、鎌倉に後醍醐側の特使として派遣されて釈明を行い、主君の無罪判決を得たことである。建武政権では雑訴決断所頭人を務めた。しかし南北朝の内乱では後醍醐天皇が開いた南朝には合流せず、京都に残留したと見られている。日記史料に『万一記』がある。
経歴
父・資通が閑職にあったため、若年のうちは官職に恵まれなかった。大覚寺統の後二条天皇に属して、五位蔵人・弁官を経て蔵人頭・参議を歴任するが、徳治3年(1308年)の天皇崩御後に参議を辞す。
文保2年(1318年)大覚寺統の後醍醐天皇即位を機に、権中納言に復帰。正中元年(1324年)、後醍醐天皇が討幕計画を疑われた正中の変においては、自ら鎌倉へ赴いて天皇に対する弁明を行い、その後権大納言に昇進する。元徳3年(1331年)の元弘の変では、2人の息子(藤房・季房)が討幕に関与したとして六波羅探題に拘束されたが、翌年(1332年)4月には許されて、新帝である持明院統の光厳天皇の許に出仕するよう命じられた。
鎌倉幕府滅亡後の建武の新政下では、従一位に叙せられて雑訴決断所の頭人を務める。建武3年(1336年)1月には若年の千種忠顕と共に出家しており、新政への不満が集まる中での詰め腹を切らされたものと考えられている[1]。後醍醐天皇に従って吉野に赴くこともなく、次男・季房の遺児仲房[2]も京都に残ったため、それまで大覚寺統の重鎮であった万里小路家は以後持明院統(北朝)方について活動することになった。
その後の宣房の消息は明らかでないが、玄孫・時房の日記である『建内記』の文安4年(1447年)10月18日条に宣房の遠忌を修する記事が見えるので、貞和4年/正平3年(1348年)のこの日に没したと見られている[3]。享年91。
人物
後世、後醍醐天皇の信頼が厚い賢臣として、同じく後醍醐天皇の近臣であった北畠親房・吉田定房と共に「後の三房」と並び称された。
また、日記として『万一記(万里小路一品記・宣房卿記)』を残しており、写本が断片的に現存している。日記を記すことは、当時の公家が政務を円滑に行い、子孫が家名を維持するために必要不可欠な行動であったが、閑職に終わった父・資通が日記を残していないので、万里小路家の公家としての諸規範は宣房に由来するものとされ、宣房は歴代の万里小路家当主の崇敬の対象となった。
略譜
※日付=旧暦
伝説
福岡県山川町(現・みやま市)には山川町が宣房(あるいは藤房)の終焉の地であるという伝説がある[7]。真偽は不明だが、山門郡には万里小路村という村があった。
系譜
脚注
参考文献