ブラジル連邦共和国
República Federativa do Brasil
国の標語:Ordem e Progresso (ポルトガル語 :秩序と進歩)
国歌 :Hino Nacional Brasileiro (ポルトガル語) ブラジルの国歌
^ 2019年をもって夏時間 を廃止。
ブラジル連邦共和国 (ブラジルれんぽうきょうわこく、ポルトガル語 : República Federativa do Brasil )、通称ブラジル は、南アメリカ に位置する連邦共和制国家 。首都はブラジリア 。
南米大陸で最大の面積を占め、ウルグアイ 、アルゼンチン 、パラグアイ 、ボリビア 、ペルー 、コロンビア 、ベネズエラ 、ガイアナ 、スリナム 、フランス領ギアナ と国境を接しており、南米諸国で接していないのはチリ とエクアドル だけである。東は大西洋 に囲まれている。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ 諸島、トリンダージ島、マルティン・ヴァス島、サンペドロ・サンパウロ群島 もブラジル領に属する。その国土面積は日本の約22.5倍で[ 1] 、アメリカ合衆国 よりは約110万km2 小さいが、ロシア を除いたヨーロッパ 全土より大きく、インド ・パキスタン ・バングラデシュ の三国を合わせた面積の約2倍に相当する。
概要
ブラジルは、26の州と連邦管区の連合で構成されている。同国は南アメリカ大陸 最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ 最大の領土・人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。また、人口世界第5位でもある。7,491km (4,655mi )の海岸線 を保有している[ 4] 。大陸の陸地面積の約半分をカバーしており[ 5] 、大陸内に在るアマゾン盆地 には多様な野生生物 (英語版 ) 、さまざまな生態系 (英語版 ) 、および多数の保護された生息地 (英語版 ) にまたがる広範な天然資源の中心地である広大な熱帯林 が含まれている。この独得な環境遺産 の存在は、ブラジルを17のメガダイバーシティ諸国 (英語版 ) の第1位に位置付け、傍ら森林伐採 などの人為的変動による環境悪化が気候変動 (英語版 ) や生物多様性の損失 などの地球規模の問題へ直接影響を与えるため、世界的に大きな関心の対象となっている。
また、南北アメリカ 大陸 で唯一のポルトガル語圏 の国であり、同時に世界最大のポルトガル語 使用人口を擁する国でもある。公用語もポルトガル語 である。
更に、ラテンアメリカ 最大の経済規模であり、同時に世界で13番目の経済規模でもある(2022年 4月現在)。同国は北部が赤道 直下で、全体的に海流などの影響もあり気候は大変温暖である[ 6] 。最大都市はサンパウロ 。
世界中からの大量移民 (英語版 ) が幾世紀も続いており、世界で最も多文化および民族的に多様な国家の1つであり[ 7] [ 8] 、そしてローマカトリック教徒が人口の過半数を占める国家 (英語版 ) となっている。
現在のブラジルの領土には、1500年 にポルトガル帝国によって発見された土地を主張した探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラル が上陸する前に、多くの部族国家が存在していた。ブラジルは、帝国の首都がリスボンからリオデジャネイロへ移された1808年までポルトガルの植民地 (英語版 ) であった。1815年、同植民地はポルトガル連合王国、ブラジル連合王国、アルガルヴェ連合王国の成立 により王国の地位に昇格した。独立は1822年にブラジル帝国 の創設によって達成され、国家は立憲君主制 と議会制 の下で統治された単一国家へと転身した。1824年に最初の憲法が批准されると、二院制の議会が設立され、現在の国民会議 の原型となった。そして1888年に奴隷制が廃止された。軍事クーデター 後の1889年には共和制への移行 (英語版 ) で共和制国家となった。1964年には軍事独裁政権 (英語版 ) が出現し、1985年までその政権による統治が続いたものの、以降は文民統治が再開されることとなった。1988年に制定されたブラジルの現行憲法は、民主的な連邦共和国と定義している[ 9] と言える。
国名
ブラジルの人口分布図(2000年)
正式名称はポルトガル語 で、República Federativa do Brasil ポルトガル語発音: [xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw] (ヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ 聞く )。通称 Brasil (ブラズィウ 聞く )。「ブラジル」という読みはポルトガル 本国などで使われるイベリア・ポルトガル語 での発音であり、ブラジル・ポルトガル語 での発音にもっとも近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。
公式の英語 表記はFederative Republic of Brazil (フェデラティヴ・リパブリク・オヴ・ブラズィル )。通称 Brazil (ブラズィル 聞く )。ポルトガル語では Bras il と綴られるが、英語では Braz il と綴られる。ただし、首都のブラジリア については英語でも Bras ília と表記される。
日本語 の表記はブラジル連邦共和国 、通称ブラジル 。漢字表記 では伯剌西爾 か伯国 [ 10] [ 11] となり、伯 と略される。ただし中国 においては巴西 (バーシー)と表記される。
国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジル に由来する。もともと、この土地は1500年にポルトガル人 のペドロ・アルヴァレス・カブラル が来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島 ( Ilha de Vera Cruz )」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世 の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地 ( Terra de Santa Cruz )」と改名された。
その後、あまりにもキリスト教 的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパ で染料に用いられていたスオウ に似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語 で「赤い木」を意味する「パウ・ブラジル」(ブラジルボク )と呼ぶようになり、ブラジルボクのポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀 中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。
1822年 にブラジル帝国 (Império do Brasil)として独立し、1889年 の共和革命以降はブラジル合衆国 (Estados Unidos do Brasil)を国名としていたが、1967年 に現在のブラジル連邦共和国に改称した。
歴史
先コロンブス期
ブラジルのインディオ
ブラジルの最初の住民は、紀元前11000年[ 注釈 1] にベーリング海峡 を渡ってアジア からやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年ごろ、現在のブラジルの領域に到達した[ 注釈 2] 。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国 )の権威は及ばず、この地には、のちにヨーロッパ人によって「インディオ 」(インディアン)と名づけられる、原始的な農耕を営むトゥピ族 (英語版 ) ・グアラニー族 ・アラワク族 系の人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。
ポルトガル植民地時代
ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル
植民地時代初期の地図
1492年 にクリストーバル・コロン がヨーロッパ人 として初めてアメリカ大陸 に到達したあと、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。
1500年 にポルトガル人 のペドロ・アルヴァレス・カブラル がブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガル の植民地として、ほかの南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年 にはイタリア人のアメリゴ・ヴェスプッチ がリオデジャネイロ (1月の川)を命名した。
ポルトガル人が最初に接触したのは、古トゥピ語 やグアラニー語 などを含むトゥピ語族 を話す先住民であった。トゥピ語族のほかにもブラジル先住民には、ジェー語族 (英語版 ) ・アラワク語族 (ヌ=アルアーク語族とも)・カリブ語族 を話す集団があった。ポルトガル人は古トゥピ語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、ほかの先住民はそれぞれ部族の言葉を持っているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。こうしてリングワ・フランカ (一種の共通語)のリンガ・ジェラール (リンガ・ジェラール・パウリスタ とリンガ・ジェラール・アマゾニカ )が形成された。それは信仰も同様として仕向けられた[ 12] 。
初期のブラジルにおいては新キリスト教徒 (改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジル の輸出が主要産業となった。このために当初ヴェラ・クルス 島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年 にはフランス の侵攻に対処するために、初代ブラジル総督 としてトメ・デ・ソウザ (英語版 ) がサルヴァドール・ダ・バイーア に着任した。
1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝 と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社 軍の攻撃を受けた。北東部 の一部がネーデルラント連邦共和国 (オランダ )に占領され、オランダ領ブラジル (英語版 ) となった。1661年、ハーグ講和条約 が締結され、オランダは400万クルザードの賠償金と引き換えに、ポルトガルのポルトガル領アンゴラ (現・アンゴラ )領有を認めるとともにオランダ領ブラジルをポルトガルに割譲した。
一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島 からサトウキビ が導入され、エンジェニョ (英語版 ) (砂糖プランテーション )で働く労働力としてまずインディオ が奴隷化された。インディオの数が足りなくなると西アフリカ やアンゴラ 、モザンビーク から黒人 奴隷 が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダ で酷使された。
「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビ の胸像
17世紀にはブラジル内陸部の探検が、サンパウロ のバンデイランテス (奴隷狩りの探検隊)により始まった。バンデイランテスは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部 やパラグアイ まで遠征してイエズス会 によって保護されていたグアラニー人 を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねたマルーン (逃亡奴隷)の中には奥地にキロンボ (英語版 ) (逃亡奴隷集落)を築くものもあった。その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレス (ポルトガル語版 ) はパルマーレスのズンビ によって指導されたが、1695年 のパルマーレスの戦い (ポルトガル語版 ) でバンデイランテスによって征服され消滅した。
一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデシリャス条約 を無視してラ・プラタ川 の河口左岸のブエノスアイレス の対岸にコロニア・ド・サクラメント を建設した。以降バンダ・オリエンタル の地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部 ではラ・プラタ地方のスペイン人 の影響を受けてガウーショ (スペイン語 ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。
その後、18世紀にはミナスジェライス で金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こった。ブラジルの中心が北東部 から南東部 に移動し、1763年にはリオデジャネイロ が植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレット では独自のバロック 文化が栄えた。
ミナスの陰謀 :このブラジル初の独立運動では、首謀者の内うちもっとも身分の低かったチラデンテスのみが処刑された
バンダ・オリエンタル をめぐるスペインとの衝突のあと、18世紀末には啓蒙思想 がヨーロッパから伝わり、フランス革命 やアメリカ合衆国の独立 の影響もあり、1789年 にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀 」が発生。計画は密告によって失敗した。首謀者のうちもっとも身分の低かったチラデンテス がすべての罪をかぶせられ処刑された。
その後、1791年に始まったハイチ革命 の影響もあってクレオール [要曖昧さ回避 ] 白人やムラート 、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進展。植民地時代にはブラジルに大学 が設立されず、知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀 」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命 」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ 諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。
黄金法(1888年)
ブラジルの独立
ジョゼ・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ :独立派のブラジル人ブルジョワジーを代表してペドロを擁立した
ナポレオン戦争 により、1807年 にジャン=アンドシュ・ジュノー に率いられたフランス軍 がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボン からリオデジャネイロ に遷都し、以降、リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国 の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタル・ド・ウルグアイ (葡 : Banda Oriental do Uruguai )のホセ・アルティーガス (英語版 ) 率いる連邦同盟 (葡 : Liga dos Povos Livres 、1815年 - 1820年 )との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州 を設立した。1820年 ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世 に帰国を要請し、1821年 にポルトガル宮廷はリスボン に帰還した。
一方、摂政として残留したブラガンサ家 の王太子ペドロがジョゼ・ボニファシオ に代表されるブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年 2月18日 にブラジル独立戦争 が勃発した。1822年 9月7日 に「イピランガの叫び 」(葡 : Grito do Ipiranga )と呼ばれる独立宣言が行われ、ペドロが初代皇帝ペドロ1世 (在位1823年 - 1831年)として即位し、ブラジル帝国 はポルトガルから独立した[ 13] 。
帝政時代
ペドロ2世
ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者 シモン・ボリバル やホセ・デ・サン=マルティン 、ミゲル・イダルゴ らの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ 諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。
このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制 を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州 では赤道連盟の反乱 (英語版 ) が、最南部のシスプラチナ州 では東方州 のリオ・デ・ラ・プラタ連合州 復帰を求めた33人の東方人 の潜入により、シスプラチナ州をめぐってシスプラティーナ戦争 が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国 として独立した。
1831年にペドロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州 では牧場主とガウーショ がファラーポス戦争 (英語版 ) (葡 : Guerra dos Farrapos 、Revolução Farroupilha - 「ファロウピーリャの反乱」とも)を起こした。
『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア 画)
1840年にペドロ2世 が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年 にプライエイラ革命 (葡 : Insurreição Praieira - 「プライエイラの反乱」とも)を鎮圧したあと、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年 にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス 大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争 (葡 : Guerra do Paraguai 、西 : Guerra de la Triple Alianza - 「三国同盟戦争」とも)が勃発したが、カシアス公 率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。
一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国 の南北戦争 後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コント の実証主義 の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(葡 : Tenentes - 「テネンテス (英語版 ) 」)たちは実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年 5月13日 に黄金法 (英語版 ) (葡 : Lei Áurea )が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制 が廃止されたが、ペドロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持を失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ 元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。
旧共和国時代
共和制革命後4日間だけ用いられたブラジル合衆国の国旗
1889年 の共和制革命により、ブラジルは帝政 から共和制 に移行した。この時期には カフェ・コン・レイテ と呼ばれるサン・パウロ州 とミナス・ジェライス州 で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。バイーア州 カヌードス (ポルトガル語版 、英語版 ) でJagunço によるカヌードス戦争 (ポルトガル語版 、英語版 ) (1896年 - 1896年 )が勃発。これにともなう通貨下落を政府はロスチャイルド から借り入れて切り抜けた。また、帝政時代からコーヒー ・プランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人 、ポルトガル人 、スペイン人 、ドイツ人 をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年 にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸 で日本人 移民 が導入された。
第一次世界大戦 に協商国 側で参戦したあと、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、ルイス・カルロス・プレステス (ポルトガル語版 ) をはじめとするテネンテス(青年将校たち)によるテネンテ革命 (英語版 ) が各地で起こった。このテネンチズモ (ポルトガル語版 ) は直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。
ヴァルガス時代
ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス :15年にわたるヴァルガス時代の間に現在のブラジルが形作られた
1930年 にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州 のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス が1930年革命 (ポルトガル語版 ) を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年 にはサン・パウロ州 の反ヴァルガス勢力によって護憲革命 (英語版 ) (葡 : Revolução Constitucionalista de 1932 )が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリア ・ファシズム に影響を受けたエスタード・ノーヴォ (ポルトガル語版 ) 体制を確立し、11月10日に新憲法を公布、12月2日に発布した[ 14] 。ヴァルガス時代には大学 の整備、国家主導の工業化、ナショナリズム の称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。
1942年 8月22日 にヴァルガスは第二次世界大戦 に連合国 の一員としてイタリア戦線 に宣戦布告、参戦したが、独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。
ポプリズモ時代
ブラジリア大聖堂
1946年9月18日に新憲法が制定されたあと、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス が大統領に就任した。2度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ 色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗にあってヴァルガスは1954年に自殺した。
1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ 大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州 に新首都ブラジリア連邦直轄区 を建設し、1960年 にリオデジャネイロ から遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレ が加速した。
1961年 に就任したジョアン・ゴラール (ポルトガル語版 ) (通称・ジャンゴ)大統領(任期:1961年 - 1964年 )はこのような困難な状況を乗り切ることが出来なかった。
軍事独裁政権時代
1964年 にアメリカ合衆国 の支援するカステロ・ブランコ 将軍は、クーデター (英語版 ) によってジョアン・ゴラールを失脚させ、軍事独裁体制を確立すると、親米 反共 政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された(コンドル作戦 、en )。この軍政の時代に「ブラジルの奇跡 」と呼ばれたほどの高度経済成長 が実現したが、1973年のオイルショック 後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラ の民族解放行動 (ALN)や10月8日革命運動 など都市ゲリラ が武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャック が複数にわたって発生した。
1974年に将軍から大統領に就任したエルネスト・ガイゼル は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に就任したジョアン・フィゲイレード 大統領は民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェス が勝利した。
民政移管以降
ボルソナーロ大統領とトランプ米大統領
1985年 に民政移管が実現し、文民 政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイ が大統領に昇格した。サルネイ政権下ではインフレの拡大によりブラジル経済は悪化し、内政では大きな成果を残せなかったが、外交ではアルゼンチンのラウル・アルフォンシン 政権との関係がこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。
1990年には国家再建党 からフェルナンド・コーロル が大統領に就任したが経済問題に対処できず、数々の汚職やさまざまな奇行のために1992年に罷免された。コーロルの失脚後、副大統領のイタマール・フランコ が大統領に昇格した。
1995年にブラジル社会民主党 から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ 政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年1月にメルコスール (メルコスウと発音、南米南部共同市場)が発足し、市場中心主義、緊縮政策・新自由主義を推し進めたが汚職や腐敗が深刻化し、格差の拡大をもたらした。
2003年には前政権までの貧困・格差の拡大に反発する形で労働者党 からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ が大統領に就任し、ブラジル発の本格的な左派政権となり、これまで前政権時代に推し進められていた市場中心主義、新自由主義 政策を改め、富の再分配を重視し貧困撲滅政策を実行。外交面では新興国との関係を重視した。資源価格の高騰や新興国経済の好調に伴ってブラジル史上屈指の好景気となり、貧困撲滅と中間層誕生をもたらしたことで国民の支持を集めた。また、2014年のワールドカップ と2016年の夏季五輪 の招致に成功した。
2010年 10月、ルーラ大統領の任期満了に伴い大統領選挙が行われ、好調な経済の後押しを受けて与党労働者党 のジルマ・ルセフ 官房長官が当選。2011年1月に大統領に就任した。しかし、その後新興国経済の失速と資源価格の低迷から景気が低迷し支持率は急落。2013年 に反政府デモ が起きるも、2014年の大統領選挙では決選投票で中道右派 のブラジル社会民主党 のアエシオ・ネベス に接戦の末勝利し、再選を果たした。しかし、2016年にはルセフ大統領が弾劾裁判を受け、ブラジル検察はブラジル屈指の人気を誇ったルーラ元大統領を汚職疑惑により強制捜査。労働者党 とブラジル民主運動党 による連立政権が崩壊するなど政権基盤は急速に失速し、政治的な混乱が続いた。
2016年 5月12日 、ブラジル議会上院はルセフ大統領に対する弾劾法廷の設置を賛成多数で決定し、大統領の職務を停止させた。ルセフ大統領の職務が停止される間、ブラジル民主運動党 のミシェル・テメル 副大統領が大統領代行を務めた[ 15] 。テメル大統領代行は労働党閣僚を排除し、最大野党の中道右派 社会民主党の閣僚を抜擢し、実質的に13年ぶりの政権交代となった。親米 、緊縮財政政策 をとり、国営企業 の民営化 、公務員 や社会保障削減などのウォール街 をはじめとした国際金融市場 が求める政策の実行を表明するなど、カルドーゾ政権時代の新自由主義 政策への回帰となった[ 16] 。しかし、与野党問わず汚職 も蔓延しており政治的には混乱期に突入している。
そして、テメル大統領自身も収賄罪で起訴されるなど[ 17] 、ルセフ前大統領に続いて弾劾を求める動きが活発化している[ 18] 。このように、有力政治家が相次いで汚職の捜査対処になり、ブラジルの政治は大混乱期を迎え国民の信頼を完全になくしている。
2019年にジャイール・ボルソナーロ が大統領に就任[ 19] 、シカゴ学派 の経済学者のパウロ・ゲデス をブレインに新自由主義 、緊縮財政 、軍政の再評価、親米外交など、これまでのルーラ政権以来続いた労働者党政権の逆の政策を行うと主張しており、その過激な発言からは「ブラジルのトランプ 」ともいわれる。
連邦議会襲撃
2022年10月の大統領選 で、ボルソナーロ大統領がルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ (ルラ大統領)に敗北したことを正式に認めていないことが、引き金となった政治的対立が原因で、2023年1月8日には多数のボルソナーロ支持者が連邦議会を襲撃 した[ 20] 。
本事件は発生から2年前の2021年1月6日、アメリカ合衆国で発生したドナルド・トランプが2020年の選挙 における民主党 への敗北を正式に認められないことが原因で、ドナルド・トランプ大統領の支持者が合衆国議会襲撃事件 との襲撃理由や日程など数多くの類似性が世界中で指摘[ 注釈 3] された。
襲撃事件後の政治
ルラ大統領は、襲撃事件を強く非難した。
政治
プラナルト宮殿
国会議事堂
連邦最高裁判所
ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領
大統領制 を敷き、大統領を元首 とする連邦 共和制 となっている。
東西冷戦 期の1964年 から1985年 まで親西側の軍事政権下にあった。なお、軍事政権下の当時から現在にいたるまで、官僚や政治家、警察の腐敗や汚職 は拡がったままである。
行政
大統領および副大統領の任期は4年で、一度限りにおいて再選が認められている(つまり、3選は憲法で禁止されている)。大統領は国会により弾劾されることが可能である。
現在は、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ 大統領(2023年1月1日就任)。現行憲法は1988年憲法である。
立法
議会は上院 (元老院、定数81)・下院 (代議院、定数513)の二院制 である。
政党
労働者党 (PT)、ブラジル民主運動党 (PMDB)、進歩党 (PP)、ブラジル社会民主党 (PSDB)などがある。
司法
投票権
投票は18歳から70歳までの読み書きができるすべての国民に義務づけられている(義務投票制 )。希望すれば16歳以上、もしくは70歳を超える国民や読み書きのできない国民も投票することができる。
政権
2003年 1月にルーラ政権が発足した。元労働組合の指導者だったルーラは「飢餓ゼロ」計画を打ち上げ、貧困家庭向けの食料援助や援助金制度などを推進した。貧困家庭の生活水準改善を着実に進め、経済発展に取り残されていた内陸部へのインフラ整備も進みつつある。外交面では、南米統合へのリーダーシップも発揮した。2006年 6月24日 にルーラ大統領は政権与党の労働党の全国大会で大統領候補指名を受託し、10月の大統領選挙で貧困層の圧倒的な支持を得て再選した。
ルーラ政権下では2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会や2016年リオデジャネイロオリンピック という二大スポーツイベントの招致に成功した。
2011年 1月1日 からは労働者党出身のジルマ・ルセフ 新政権が発足し、ルーラの政策を受け継いでいたが、2016年 5月12日 以降はミシェル・テメル 副大統領が大統領代行を務める。
2019年1月1日よりジャイール・ボルソナーロ 大統領が政権を担った。長らく左派が政権を占めていた国で生まれた極右の大統領の登場に国内外で賛否両論が巻き起こった。「年金改革」と「汚職や犯罪との戦い」を掲げ、治安強化と軍政賛美の姿勢を見せている。
2022年ブラジル総選挙 では、ルーラ元大統領が当選した[ 21] 。
国際関係
ブラジルが外交使節を派遣している諸国の一覧図
独立直後から旧宗主国だったポルトガルに代わって莫大なイギリス の投資を受け、「老いた母(ポルトガル)の代わりに金持ちの継母(イギリス)を得た」と表現されるほどの飛躍的な経済的発展を遂げた。また、独立直後からウルグアイをめぐってアルゼンチンとシスプラティーナ戦争 を起こし、バンダ・オリエンタル (シスプラチナ州)がウルグアイとして独立するなどの失敗もあったが、それでもウルグアイへの影響力は大きく、大戦争 終結後は植民地時代のウルグアイの領域の大きな部分(ウルグアイ川 左岸の東ミシオネス など)をブラジルに併合することを認めさせた。
1860年代にパラグアイ戦争 が勃発すると、親英政策のもとにパラグアイを完膚なきまでに破壊し尽くした。戦争が終わるとパラグアイの領土は一部ブラジルに割譲され、パラグアイそのものも政治的にブラジルの強い影響に置かれることになった。その後はリオ・ブランコ男爵の尽力などもあり、ギアナ三国 、ベネスエラ、コロンビア、ボリビアなどの周辺国からアマゾンの辺境地を獲得することに躍起となった。アメリカ合衆国 の後ろ盾を得る形で併合されたアマゾンの現アクレ州 をめぐるボリビアとの争いでは、アクレ共和国 のような傀儡政権が樹立されることもあった。
20世紀前後から周囲をスペイン語圏諸国に囲まれていることの孤立感、および当時急速な発展を遂げていたアルゼンチン の勃興などに対処するために親米 政策を採用し、アメリカ合衆国も遠交近攻 政策に基づいて中央アメリカ ・カリブ海 のアメリカ合衆国による支配権確立のためにブラジルとの友好を望んだため、伯米両国の関係は非常に友好的なものとなった。この親米政策の背景には、1889年の共和制革命直後のバルボーザ案新国旗に見て取れるようなこの当時の実証主義 知識人のアメリカ合衆国 崇拝の激しさも要因となっていた。
アルゼンチンとの対立はチリを交えて20世紀初頭から1980年代まで続く軍拡競争を招き、アルゼンチン・ブラジル・チリはABC三大国と呼ばれるようになった。一方で親米英政策は第一次世界大戦 、第二次世界大戦 に連合国側で参戦したように激しいものがあり(アルゼンチンが独自外交を標榜して両大戦でドイツ に好意的な中立を続けようと努力したのとは対照的である)、第二次世界大戦後も暫くこの政策は続いた。なお、19世紀末より現在に至るまで友好関係を築いている日本 との関係は、日本が連合国 と交戦状態に入り、1950年代 初頭に国交回復するまでの間はしばし途絶えることとなった。
第二次世界大戦後にイギリスが没落すると、左翼ポプリズモ 政権によって親米政策から第三世界 外交への転換がなされたが、1964年にアメリカ合衆国の内諾を得て起こされた軍事クーデターにより成立した官僚主義的権威主義体制は、露骨に積極的な親米を掲げてアメリカ合衆国に追従し、1965年のドミニカ内戦 の際にはドミニカ共和国 のボッシュ 派政権を崩壊させるための軍隊を率先して送り、その後、軍部は1971年のボリビアのウーゴ・バンセル 政権をはじめとして多くのラテンアメリカ諸国の右翼反共軍事クーデターを支援した。
時系列的には前後するが、パラグアイのアルフレド・ストロエスネル 政権の成立にもブラジル軍の支援があった。そしてこの露骨な親米政策は、エドゥアルド・ガレアーノ をはじめとするラテンアメリカ諸国の知識人からは「裏切り」だとみなされた[ 22] 。
しかし、1985年に民政移管すると、特に1980年代 後半の冷戦 終結後は南アメリカの大国としてアルゼンチンやパラグアイなどの近隣諸国のみならず、アジア やアフリカ 、中近東 諸国などとも全方面外交を行い、WTO やメルコスール などを通して積極外交を行うほか、没落したアルゼンチンに代わってラテンアメリカ諸国をまとめるリーダーとして国連 改革を積極的に推進し、国連安全保障理事会 の常任理事国 入りを日本やインド 、ドイツ などとともに狙っているとされる。また、ポルトガル語圏の一員として旧宗主国 のポルトガル や、アンゴラ 、モザンビーク 、東ティモール とも強い絆を保っている。更には南大西洋 地域に位置する国家により設立された『南大西洋平和協力地帯 (英語版 ) 』(ZPCAS,ZOPACAS)の加盟国の一つとなっている。
ブラジルは主権の相互尊重の原則を根拠に対等な外交施策をとることで知られる。アメリカ政府がテロリスト対策のひとつである新入国管理制度で、ブラジルを含む25か国から入国する者に顔写真と指紋の登録を実施したのに対抗し、ブラジル政府は、2004年1月1日から対抗措置としてブラジルに入国するアメリカ人を対象に、顔写真と指紋の登録を実施した。またかつてはブラジルは南米で唯一日本人が短期滞在で入国するときにビザ が必要な国であった。これも、日本政府がブラジルからの入国に対してビザを求めていることに対する、相互尊重の原則を根拠にした対抗措置だった。しかし、リオデジャネイロオリンピックの期間(2016年6月1日ー9月18日)は日本人、アメリカ人、カナダ人、オーストラリア人を対象に一方的に観光ビザを免除し、その延長上として2019年6月17日以降はこれら4ヶ国から入国する外国人を対象に観光ビザの免除となった。これにより日本人は南米全ての国にビザなしで入国が可能となった。(1回につき90日以内の滞在、1年間のうち合計180日間無査証で滞在可能)
パレスチナ
2010年12月パレスチナ自治政府 を国家承認した[ 23] 。また、2016年2月には西半球の国では初のパレスチナ大使館も設立した[ 24] 。
日本との関係
サンパウロ の日本人街 「リベルダージ 」
地域で有名な見本市
第35代大統領 ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ と第91代内閣総理大臣 福田康夫 (2008年のG8・北海道洞爺湖サミット )
日本との外交関係は1895年 の修好通商航海条約調印から始まり、1897年 に両国内に公使館 を開設。1908年6月には日本からの本格的移民が開始され、笠戸丸 がサントスに入港した。その後第二次世界大戦 中の断交状態(ブラジルは連合国として参戦)と1950年代初頭の国交回復を経て、常に活発な人的、経済的交流が行われており、その距離の遠さにもかかわらず世界各国の中でも特に日本との縁が非常に深い国である。
1908年に最初の本格的な集団移民、いわゆる「笠戸丸移民」が到着して以降、第一次世界大戦 期や第二次世界大戦を経て、1950年代 に日本政府の後援による移民が停止されるまでにブラジルに渡った日本人移民の子孫は5世、6世の世代になり、サンパウロの世界最大級の日本人街 「リベルダージ 」を中心に、海外で最大の日系人 社会(約200万人[ 25] [ 26] [ 27] [ 28] [ 29] )を持つなどブラジル社会に完全に溶け込んでいる。
1923年から1940年まで、五島 出身のドミンゴス中村長八神父 が初の海外派遣日本人宣教師として、サンパウロ州 、マットグロッソ州 、パラナ州 、そしてミナスジェライス州 南部の計4州で活躍した。「生ける聖人」と呼ばれており、現在、列福調査が進められている[ 30] 。
日系ブラジル人 は政治や経済などで、高い地位に就くものも多いほか、特に長年の農業における高い貢献は非常に高い評価を得ている。2007年2月には、2世のジュンイチ・サイトウ 空軍大将が空軍総司令官に任命され、ブラジル軍の最高位ポストに就いた初の日系人となった[ 31] 。
また、1950年代 以降、日本の高度経済成長期 にかけて東芝 やトヨタ自動車 、東京海上日動 、コマツ 、ヤクルト本社 、日本航空 など、重工業から金融、サービス業や運送業に至るまで、さまざまな業種の日本企業がサンパウロを中心に2018年 時点で500社以上進出しており[ 32] 、世界でも有数の規模の日本人学校 、サンパウロ日本人学校 など、ブラジル国内に複数の日本人学校があるほか、日本においてもブラジルの音楽やスポーツ、料理などの文化が広く親しまれており、また、両国間の人的交流が活発にあるなどその関係は非常に深いものがある。在留邦人は約5万人(2018年)、在日ブラジル人は約20万人(2019年、法務省)である。
1962年 に両国による合弁事業であるウジミナス 製鉄所へのODA による融資を行って以降、電気や港湾、衛生設備など、各種インフラ の充実を中心としたODAが継続的に行われている。しかしながら、ブラジルが工業国であり比較的インフラが整っていることから、近年はインフラでも環境、衛生関係の技術的要素に特化されたものとなっている。日本人学校めぐみ学園などがある。
国家安全保障
サルヴァドール・ダ・バイーア でのパレード
ブラジリア のブラジル軍
空母サン・パウロ
1889年の共和制革命で主要な役割を果たしたことがおもな理由となり、軍は伝統的に政治に強い影響力を持ち、1920年代ごろから「テネンチズモ 」(テネンテ =中尉 から転じて青年将校 を指す)と呼ばれる、革新的な青年将校が強い影響力を持って政治を進めようとする傾向が生まれ、ヴァルガス体制の設立にも協力した。その後1964年から1985年まで軍政下にあったこともあり、民政移管に際しても大きな影響力を政界に残した。そのため、かつて軍は「ブラジル最大の野党」と呼ばれていた。
また、ブラジルは第一次世界大戦 、第二次世界大戦 ともに連合国側で参戦し、第二次世界大戦に連合国 として参戦した際には、ラテンアメリカで唯一陸軍 をヨーロッパ戦線(イタリア戦線 )に派遣した(ブラジル遠征軍 )。その後、1965年のドミニカ共和国 の内戦 の治安維持に派遣され、アメリカ合衆国主導による、ボッシュ 派社会改革政権崩壊への積極的な協力を行った。
1982年 のフォークランド紛争 の敗北によってアルゼンチンの軍事政権が崩壊した後は、長らく最大の仮想敵国 と見ていたアルゼンチンとの融和政策が実現し、それまで続いていた軍拡競争が終わったために現在は周辺諸国との軍事的緊張関係はなくなった。ただし、国土が広大で人口も多いために、依然として南アメリカで最大規模の軍事力を保持する。
12か月の徴兵制 を敷いており、総兵力は約32万人ほどである。陸軍 ・海軍 ・空軍 の三軍 が存在する。軍事政権期には核開発計画を進めていたが、1988年にアルゼンチンとともに核計画の放棄を宣言した。
近年は国連 のPKO に積極的に派遣されている。また、各種軍用機 や軍用車両の国産化が進んでおり、特にブラジルの航空機産業の基盤を生かした一部の軍用機は自国や南アメリカの周辺国のみならず、ヨーロッパや中東 諸国、オセアニア にも輸出されている。
俸給と軍人年金の支払いだけで各軍の予算は圧迫されており、装備の維持と更新に必要とされる予算は不足している。陸軍の全保有車両の78%は運用開始から34年以上が経過しており、一部のトラックは第二次世界大戦中に使用されたものもあるとされる。火砲の大半も第二次世界大戦時のものだとしている。1437両の装甲戦闘車両のうち42%から70%は使用不能で、6,676両の車両のうち40%は使用不能である。弾薬は必要量のわずか15%しかない。海軍も同様に困難に直面している。海軍は7,000キロを越す海岸線を警備するために21隻の水上艦艇しか保有しておらず、しかも可動状態なのは10隻程度のみで、そのうちの多くは制限つきで運用されている。5隻ある潜水艦のうち完全な可動状態は1隻のみで、ほかに2隻が制限つきで運用されている。海軍航空隊の58機のヘリコプターのうち、27機(46%)も作戦不能状態にある。空軍保有の航空機のうち満足に使用できるのは267機のみで、残る452機は予備部品不足と整備不良で飛行不能とされる。この問題を悪化させている要因として、保有航空機の60%が運用20年経過、もしくはそれ以上の老朽機であるためとされる。
近年の軍事費の対GDP比は1.5%程度で推移している[ 33] が、その広大な国土と多数の人口規模に比して、2009年の予算総額は297億ドルと圧倒的に少ない。2011年の予算は354億ドルとなり、若干の微増になってはいるものの、装備の近代化はまったく進んでいないのが実情である。
陸軍
兵力19万人を擁する。PKOのため、ハイチ に展開している。
海軍
兵力6万7,000人を擁する。長らくラテンアメリカで唯一の空母 を保有する海軍であったが、財政事情などから唯一の空母「サン・パウロ 」の近代化改修を諦め[ 34] 、2017年2月に同艦を退役させた[ 35] 。2007年、原子力潜水艦 建造計画が持ち上がり、フランスの技術援助を受けて、2020年を目処に原子力潜水艦の配備を計画している。
空軍
兵力7万700人を擁する。主要装備はイタリア と共同開発した亜音速ジェット軽攻撃機AMX や、双発ターボプロップ 機のエンブラエル EMB 110 など。2007年2月、日系2世のジュンイチ・サイトウ 大将が空軍総司令官に任命された。
地理
アマゾン川
サンタカタリーナ州 サン・ジョアキン の雪
ブラジルの地形図
国土は、流域を含めると705万km²及ぶアマゾン川 と、その南に広がるブラジル高原に分けられるが、広大な国土を持つだけにさまざまな地形があり、北部は赤道 が通る熱帯雨林気候 で、大河アマゾン川が流れる。近年、環境破壊によるアマゾン川流域の砂漠化が問題となっている。
最高峰はベネズエラとの国境近く、北部ギアナ高地 にあるネブリナ山 で、標高3,014メートルである。熱帯には「セハード 」と呼ばれる広大な草原が広がり、エマス国立公園 も含まれている。また、北東部は、沿岸部では大西洋岸森林 が、内陸部では乾燥したセフタン (ポルトガル語版 、英語版 ) が広がり、セフタンはしばしば旱魃 に悩まされてきた。
南西部のパラグアイ、アルゼンチンとの国境付近には有名なイグアスの滝 のある、ラ・プラタ川 水系の大河パラナ川 が流れる。ほかにネグロ川 、サン・フランシスコ川 、シングー川 、マデイラ川 やタパジョス川 がある。また、ボリビアとパラグアイとの国境付近は世界最大級の熱帯性湿地とされるパンタナール 自然保全地域となっている。
ブラジル南部3州ではブラジル高原はウルグアイ、アルゼンチンへと続くパンパ (大平原)との移行地帯となり、伝統的に牧畜が盛んでガウーショ (ガウチョ)も存在する。南部はコーノ・スール の一部として扱われることもある。
また、ブラジル南部は沖縄本島 や薩南諸島 などの対蹠地 にあたり、また国土の大半が南半球 となるため、季節は日本とはおおよそ正反対になるが、熱帯 ではない南部以外ではあまり意識されることはない。
気候
ケッペンの気候区分 によると、国土の93%は熱帯 地域に属す。気候は亜熱帯 性気候、半砂漠 型サバナ気候 、熱帯雨林気候 、熱帯モンスーン気候 、高地の亜熱帯性気候、温帯夏雨気候 、温暖湿潤気候 に分類できる。大西洋沿岸は全体的に温暖なため、リオデジャネイロやレシーフェなどのリゾート 地が多い。南部3州の標高が高い地域では雪が降ることもある。
年間平均気温
アマゾン地域:22 - 26℃
大西洋沿岸地域:23 - 27℃
内陸部高原地域:18 - 21℃
四季 :緯度によって異なるが、以下の通りである。
春 :9月22日から12月21日
夏 :12月22日から3月21日
秋 :3月22日から6月21日
冬 :6月22日から9月21日
ブラジルの春、サンパウロに咲く桜
ブラジルの夏、レシフェの街のビーチ
ブラジルの秋
ブラジルの冬
地方行政区分
ブラジルの地図
ブラジルは5つの地域 に分かれ、それらの地域は26の州(Estado、エスタード)と1つの連邦直轄区(首都ブラジリア)から構成されている。州はムニシピオ (市・郡に相当)に分けられ、全国で5,564のムニシピオが存在する。
ブラジルの地域 (英語版 ) と州 の区分。 (A. 北部 、B. 北東部 、C. 中西部 、D. 南東部 、E. 南部 )
アクレ州
アラゴアス州
アマパー州
アマゾナス州
バイーア州
セアラー州
エスピリト・サント州
ゴイアス州
マラニョン州
マット・グロッソ州
マット・グロッソ・ド・スーウ州
ミナス・ジェライス州
パラー州
パライバ州
パラナ州
ペルナンブコ州
ピアウイー州
リオデジャネイロ州
リオ・グランデ・ド・ノルテ州
リオ・グランデ・ド・スーウ州
ロンドニア州
ロライマ州
サンタ・カタリーナ州
サン・パウロ州
セルジッペ州
トカンティンス州
ブラジリア連邦直轄区
主要都市
都市
行政区分
人口(人)
都市
行政区分
人口(人)
1
サンパウロ
サン・パウロ州
12,396,372
11
ベレン
パラー州
1,506,420
2
リオ・デ・ジャネイロ
リオ・デ・ジャネイロ州
6,775,561
12
ポルト・アレグレ
リオグランデ・ド・スル州
1,492,530
3
ブラジリア
ブラジリア連邦直轄区
3,094,325
13
グアルーリョス
サン・パウロ州
1,404,694
4
サルヴァドール
バイーア州
2,900,319
14
カンピーナス
サン・パウロ州
1,223,237
5
フォルタレザ
セアラー州
2,703,391
15
サン・ルイス
マラニョン州
1,115,932
6
ベロ・オリゾンテ
ミナス・ジェライス州
2,530,701
16
サンゴンサロ
リオ・デ・ジャネイロ州
1,098,357
7
マナウス
アマゾナス州
2,255,903
17
マセイオ
アラゴアス州
1,031,597
8
クリチバ
パラナ州
1,963,726
18
ドゥケ・デ・カシアス
リオ・デ・ジャネイロ州
929,449
9
レシフェ
ペルナンブーコ州
1,661,017
19
カンポ・グランデ
マットグロッソ・ド・スル州
916,001
10
ゴイアニア
ゴイアス州
1,555,626
20
ナタール
リオグランデ・ド・ノルテ州
896,708
2021年国勢調査[ 36]
経済
サンパウロ はビジネス、文化、政治などを総合評価した世界都市格付け で世界34位の都市と評価された[ 37]
ブラジル第二の都市リオデジャネイロ (イパネマ海岸、レブロン海岸を望む)
エンブラエル EMJ-170LR
IMF の調査によると、2013年 のGDP は2兆2,460億ドルであり、世界7位、南米では首位である。一方、1人あたりの名目GDPは1万1,173ドルであり、先進国 と比較すると依然低い水準である。
建国以来長らく、イギリス やアメリカ合衆国 、日本 をはじめとする先進国 からの重債務国であったが、ブラジルの支払い能力に応じたものであった。しかし、1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都した。クビシェッキは積極的な外資導入などにより日本やアメリカなど諸外国での評価は高かったものの、ブラジリア建設と遷都などの強引な手法、そして経済的な混乱を招いたことに対してブラジル国内では現在でも賛否が大きく分かれている。1968年から1973年にかけてはクビシェッキの狙い通り、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成したが、第一次オイル・ショックによって挫折を余儀なくされた。1970年代の経済政策の失敗により、外貨準備は底を尽き、さらに債務が激増していった。
1980年代には中南米を襲った債務危機に直面し、メキシコ 、アルゼンチン 、ペルー と並ぶ財政破綻国家のひとつとして数えられ、インフレ と莫大な累積債務 に苦しんだ。1980年半ばに入ると、世界的な金利上昇を契機にブラジルはマイナス成長を記録した。南米随一の大国ブラジルとはいえ、ブラジルの国家財政は限界に達しており、1983年には対外債務不履行 を宣言した。その結果、海外資本の流入は途絶え、国内の投資も鈍化。さらに対外債務の負担によって公共赤字が増大し、更なるインフレを加速させる結果となる。1980年代の後半には1,000%以上のインフレが起こり、1993年には2,500%という途方もないハイパーインフレを招いてしまい、ブラジル経済は破綻した。従業員へのチップは100万クルゼイロ(アメリカ・ドルの1ドル以下の価値)、安いホテルの宿泊料は1億クルゼイロという途方もない額で、事実上、通貨は紙切れ同然となり紙幣の枚数を数えることができないため、重さで換算していたほどである。この間の混迷によって中間層の多くは没落し、富裕層の海外脱出が続くなど経済は混迷の度を深めた。
しかし、一向にインフレは止まらず、ハイパーインフレ期の末期にはアメリカ・ドルしか流通しなくなってしまった。苦渋の選択の末にブラジル政府は当時の通貨クルゼイロ を、合計4回にわたってデノミ を行い、通貨の価値を実に2兆7,500億分の1という切り下げを断行し、新通貨レアル に交代した。1994年 になって、新通貨レアルとともに「レアル・プラン」と呼ばれるドル・ペッグ制 を導入することによって、ようやくハイパーインフレを抑えることに成功。その後、1999年に起こったブラジル通貨危機により、一時は国家破綻寸前まで陥った。IMFと米国の緊急融資により、何とか破綻は回避された。その一方で隣国のアルゼンチン は2002年にデフォルトしている。金融危機を乗り越えると、カルドーゾ政権下で成長を遂げるようになり、ルーラ政権では発展途上国向けの貿易拡大が行われ、ブラジルは長く続いた累積債務問題の解消へ向かう。その後の経済の回復とともに2007年には国際通貨基金 への債務を完済し、債務国から債権国に転じた。
メルコスール 、南米共同体 の加盟国で、現在ではロシア 、中華人民共和国 、インド と並んで「BRICS 」と呼ばれる新興経済国群の一角に挙げられるまでに経済状態が復活した。重工業、中でも航空産業が盛んで、エンブラエル は現在、小型ジェット機 市場の半分近いシェアを誇り、一大市場である欧米諸国や日本などのアジア各国をはじめとする世界各国へ輸出されているなど、その技術力は高い評価を得ている。
公衆衛生・教育などの公共サービスや交通インフラの水準は先進諸国に比べ低く、沿岸部と大陸内部の経済的な格差や貧富の格差がとても大きいが、経済や財政の好転を背景に近年急速に改善されつつあり、貧困層の生活水準の底上げは内需の拡大にも貢献している [要出典 ] 。
また、GDPにおける税の割合は30%を超えており、BRICS諸国で突出している。これは、貧困層への援助のために課税が行われているためであるが、高い税率に嫌気がさしている富裕層からは現政権に対して不満の声があがり始めている。 [要出典 ] 。
2014年からは経済が減速し、建設部門をはじめとする産業界の失業が続出、2015年にはマイナス成長(-3.5%)記録している[ 38] 。ペトロブラス の汚職問題(オペレーション・カー・ウォッシュ )など政治の混乱もこれに拍車をかけている。全般的に新興国の景気が低迷する中で、ブラジルの景気後退は特に強いとされる[ 39] 。大企業の業績低迷も深刻であり、国内主要15社の負債総額は1,500億レアルにおよび、債務不履行の可能性があると危惧されている[ 40] 。
経済改革
2016年、憲法を改正して歳出の伸びに20年にわたる上限(キャップ)を設定した。本改正は2036年までの20年間、利払いを含まない連邦歳出の伸びを前年のインフレ率の範囲内に抑える、すなわち歳出を実質ベースで2016年レベルに固定せんとするものである[ 41] 。
工業
安価な労働力と豊富な天然資源により、ブラジルは2004年 度の国民総生産 (GNP)で世界第9位に位置し、南半球 および南アメリカ の国家における最大の経済規模を有する。
第二次世界大戦 後の1950年代 以降、急速な工業化を推し進めるとともに経済発展を遂げ、軍事政権の外資導入政策によって1960年代 後半から毎年10%を超える成長率を見せ、「ブラジルブーム(安い人件費で腕のいい熟練の労働者が得られる、豊かな資源がある)」となる。
これにより日本やアメリカ、ドイツやフランス などのヨーロッパ 諸国などの先進工業国からの直接投資による現地生産や合弁企業の設立も急増し、自動車 生産や造船、製鉄では常に世界のトップ10を占めるほどの工業国となったが、1950年代後半に当時のジュセリーノ・クビチェック 大統領の「50年の成長を5年で」の号令下でスタートした首都ブラジリア 建設の負担や、1970年代 初頭のオイルショック 、さらには外国資本の大規模な流出などで経済が破綻した。
これらの結果1970年代 後半には経済が低迷し、同時に深刻な高インフレ に悩まされるようになったため、これ以降グルジェル (自動車 メーカー)のように業績が悪化・倒産する企業が相次いだ。また経済の悪化を受け、1980年代 にかけてクライスラー や石川島播磨(現・IHI )、ヤオハン など多数の外国企業が引き上げてしまい、同時に先進国 からの負債も増大した。
しかしレアル導入後の1990年代 後半からはインフレも沈静化し、2000年代 のルーラ政権では発展途上国向けの貿易拡大が行われ、ブラジルは長く続いた累積債務問題の解消へ向かう。2007年には国際通貨基金 への債務を完済し、債務国から債権国に転じた。2010年代初頭にはロシア 、中華人民共和国 、インド 、南アフリカ共和国 と並んで「BRICS 」と呼ばれる新興経済国群の一角に挙げられるまでに経済状態が復活し、地場資本による工業投資も活発に行われている。
農業
ペルナンブーコ州 のレシーフェ
農業では、かつてはブラジルボク やゴム の生産を中心とした。ブラジルボクはポルトガル語でパウ・ブラジルと呼ばれ、赤茶色の木地を持つ、堅く重たい木である。当時、赤 の染料が貴重であったことから、赤の染料の原料となるこの木の経済価値が高かった。乱伐により一時は枯渇しかかったが、その後植林が進められて現在でもパウ・ブラジルでできた土産物などが現地で売られている。
19世紀 までブラジルはゴム栽培を独占し、アマゾン川中流域のマナウス は大繁栄し、アマゾンの中心にオペラハウス が建設された。しかしペルーのイキトス やボリビアのリベラルタ をはじめとする周辺国へのゴム栽培の拡大があり、さらに19世紀後半のイギリスによるマレーシア へのゴムの密移入によりアマゾンのゴム栽培は大きく衰退した。
プロデセール
1970年代から21世紀初頭にかけては、日本 によるナショナルプロジェクト「セハード 農業開発プロジェクト」(プロデセール)が3期にわたって行われ、その結果、ブラジル内部のセハード地帯(セハードとは「閉ざされた」を意味する)を中心とする農業発展が急速に進んだ。その際、日本とブラジルは共同事業として日伯セハード開発公社(CAMPO社)を現地に設立してプロジェクトの進捗管理を行うとともに、開発面積と同規模の保留地を耕作地周辺に確保するなど、農業開発と環境保全の両立を率先して行った。
また同時に、現地に適した種子の開発や栽培方法の確立などについても、ブラジル国内に専門の研究所を設立して支援するなど、日本はハード面とソフト面の両面にわたって支援し大きな成果を残した。現在では、ブラジルは大豆 の生産ではアメリカに次ぐ世界第2位の地位を占めている。また、日本が大豆を輸入する相手国としても、ブラジルはアメリカに次いで第2位である。
牧畜
歴史的にリオグランデ・ド・スル州 やミナスジェライス州 を中心に牧畜が盛んであり、近年まで「1ヘクタールに足1本」とまで言われていた。最近では都市近郊の農家の所得向上と相まって集約的な畜産業が行われるようになってきており、特にサンパウロなど大都市周辺の養鶏などは近代的システムの下で行われている。鶏肉については加工肉を中心に日本に相当輸入されているものの、牛肉については口蹄疫 などの検疫 上の問題が依然として存在している。ブラジルは数十年にわたる徹底的な口蹄疫対策により、2000年と2001年の発生以降は報告されておらず、清浄国として扱われている[ 42] 。
2000年代 以降、アマゾンやパンタナル の熱帯雨林地域を開発して大規模な牧場 を造成し、ウシ の飼育をする業者が現れると環境破壊として問題視されるようになった。
環境破壊が疑われている牧場のウシが流通・販売業者から忌避されると、クリーンな牧場へウシを売却した後に転売する食肉ロンダリングが横行するなどいたちごっこが続いた[ 43] 。
サトウキビとコーヒー
植民地から、独立後の帝政期にかけてのブラジルの北東部ではサトウキビ のプランテーション 栽培が盛んだった。カリブ海 諸国と同様に、サトウキビを作るときは労働力としてアフリカ から連れてきた奴隷 を働かせた。しかし、米州 でももっとも遅い1888年にようやく奴隷制が廃止されると、栽培の主流作物もサトウキビからコーヒー へと移り、大量導入していたヨーロッパからの移民を労働力におもに南東部のサンパウロ州 を中心にしてコーヒー豆 の栽培が進んだ。その後ヨーロッパ諸国と移民の待遇をめぐって対立すると、今度は日本人移民獲得のため、1908年に第1回目の日本人移民が行われた。サトウキビは砂糖の原料になるだけでなく、バイオエタノール に精製されてガソリンの代わりの燃料に使われている。
コーヒー の輸出量は、世界第1位である。これは、人的労働が重要なコーヒー 生産において、なにより安い労働力を得やすいという事情によるところが大きいが、霜の降りにくい高台地帯の広いことも幸いしている。しかし、コーヒーの過剰生産により、国際価格が暴落。コーヒーへの依存度を下げるために、トウモロコシ・大豆・サトウキビなどの栽培が奨励された。ブラジルにおけるコーヒー生産 も参照。
焼畑農法
貧困層がアマゾン熱帯雨林 でいまだに焼畑農法 を行っており、自然環境の破壊につながるとして問題視されているが、むしろ同地域を大規模に焼き払うのは当地での農業生産を目指す企業である場合が多い。一方、ブラジル東北部の乾燥地域では生活そのものが苦しく、政府が募った入植に応じた農業者が生活を行っているが、生活はきわめて厳しく、都市部の生活者との経済的格差は極めて大きい。森林率 の減少に歯止めがかからない状況から、近年では人工衛星 画像を使った監視網などが整いつつある。
日系移民者の貢献
かつて日本人が農業移民 としてブラジルに入植して以来、日本人は「農業の神様」と呼ばれ、現在に至るまでブラジル社会における日系ブラジル人 の高いステータスを確保する重要な礎になっている。ブラジルの首都ブラジリアが建設された際には、首都建設に必要な食料生産を日系人に任せる目的で、当時の政府はブラジリア周辺に日系人を入植させた。日本人の農業を通じたこうした功績に対し、ブラジリア建設40周年記念式典の際には、日系人に対して連邦区知事から特別に感謝の言葉が述べられた。
果実生産も日本の経済協力を契機に盛んになっており、特に南部サンタ・カタリーナ州 におけるリンゴ 栽培などへの協力は、ブラジルにおける日本のプレゼンス向上に大いに役立った。リンゴ栽培に関するブラジル側研究施設の所長に日系人が抜擢されたこともあるうえ、同協力に殉じた日本人研究者の胸像まで設置されているなど、日本の農業協力のひとつの象徴として位置づけられる。また、2005年 9月29日 解禁のマンゴー の対日輸出は、両国政府の間で20年以上にわたる懸案となっていたものである。
エネルギー
ペトロブラス は、1953年に経済的独立のための国営企業として成立した。その後、民営化プロセスに成功し企業は急拡大、カナダ のオイルメジャー を買収し、欧米のオイルメジャーと張り合える存在となっている。カンポス沖とサントス沖を中心に油田を多数保有し、最近発見相次ぐ新型油田により近い将来輸出国への転換を見込んでいる。ペトロブラスには、深海での石油開発能力、技術力において他メジャーよりも先行しており、未開発な箇所が多い深海油田をめぐり優位な立場で開発を行うと見られる。また、サトウキビ栽培によるバイオエタノール 生産では2007年現在唯一、内需より生産量に余裕があり、輸出を行える状況にある。バイオエタノール の世界市場において、ブラジルが占める割合は7割以上に達する。エネルギー資源の確保について世界的に問題が深刻化するであろう今後、ブラジルのエネルギー市場での存在感が2000年代初頭より急激に大きくなっている。ペトロブラスは2006年に沖縄の石油精製企業南西石油を買収し子会社化したが、2011年に株式売却意向を発表した。2015年には大規模な贈賄事件が発覚し、またブラジル経済の低迷と世界的な原油安の影響もあって巨額の赤字を出している[ 44] 。
ブラジルは水資源が豊富で、水力発電 が占める割合は大きい。パラグアイと共同建設した同国国境地帯のパラナ川 流域に位置する世界最大のイタイプー・ダム から電力を買っているほか、国内各地にダム がある。
天然ウラン の資源量は2019年時点で世界第8位であるが、開発は進んでおらず生産量は少ない[ 45] 。また、原子力電力もまだまだ少ない。
観光
ブラジルにおいて観光業は成長分野として見られており、現今も同国内の幾つかの地域における経済の「鍵」とされている面がある。
外国人 観光客 は主にアメリカ州 の国々(アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ペルー、チリ、エクアドル、コロンビア、ベネズエラ、コスタリカ、メキシコ 、キューバ 、ドミニカ共和国 、米国 、カナダ )が多い。
次いでヨーロッパ州 の国々(スペイン 、イタリア 、フランス 、ドイツ 、イギリス 、ギリシャ 、アイルランド 、オランダ 、ベルギー 、スイス 、ポルトガル、ロシア )から訪れる外国人が中心となっている。
他にはオセアニア ではオーストラリア から、アジア では中国 、韓国 、日本 からの観光客が同国を訪れていることが判明している。
交通
旅客および貨物輸送の約85%を道路輸送に依存しているが、国土が広大なことより古くから航空運送が盛んなうえ、長い海岸線や豊富な河川を元にした水上輸送も盛んに行われている。
陸運
アルコール(右)とガソリン両方のポンプが用意されたガソリンスタンド
第二次世界大戦後は自動車 の一般層への普及が進むとともに、高速道路網が急速に発達した。自動車の燃料として1970年代後半より政府主導のもとアルコールが普及しており、多くの自動車メーカーがアルコール燃料車を用意しており、大抵のガソリンスタンド でアルコール燃料車にアルコールを入れることができる。最近ではフレックス燃料車 (ガソリンとアルコールのどちらでも動かせる車、混入可)が注目されている。
なお現在はヨーロッパや日本などと比べて排気ガス規制が甘いこともあり、都市部を中心に排気ガスによる大気汚染が深刻化しており、渋滞とともに大気汚染の緩和を目指してさまざまな対策が試されている。
現在の道路の総延長距離は165万キロであり、旅客および貨物輸送の約85%が道路輸送に依存している。サンパウロやリオデジャネイロ、ブラジリアなど都市部近郊の道路、および幹線道路のほとんどが舗装整備されており、また、第二次世界大戦後の自動車産業の発達と自動車産業保護の観点から道路網の整備に重点が置かれていたこともあり、一般層への普及に合わせて沿岸都市部を中心に高速道路網が急速に発達した。
しかし、大気汚染や渋滞削減などの観点から、近年は鉄道への注目が高まっており、都市圏における地下鉄や通勤電車の整備が進められているだけでなく、サンパウロ - リオデジャネイロ間の高速鉄道の整備も計画されており、日本の新幹線 の導入も検討されているが現時点では長距離鉄道は貨物のみである。
バス
トロリーバス
高速道路網の発展とともに、寝台設備やトイレ 、エアコン 完備した長距離バス による路線網が国中に張り巡らされ、手軽で安価な交通手段として重宝されている。ただし、21世紀 に入ってからは安くもなくなった。また、アルゼンチンやウルグアイ、パラグアイなどの近隣諸国との間の長距離定期バスが両国の主要都市の間で運行されている。飛行機と違い、バスの切符は直前でも予約なしで手に入りやすい。
多くの都市では市内鉄道や地下鉄 路線網が整備されていないことから、おもな市内交通手段として市バスが使用されているほか、サンパウロをはじめとするいくつかの大都市ではトロリーバス も運行されている。ほとんどのバスは外国資本や民族資本の企業によってブラジルで自国生産されており、連接バスや2階建てバス、歩道側だけでなく運転席側にも客用ドアを設置したバスなど多彩な車種が走っている。またその多くが国外へ輸出されている。
鉄道
航空機 やバスによる長距離移動網が古くから整えられていたことや、自動車業界保護の観点から道路網の整備に重点が置かれていたこともあり、鉄道 の総延長は2000年 現在で2万9,283キロとその広大な国土に比べて少ないうえ、そのほとんどが沿岸部に集中している。また、貨物輸送が中心で、旅客輸送は大都市近郊に限られる。なお、鉄道による貨物輸送のシェアは20%強となっている。
上記のような理由から都市間を結ぶ長距離鉄道網[ 注釈 4] や都市近郊の鉄道網の整備も遅れていたが、サンパウロやリオデジャネイロなどの大都市では1970年代 以降、交通渋滞解消や省エネルギー、排気ガスによる大気汚染の解消などの目的から、地下鉄や郊外との通勤電車の整備が進んでいる。なお車両は1980年代までは国内設計・生産のものが一定数みられたが、それ以降は国産ではなく日本やドイツ、韓国などからの輸入、ノックダウン、ライセンス生産となっている。
航空
A320 NEO
国土が広大なために古くから航空網が国中に張り巡らされており、現在国内に2,000を超える空港を有しており、アメリカやロシア などと並ぶ航空大国として知られている。特にサンパウロとリオデジャネイロ間のシャトル便 「ポンテ・アエレア」は世界有数の運送量を有する。
近年では、もともとはローカル線専門であったLATAM ブラジル と、もともとはフラッグ・キャリア であった老舗のヴァリグ・ブラジル航空 を傘下に収めた新興航空会社のゴル航空 (ゴウと発音)、アズールブラジル航空 の3社を筆頭に格安航空会社 がその勢力を伸ばしている。
さらに長距離鉄道網が発達していないことから、かつては長距離バスが都市間を結ぶ安価な移動手段となっていたものの、近年は上記のような格安航空会社がそのシェアを奪っている。場合運賃の差は2倍以下に縮まっている。
科学技術
20世紀の間、ブラジルは基礎研究や先端技術では欧米諸国に遅れを取ってしまったが、それでもライト兄弟 と同様に飛行機 開発のパイオニアだったアルベルト・サントス・ドゥモン のように(フランスに移住して活躍、第一次世界大戦に失望しブラジルへ永住帰国、フランスの市民権も持つ)、科学技術の発展に大きな貢献をもたらした技術者が存在し、近年では1970年代から進められた燃料用エタノール の研究により、この分野では世界的なパイオニアとなっている。
人文科学 や社会科学 においても、「人種民主主義論 」を打ち出し、文化相対主義 的な立場からアフリカ系ブラジル人 とブラジルのナショナリズムを結びつけた人類学者ジルベルト・フレイレ や、アンドレ・グンダー・フランク 以来停滞していた従属論 経済学を用いて、第三世界の経済発展のあり方を模索した経済学者フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ や、第三世界の識字教育に大きな貢献をもたらし、「エンパワメント 」などの概念を発達させた教育学者パウロ・フレイレ などがブラジル出身の世界的に有名な学者として挙げられる。
国民
人種と民族
ブラジルの先住民
ブラジル人は大きく4つのグループに分かれる。主にトゥピー・グアラニー語族の言葉を話す先住民 ( グアラニー人 、アマゾン先住民など)、植民当時のポルトガル 系、アフリカ からの黒人 奴隷 の子孫(アフリカ系ブラジル人 )、そして19世紀 半ばからブラジルに定住するためにポルトガル以外のヨーロッパ 、中近東 、日本 を中心としたアジア諸国からやってきた移民である。
ヨーロッパ系ブラジル人 (英語版 ) の多くは元ポルトガル人 で、植民地時代はポルトガル人と原住民、黒人奴隷との雑婚が常態であった。独立後に続くイタリア人 やスペイン人 、ポルトガル人 、ドイツ人 、ポーランド人 、ウクライナ人 、ロシア人 、アシュケナジム 系ユダヤ人 などのヨーロッパ系や、日本人 、アラブ人 (シリア人 、レバノン人 )、中国人 などのアジア系 の移民の波や、独立後も続いた黒人奴隷の流入がブラジルの多様な民族と文化の形成に貢献し続けている。なお、ヨーロッパ系ブラジル人は移民数で最多を占めたイタリア系が最多ともいわれている。もっとも今や混血が進んでおり、正確なことは曖昧で把握できない。
北東部はアフリカ系ブラジル人 やムラート (白人と黒人との混血)が多く、南部はおもにドイツ系 やポーランド系 、ウクライナ系 をはじめとする中東欧系住民が、南西部はイタリア系 やスペイン系 (ポルトガル語版 ) 、ポルトガル系 、アラブ系 、日系 をはじめとして、サンパウロ州のコーヒーブームにより現存するほぼすべてのエスニシティの移民が流入していたなど、地域差も見られる。
2010年 以降は白人人口は半数を割り込み、「黒人」「混血」が過半数を占めた[ 47] 。
言語
ポルトガル語圏を表す地図
公用語 はポルトガル語 (ブラジル・ポルトガル語 )であり、ブラジル生まれの国民のほとんどにとっての母語 でもある。ただし、ブラジルで使われるポルトガル語は語彙の面でアフリカやインディオの影響を受けているため、ブラジル・ポルトガル語 と言われるほど本国ポルトガル のポルトガル語(イベリア・ポルトガル語)とは多少異なっている。日本はポルトガル語圏諸国の中ではブラジルとの交流関係が圧倒的に多いため、あえてポルトガルのポルトガル語と特記されていない限り、日本国内の語学教科書や語学講座で教えられているポルトガル語はブラジル・ポルトガル語であると考えて差し支えない。ブラジル国内でも多少の方言は存在する。また日本のブラジル系移民では、日本独特のポルトガル語表現が存在する。1940年代のヴァルガス時代にブラジルのポルトガル語をブラジル語と呼ぶべきか否かをめぐってブラジル語論争があったが、結局ブラジル語なるものは存在せずに、ブラジルの言葉はポルトガル語の方言であることが確認された。ただし、ナショナリズムの観点からブラジル語という言葉を用いるブラジル人は今でも存在する。
なお、ブラジルにおける外国からの移民第1世代の中には、イタリア語 やドイツ語 、日本語 や中国語 なども使う者も多く、ブラジル生まれの2世以降においても家庭や各種教育機関においてこれらの言語を習得し、これらの言語に堪能な場合が少なくない。たとえばドイツ語は南部のテウト・ブラジレイロ たちに6世まで受け継がれて話されている。ブラジルで話されている外国語は多くの場合方言であり、ドイツ人入植地域では村同士でドイツ語会話が困難な場合があり、その場合はポルトガル語を話す。また北部イタリア移民の言語であるタリアンやヴェネトと呼ばれるスイスの一部にも及ぶ北部イタリア語が、パラナおよびサンタ・カタリーナ東部からリオ・グランデ・ド・スーウ(以下南大河州)にかけて強く残り、北部ドイツからポーランドにおけるポメラノ語 は、エスピリト・サント、サンタ・カタリーナ、南大河州で使用されている。ドイツ西部のフランス国境付近の言語であるフンスルキッシュ語 は、南大河州のサン・レオポルド やサンタ・クルス・ド・スーウ 、ベナンシオ・アイレス といった各市に残る。リオ・グランデ・ド・スーウ州最南部のウルグアイ国境で、ウルグアイのリベラ 市とつながっているサンターナ・ド・リヴラメント では、リオプラテンセ・スペイン語 とブラジル・ポルトガル語のクレオール言語 であるポルトゥニョール・リヴェレンセ が話されている。日本語はコロニア語とよばれるブラジルの方言が話されている。中国語は大部分が方言で、中国標準語である普通話を話せる人はいるがそう多くはない。また、インディオの言語は180近く存在すると見積もられており、トゥピナンバー系の言語のひとつであるニェエンガトゥ語 は、特にリオ・ネグロの上流、サンガブリエル・ダ・カショエイラでは日常語である。またグアラニー語 はMBYA、NHANDEVA、KAIOWAの3語族に大別されるが、エスピリト・サント、リオ、サンパウロ、南部3州、マット・グロッソ・ド・スーウの各州において約3万人が話す言語である。アマゾン地域には非常にまれながらイゾラード(隔離された人々という意味)と呼ばれる一家族単位のインディオ(インジオと発音)が住んでいる。周辺のインディオやブラジル一般社会と交流がなく、彼らの言語や生活には不明な点が多い。アフリカ系言語であるカフンド語 は、ミナス・ジェライスの中西部のジラ・ダ・タバチンガ の奴隷博物館、サンパウロのサウト・デ・ピラポーラ 市に残っており、ブラジル最北端のオヤポッケ地方ではインディオ語やアフリカ語、フランス語 の交じり合ったカリプナ語 などがある。
宗教
コルコバードのキリスト像
ブラジルは、世界でもっとも多くのカトリック 人口を擁する国である。国民の約73%がカトリックの信者で、これは1億1,240万人に相当し、カルナヴァルなどをはじめとして現在も社会に強い影響を持つ。プロテスタント 信者も1970年代より伝統的なルター派 、プレスビテリアン 、バプティスト などが増加し、近年はペンテコステ派 やネオペンテコステ派も増加している。プロテスタントの信者は人口の15.4%となっている。
ブラジル世論調査・統計機関(IBOPE)の調査によると、有権者の27%は福音派信者だという。地理統計院(IBGE)のデータでの福音派信者の割合は1991年にはわずか8%、2010年でも22%だった[ 48] 。
1600万人もペンテコステ派信者がおり、それ以外の伝統的プロテスタント信者は500万人に過ぎない
[ 49] 。
非キリスト教の少数宗教としてマクンバ (ポルトガル語版 、英語版 ) 、バトゥーケ (ポルトガル語版 ) 、カンドンブレ 、ウンバンダ などアフリカの宗教に起原するアフロ・ブラジル宗教がある。特にウンバンダ、カンドンブレは、植民地時代に大西洋奴隷貿易 によってアフリカ人奴隷が多く持ち込まれた北東部 を中心にブラジル全土で信仰されている。現在はアフリカ系ブラジル人 のみならず非アフリカ系の信者の割合も増加している。
ブラジルのイスラム教 はアフリカからの黒人奴隷のイスラーム教徒によってもたらされたが、現在ではおもにアラブ系ブラジル人 の移民によって信仰されており、約55のモスクとムスリムの宗教センターがあると見積もられている。
アジアからも仏教 、神道 、道教 やさまざまな新宗教 などがもたらされているが、日系人の大半がカトリック信者である。1923年から1940年まで、五島 出身のドミンゴス中村長八神父 がサンパウロ州 を中心に、日本人・日系人の間で初めて日本人カトリック宣教師として活躍した[ 30] 。
日本発祥の宗教として創価学会 の会員が存在するが、信者の大部分はブラジル生まれの非日系、非アジア系人である。ほかにも世界救世教 、立正佼成会 、霊友会 、生長の家 、天理教 や世界平和統一家庭連合(旧統一教会) (韓国 起源)などが布教活動をしている。無宗教 者は人口の7.3%である。
婚姻
ブラジルにおいて結婚とは「同じ家に住み、その中で子供を授かること」と捉えられている。その観念は、現在の婚姻に対する意識や法律にも反映されている。
基本として結婚する際には婚姻手続が必要となるが、手続きが受理された場合には当事者の婚姻を新聞で告知する決まりとなっている。これは当事者に結婚に対する責任を持たせると同時に、重婚 を防ぐ狙いがある。その後、結婚に関する異議申し立てがなければ晴れて結婚成立となる。
なお、同国では結婚時に関して男性が18歳以上、女性は16歳以上であることが法的に定められているものの、女性は親ならびに保護者の同意があれば16歳から結婚することができ[ 注釈 5] 、18歳以降からは当事者の意思のみの婚姻が可能となっている。
外国人との婚姻 の際にはIDカード をはじめCPF番号 (英語版 ) など当事者の身分証明に関するものを持参する必要が求められる点から、その過程が少し複雑な場合があることが報告されている[ 50] 。
婚姻の際、自身の名前をそのまま名乗ることも、配偶者の姓に改姓することも、配偶者の姓を付加することも可能。2002年の法改正で別姓が可能となった[ 51] 。さらに、2013年より、ブラジルのどの州においても同性同士の結婚(同性婚 )が認められるようになった[ 注釈 6] [ 52] [ 53] 。
教育
ブラジルを代表する教育理論家パウロ・フレイレ 。フレイレの考案した貧しい人々による識字 教育の取り組みへの理論は、ブラジルのファヴェーラ のみならず、世界中で実践されている
初等および中等教育
初等教育 と中等教育 (日本における高校 以上の教育)、高等教育 (日本における大学 )からなり、初等教育と前期中等教育を併せた義務教育 は8年間、後期中等教育は3年間となっている。義務教育年齢の児童の中、学校に行っている者の率は約97%となっている[ 54] 。また、1990年代 から中等教育を受ける者が急増している。中等教育を終えると高等教育への道が開ける。おもな問題としては初等、中等教育における落第率の高さや教室、校舎数の不足などが挙げられる。1930年代に国民の3分の2が非識字者だったように、かつては初等教育に力は入れられてこなかったが、パウロ・フレイレ らの活躍により初等・中等教育の見直しが行われて現在に至っている。2004年に推計された15歳以上の人口の識字率 は88.6%(男性:88.4%、女性:88.8%)である[ 55] 。2022年時点で6歳から14歳の就学率は99.4%[ 56] 、15歳以上の非識字率は5.6%である[ 56] 。
日系団体としてはブラジル創価学会(BSGI)教育部(文化部のひとつで学校教員によるグループ)の「マキグチ計画」など、一般人の識字活動がある。
高等教育
パラナ連邦大学
植民地時代にはブラジルに大学 は存在せず、エリート層はポルトガルのコインブラ大学 や、ブラジル内の各種高等専門学校で教育を受けた。その後、独立してから1827年にサンパウロとオリンダ (のちにレシーフェに移転)に法科大学 が設立され、ブラジルのエリートを養成する機関になった。正規の大学は20世紀になってからの1912年にクリティーバ のパラナ連邦大学 がようやく建設されたために、ブラジルにおける高等教育の歴史は欧米諸国と比べると長くはない。大学の創設は1930年代のヴァルガス時代に既存の専門学校の改変を軸にして特に重点的に行われた。
おもな高等教育機関としてはリオデジャネイロ連邦大学 (1792年、1920年、1937年)、パラナ連邦大学 (1912年)、サンパウロ連邦大学 (1933年)、サンパウロ大学 (1934年)などが挙げられる。
保健
Sistema Único de Saúde と呼ばれる公衆衛生機関ならび制度が存在する。
医療
社会
ブラジルはラテンアメリカ諸国の中で汚職が極めて蔓延している。
治安
ブラジルの治安は非常に悪い。市民の間で違法な銃器 所持が横行しており、一般犯罪でも殆どの場合で銃が使用され、殺人 へ発展することも多い。
主に大都市、地方都市を問わず重犯罪が頻発している[ 57] 。人口10万人あたりの犯罪発生率は日本 の数十倍から数百倍であり、2012年 の統計では、殺人は日本の34倍、強盗は約315倍となっている[ 58] 。2011年から2015年までの4年間に、ブラジルでは28万人近くが殺害されたといわれる。
人口に10倍近くの差があるため、単純比較はできないが、これはシリア人権監視団 が発表している同期間中のシリア内戦 の犠牲者数(25万6,124人)を超えている[ 59] 。
とりわけファヴェーラ と呼ばれる都市に形成されたスラム は、凶悪犯罪の温床となっている。これらの地域では麻薬密売組織同士の抗争や治安当局の介入により銃撃戦が昼夜問わず発生し、多くの市民が巻き込まれて命を落としている[ 60] 。
同国の警察 は給与 の支払いが十分でないことが多く、しばしばストライキ を起こすことがあり、当然その間は凶悪犯罪も多発する[ 61] 。日本の外務省 は、多くの主要地域に対して「十分注意」の危険情報を発している[ 62] 。
法執行機関
警察
上述されている通り、治安の悪化に歯止めを掛けられる能力に乏しい面が目立ちがちとなっている。また、2017年にはリオデジャネイロで国内史上最大とも呼べる警察の汚職事件が発生しており[ 63] 、2018年には「約6,160人がブラジルの警察によって殺害された」との報道がされている[ 64] 。
憲兵
人権
マスコミ
通信とメディア
軍事政権下で報道の自由はある程度制限されたものの、民政化された現在では完全に自由な報道が行われている。新聞 はオ・グローボ などの全国紙のほか、スポーツ専門紙などがある。また、専門紙や雑誌 をはじめとするスポーツメディア の中でも、特にサッカー専門メディアについては世界的に高い評価を受けている。 [要出典 ]
テレビ は1950年に初放映がなされ、1965年にオ・グローボ が設立されてから同社が圧倒的なシェアを占め、現在はSBT などがグローボを追い上げている。近年では衛星放送 やインターネット の普及が急速に進んでいる。ただし、インターネット普及率は2014年時点でも40.8%ほどであり、さらに農村部や低所得地域を中心に、全体の9.1%の住居ではいかなる電気通信サービスも利用していない状態である[ 65] 。
文化
ブラジルの文化は、インディオ と呼ばれるトゥピ・グアラニー系の先住民や、アフリカ人奴隷、ヨーロッパやアジアからの移民などが持ち込んださまざまな文化が織り成すモザイク だと評されることが多い。
古くから音楽 や建築 、スポーツ などの分野で世界的に高い評価を受けることが多く、世界的に有名なミュージシャン やスポーツ選手、芸術家を多数送り出している。また、多彩な文化的な背景を持つ国民を対象にした広告 表現などでも近年では高い評価を受けている。
ポルトガルの文化 (ポルトガル語版 、英語版 ) とブラジルの文化を象徴する言葉に「サウダージ (Saudade)」という言葉がある。郷愁、慕情の意味であるが、多くのブラジル人はこの表現がポルトガル語にしかないと信じている。
食文化
ブラジルのフェジョアーダ
アフリカ からの奴隷の食事がルーツといわれるフェジョアーダ や牧童の肉料理であったシュハスコ 、バイーア地方のムケカ 、ヴァタパ 、カルルー 、ミナス地方のトゥトゥ・ア・ミネイラ ほか、またロシア系のストロガノフ もブラジル風にアレンジされてよく食される。フェイジョアーダは塩味が強く豚の脂肪分が高いので、健康上の心配から近年は人気が落ち、フェイジャンと呼ばれる豆の煮込みが多く食されている。
おつまみ 程度のものはサウガジニョ と呼ばれるが、これらにはブラジル風コロッケ のコシーニャやアラブ系のキビ、パステウ (ブラジル風揚げパイ)などがあり(コロッケや類似食品は存在するが珍しい)、豊富な肉や野菜、魚介類を基にしたブラジル料理が日常的に食べられている。南部三州では、ウルグアイ 、アルゼンチン 、パラグアイ といったラ・プラタ諸国と文化が近いため、グアラニー人 起源のシマホンと呼ばれるマテ茶 を飲む伝統がある。
また、ヨーロッパ などからの移民 や20世紀 以降の日本人 をはじめとするアジア系移民など、さまざまな人種が融合していることもあり、都市部を中心にイタリア料理 やドイツ料理 、中華料理 や日本料理 など多様な国の料理が味わえる。
おもにドイツ系移民がもたらしたビール の生産、輸出国としても知られている。ブラジル国内では加熱処理したセルヴェージャ に加え、生ビールであるショッピが非常に好まれるが、地ビールのブランドもかなりの数がある。またブラーマ やアンタルチカ 、スコール といったブランドは日本やヨーロッパ、アメリカ諸国にも輸出されている。なお、これらは当初別会社であったが次第に合併により、現在はベルギー に本社を持つ世界最大の「InBev(インベブ)」社に属すブランドとなっている。
また、南部では同じくドイツ系の移民やイタリア系の移民を中心に、その気候を生かしてワイン の生産も古くから行われている。ブラジル独自の酒としては、サトウキビ を原料とした蒸留酒であるピンガ(カシャーサ )が有名である。このピンガを使用したカクテルであるカイピリーニャ やバチーダ もよく飲まれる。また、日系人が設立した現地企業が日本酒 「東麒麟 」を生産している。きわめて精錬された高エネルギーのピンガは、自動車の燃料用アルコールとして多量に生産されている。
コカ・コーラ やペプシ などのほかにガラナ (グァラナーと発音)の実を使用したソフトドリンク (ガラナ飲料 )が広く飲まれており、日本やアメリカなどの各国へ輸出もされている。また、ブラジルはフルーツ も豊富な国として知られ、オレンジジュース やマラクジャ(パッションフルーツ )、カジュー(カシューナッツ の実)、ココナッツ など多くの種類がある。またアマゾン原産のトロピカル・フルーツ であるアサイー やアセロラ 、スターフルーツ 、グラヴィオラ やクプアス 、グアバ などもよく好まれており、近年日本でもそれらのジュース やバルブ(ピューレ )が輸入されている。
日本起源である寿司はもはやブラジル料理の一部となっている。多くの寿司レストランの経営者は中国人で寿司職人はブラジル北部のセアラー州出身である。出稼ぎブーム以降、日本人日系人職人がいるレストランは激減したが2023年現在は増加にある。
文学
19世紀を代表するムラート の小説家 マシャード・デ・アシス 。ブラジル文学アカデミー 初代会長でもある
文字によるブラジル文学は、16世紀にブラジルに到達したポルトガル人のペロ・ヴァス・デ・カミーニャ (ポルトガル語版 、英語版 ) の『カミーニャの書簡 (ポルトガル語版 、英語版 ) 』に起源を持つ。
1822年の独立後、当時の知識人はヨーロッパ、特にフランスに文化の範を求めた。1836年からゴンサルヴェス・ド・アルヴェス の『詩的吐息と感傷』によってロマン主義 がヨーロッパからもたらされたことにより、インディオを理想的なブラジル人とみなすインディアニズモ の潮流が生まれ、詩の分野ではムラートの詩人のゴンサウヴェス・ジアス (ポルトガル語版 、英語版 ) が大成し、そのほかにも『イラセーマ』と『グアラニー』で知られるジョゼ・デ・アレンカール や、奴隷制廃止運動 の第一人者となった詩人のカストロ・アウヴェス (ポルトガル語版 、英語版 ) を生み出した。19世紀後半の第二帝政期には写実主義 がヨーロッパからもたらされ、写実主義の作家としては『ドン・カズムーホ』(むっつり屋)で知られるマシャード・デ・アシス や、『コルチッソ』で知られる自然主義作家のアルイジオ・アゼヴェード (ポルトガル語版 、英語版 ) などが挙げられる。
1889年の共和制革命後、1897年にはブラジル文学アカデミー が設立され、初代会長にはマシャード・デ・アシスが就任した。この時代にはカヌードス戦争 (ポルトガル語版 、英語版 ) を取材した『奥地 (ポルトガル語版 、英語版 ) 』で知られるエウクリデス・ダ・クーニャ (ポルトガル語版 、英語版 ) や、リマ・バレット (ポルトガル語版 、英語版 ) 、モンテイロ・ロバート (ポルトガル語版 、英語版 ) が活躍した。
カルロス・ドゥルモン・デ・アンドラーデ (ポルトガル語版 、英語版 ) (1970年撮影)
第一次世界大戦 によってブラジルのエリートが範としていたヨーロッパが没落すると、「ブラジルのブラジル化」が掲げられ、文化面でのヨーロッパの模倣からの脱却が模索された。それまでの文化潮流を背景に1922年から始まった近代主義 運動(モダニズモ)においては、1920年代にはブラジル各地の伝承や神話を素材にした小説家のマリオ・デ・アンドラーデ (ポルトガル語版 、英語版 ) や、後にファシズム政党インテグラリスタ党 を創始したプリニオ・サルガード (ポルトガル語版 、英語版 ) 、パウ・ブラジル運動 (ポルトガル語版 、英語版 ) (1924)や食人運動 (ポルトガル語版 、英語版 ) (1928)などで原始主義を創始したオスヴァルド・デ・アンドラーデ (ポルトガル語版 、英語版 ) 、ブラジルにおけるプロレタリア文学の第一人者であるパトリシア・ガルヴァン (ポルトガル語版 、英語版 ) が活躍した。続く1930年代、1940年代のヴァルガス時代にはヴァルガスによるファシズム的な中央集権体制に抗するかのように地方主義(レジオナリズモ)が発達し、グラシリアーノ・ラーモス (ポルトガル語版 、英語版 ) 、ジョルジェ・アマード などの小説家や、カルロス・ドゥルモン・デ・アンドラーデ (ポルトガル語版 、英語版 ) などの詩人が活躍した。
現在はマリオ・デ・アンドラーデ [要曖昧さ回避 ] やマヌエル・バンデイラ (ポルトガル語版 、英語版 ) などが特に対外的にも有名であり、日本でもジョルジェ・アマード の『革命児プレステス 希望の騎士』『カカオ』『果てなき大地』『砂の戦士たち』や、ジョゼー・デ・アレンカール の『イラセマ』など、またパウロ・コエーリョ の『星の巡礼』や『ベロニカは死ぬことにした 』など多くの著作が翻訳されている。
1988年にブラジル、ポルトガル両政府共同で、ポルトガル語圏の優れた文学者に贈られるカモンイス賞 が創設された。
音楽
ショーロ に用いられる楽器
ブラジルの音楽はトゥピー・グアラニー 系のインディオ 、アンゴラ 、ナイジェリア をはじめとするアフリカ、ポルトガルやその他ヨーロッパ の伝統音楽が混じりあって発展した。したがってブラジルにおける音楽的文化は非常に豊かで、貧富の差を問わず多くの国民が音楽を好む傾向にある。また、それらの複合的なメロディーと独特なリズムやハーモニーの要素から、古くより世界的に高い評価を得ている。日本でもほかの地域のワールドミュージック 愛好者に比べれば、ブラジル音楽を愛好する人は非常に多い。
おもな音楽のジャンルとしては、日本でも一般に知られるサンバ やボサノヴァ に加え、インストルメンタル ではアメリカのジャズ よりも古い歴史を持つといわれるショーロ 、ポピュラー音楽であるMPB 、あるいはフォホー (ポルトガル語版 、英語版 ) をはじめとするノルデスチ (北東部 の音楽)、バイーア のアシェー (ポルトガル語版 、英語版 ) などが挙げられる。
ただし、ブラジルの若い世代は、こうしたブラジル音楽よりも、欧米のロック やポップス、ブレーガ (ポルトガル語版 、英語版 ) (ブラジルの俗謡)を好む人も多い。また近年ではCSS のように世界的に人気を集める若い世代のバンドも現れている。ブラジル音楽にしても現代においてはファヴェーラ発祥のパーティー音楽のバイレファンキ や小規模なサンバとも言えるパゴーヂ 、中西部にルーツをおくセルタネージョ (英語版 ) が若者の間で好まれる傾向にある。
ブラジル音楽では、サンバなどで使われるパンデイロ やスルド 、タンボリン 、カポエイラ で使われるビリンバウ などブラジルで発展・発明された楽器が多い。このためパーカッション が比較的に多用される傾向があり、ブラジルは打楽器の強い国、あるいはほかの楽器が弱い国と思われやすい。しかし音楽自体が盛んな国であるため、ピアノ 、あるいはヴィオラゥン やカヴァキーニョ などの弦楽器 、フルート やオーボエ などの管楽器 などもよく演奏される。また歌手や声楽家なども多く、有能な人材を世界に送り出している。
また、ポピュラー音楽のみならず、クラシック音楽 やジャズ の分野においても重要な音楽家を輩出しており、著名な音楽家としては19世紀に活躍したオペラ作曲家のカルロス・ゴーメス や、『ブラジル風バッハ 』などで知られるエイトル・ヴィラ=ローボス 、エルネスト・ナザレー といった作曲家のほか、演奏者としてはアサド兄弟 などのギター奏者も世界的に知られている。
美術
建築
ブラジルにおける建築は、宗主国であったポルトガルの文化の影響が強く、植民地時代からのものが基盤となっている。特に著名な建築家としては首都ブラジリアの設計を手掛けたオスカー・ニーマイヤー やコパカバーナの遊歩道などを手掛けた造園家のロバート・ブール・マルクス などがいる。
映画
ブラジルはアルゼンチン、メキシコ とともにラテンアメリカでも特に映画制作が盛んな国である。ブラジルに映画が伝えられたのは1896年7月で、リオでヨーロッパから持ち込まれた映写機の実演に始まる。1905年ごろには短編作品が多く撮影され、各地に映画館が建てられた。1930年にマリオ・ペイショット の『リミッチ』が製作され、これはイギリスやソヴィエト でも上映された。
1950年代後半にはシネマ・ノーヴォ という運動からカルロス・ヂエギス 、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス 、グラウベル・ホーシャ 、ルイ・ゲーハ といった監督を輩出した。1964年に軍事政権が樹立されると表現の自由が制限され、検閲が行われた。1969年に発足した政府機関のブラジル映画公社 (エンブラ・フィルメ)は、ほとんどの映画作品の製作に関与した。1976年にブルーノ・バヘット による『未亡人ドナ・フロールの理想的再婚生活 』(ドナ・フロールと2人の夫)が製作・公開されると、ブラジルで1,300万人を動員し、観客動員数第1位を更新する空前の大ヒット作となった。また同監督の『ガブリエラ』、ヂエギスの『バイバイ・ブラジル』、『シッカ・ダ・シルヴァ』など、ブラジルの史実に基づいた多くの良心的な作品が製作された。またアルゼンチン出身のエクトール・バベンコ も、ブラジル国籍を取得して活動拠点を移し『蜘蛛女のキス 』(1985)、『カランジル 』(2003)などを製作した。1986年に軍事政権が終焉すると民主化が活発化し、低予算で製作される大衆的な作品も増加した。しかし、1990年代に入るとそれまでのブラジル映画公社を主体としたブラジル映画製作は行き詰まり、完全な破綻を迎えた。
現在のブラジル映画の再生は、1994年から始まった。1998年、ヴァルテル・サレス の『セントラル・ステーション 』(セントラウ・ド・ブラズィウ, Central do Brasil)が多くの国際的な受賞を受けたことから、ブラジルの映画にも注目が集まるようになり、ヂエギスの『オルフェ 』(1999)をはじめ、『トロパ・デ・エリーテ』『デスムンド』などがブラジル国外でも公開されるようになった。特にファヴェーラ の問題を描いたフェルナンド・メイレレス の『シティ・オブ・ゴッド 』(Cidade de Deus、2002)は、多くの映画祭で受賞、世界的にヒットした。このような成功により、ブラジル人監督による映画作品が世界的に注目されている。また、ほかに『クアトロ・ディアス 』『スエリーの青空 』『モーターサイクル・ダイアリーズ 』『バス174 (Ônibus 174)』『オイ・ビシクレッタ 』『私の小さな楽園 』『ビハインド・ザ・サン 』などの作品が国外でも公開され、これらは日本でもDVD化され販売されている。『フランシスコの2人の息子 』(2005)は『ドナ・フロールと二人の夫 』の記録を塗り替え、観客動員数歴代1位を更新した。また東京では、ブラジル映画祭 が毎年開催されており、日本でも多くの作品が公開されている。
ブラジル国内においては、近年各地のショッピングセンターにおけるシネマコンプレックスが増加している一方で、いわゆる海賊盤 と呼ばれる違法なDVDが販売されることも多い。ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した『トロッパ・デ・エリーテ 』は公開前から海賊盤が出回り、映画の内容を多少変更せざるを得なくなってしまったという事件が起こった。
被服・ファッション
典型的なブラジルの被服 南米大陸の気候に合わせた仕様で占められていることが覗える
リオ・ファッション・ウィーク (英語版 ) やサンパウロ・ファッション・ウィーク (英語版 ) が開催されている。
カーニバル
リオのカーニバル
毎年2月ごろの四旬節 の前に、国中の市町村でカーニバル (ブラジルポルトガル語では「カルナヴァウ」と発音する)が祝われる。期間中は国中を挙げ、徹夜でサンバ のリズムに乗って踊りまくる。リオのカーニバルといえば、一般的に死者が多いことで知られるが、これは酒 に酔ったための喧嘩や飲酒運転による自動車事故、心臓麻痺などで毎年数百人規模の死者が出ることである。したがってカーニバル自体での死者が多いということではない。
リオデジャネイロで行われるカーニバルは世界的に有名で、世界各国から多くの観光客を呼び寄せている。エスコーラ・デ・サンバ (Escola de Samba、千人単位の大規模なサンバチーム、以下「エスコーラ」と略称)単位によるパレードがサンボードロモというコンテスト会場で行われ、一番高い評価を得たサンバチームが優勝する。いわゆるリオのカーニバルは、サンボードロモ で行われるコンテストを指すことが多いが、それ以下の小規模なエスコーラやブロッコ・カルナヴァレスコ(Bloco Carnavalesco)などが、リオ・ブランコ通りなど街中やイパネマ海岸付近などをパレードすることも多い。
なお、リオのカーニバルはサンバだけだと思われがちであるが、マルシャ (ブラジル版3拍子のマーチ)やポルカ 、マラカトゥ (フランス語版 ) なども演奏されている。
世界遺産
ブラジル国内には、ユネスコ の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が10件、自然遺産 が7件存在する。
祝祭日
日付
日本語表記
ポルトガル語表記
備考
1月1日
元日
Confraternização Universal 慣用:Ano Novo
新しい年の始まりを祝う日
1月20日
聖セバスティアン の日
São Sebastião
リオデジャネイロ市のみ
1月25日
サン・パウロ市記念日
Aniversário de São Paulo
サン・パウロ市のみ
2月 - 3月中の火曜日
謝肉祭
Carnaval
移動祝日
2月 - 3月中の水曜日
灰の水曜日
Quarta-feira de Cinzas
移動祝日
3月 - 4月中の金曜日
受難
Paixão de Cristo 慣用:Sexta-feira Santa
移動祝日
3月 - 4月中の日曜日
復活祭
Páscoa
移動祝日
4月21日
チラデンテス
Tiradentes
チラデンテスが亡くなった日
4月23日
聖ジョルジ の日
São Jorge
リオデジャネイロ州のみ
5月1日
メーデー
Dia do Trabalho
労働者の功績を称える日
5月 - 6月中の日曜日
聖霊降臨祭
Pentecostes
移動祝日
5月 - 6月中の日曜日
聖三位一体 の日曜日
Domingo da Santíssima Trindade
移動祝日
5月 - 6月中の木曜日
聖体の祝日
Corpus Christi
移動祝日
6月24日
フェスタジュニーナ
São João
ペルナンブーコ州とアラゴアス州 のみ
9月7日
独立記念日
Dia da Independência
10月12日
聖母アパレシーダ の日
Nossa Senhora Aparecida
子どもの日 としても祝う
11月2日
死者の日
Dia de Finados
11月15日
共和制宣言記念日
Proclamação da República
11月20日
黒人の自覚の日
Dia da Consciência Negra
リオデジャネイロ州とサン・パウロ州と アラゴアス州とアマゾナス州と マットグロッソ州とアマパー州のみ
12月25日
クリスマス
Natal
スポーツ
サッカーブラジル代表 (2018年ロシアW杯 )
サッカー はブラジルの国技 であり、最も人気の高いスポーツ であり、さらには国民的なアイデンティティでもある。フットサル やビーチサッカー も盛んであり、世界屈指の強豪国として知られている。
ブラジルサッカー連盟 (CBF)によって構成されるサッカーブラジル代表 は、FIFAワールドカップ において世界で唯一、2022年大会 までの22大会全てにおいて本大会出場 を果たしており、さらには1958年大会 、1962年大会 、1970年大会 、1994年大会 、2002年大会 で、W杯最多となる5度の優勝 を飾っている。
サッカー
ペレ のサイン
1971年 には全国リーグのカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA が開始されており、SEパルメイラス がリーグ最多12度の優勝を遂げている。その他にもサントスFC 、SCコリンチャンス 、CRフラメンゴ など、世界的に有名な名門クラブが複数存在する。また、ブラジルの象徴およびサッカーの象徴として、「サッカーの王様 (The King of Football )」と評されるペレ は、15歳でプロデビューしてから1977年 に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し、1281得点を記録した。
FIFAコンフェデレーションズカップ では大会最多4度の優勝を達成しており、コパ・アメリカ では9度の優勝に輝いている。さらに夏季オリンピック でも地元開催となった2016年リオ五輪 と、続く2021年東京五輪 でも優勝し5か国目となる大会連覇を達成している。ブラジル代表(セレソン)の主力選手はスーパースターと見なされ国際的にも名声を得て、高額なスポーツ契約を結んだり広告塔としても活躍している[ 66] 。そのような選手としては、ロナウド 、リバウド 、ロナウジーニョ 、カカ 、ネイマール などが挙げられる[ 67] 。
オリンピック
著名な出身者
ブラジルは世界的に日系人 が多い国の一つであり、過去から現在に至るまで様々な分野に渡って著名人を輩出して来ている。
主な日系ブラジル人 の出身者では、サッカー 評論家 のセルジオ越後 や、元サッカー日本代表 のラモス瑠偉 、田中マルクス闘莉王 、元サッカーカタール代表 のロドリゴ・タバタ 、UFC ・元ライトヘビー級 王者のリョート・マチダ 、RIZIN ・ライト級 王者のホベルト・サトシ・ソウザ 、RIZIN・元フェザー級 王者のクレベル・コイケ 、大相撲力士 の魁聖 など、主にスポーツ分野 での活躍が目立っている。
脚注
注釈
^ 4万年以上も前という説もある。
^ ミナスジェライス洲ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧 、石槌 、水晶 の破片、貝殻 の装飾品 がその有力な証拠となっている。
^ 以前から日本でもボルソナーロ大統領はブラシルのトランプ大統領と呼ばれていただけであって(さらに共に右派 政党)、トランプ大統領、ボルソナーロ大統領、共に選挙敗北によって、同じ手口、日程も1月6日と1月8日と時期もほぼ重なり、尚且つ議会が大勢に襲撃され、大勢の負傷者が発生し、議会が混乱した。
^ 1980年代までは、既存の鉄道網において数多くの中・長距離旅客列車が運行されていたが、採算性や速度、線路の保線状況の関係から急速に数を減らしていき、2002年以降の定期的な運行はヴィトリア - ベロ・オリゾンテ間のみとなっている。
^ 妊娠している場合は例外として16歳未満でも結婚が許可される場合がある。
^ それまでは、州によってばらつきがあった。
出典
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参考文献
総合
歴史
政治
経済
社会
文化
関連項目
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