大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - 2017年6月23日[2])は、将棋棋士。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京府東京市(現:東京都港区)出身。中央大学卒業[3]。
小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ[4]。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1か月間の将棋修行をした[4]。
1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、同じ中大の後輩である米長邦雄と同期である。大内と、高島弘光、西村一義、山口英夫との4名は同年生まれで若手時代から活躍して「花の昭和16年組」と呼ばれた[5]。
順位戦では初出場となった第18期(C級2組)・第19期(C級1組)と連続で昇級した。
1967年、第8期王位戦にて大山康晴への挑戦権を獲得し、タイトル戦番勝負に初登場。段位が六段のままタイトル棋戦に挑戦した棋士は当時史上初だったが、七番勝負は1勝4敗で敗退した。
1972年度・第27期順位戦で初のA級在位(成績は最下位に終わった。)。
穴熊戦法を駆使し、2回目のA級で迎えた1974年度・第29期順位戦では7勝2敗と最高成績を修め、翌1975年に開催された第34期名人戦で中原誠の挑戦者となった。二人は対比的に、“中原は王道、大内は覇道”と表現された。この名人戦で大内は中原と互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなり(このほか千日手も1局あった)、迎えた最終第7局は1日目の封じ手の時点で大内が大優勢となった。しかし、勝利目前でミス(手順前後)をして勝ちを逃し、持将棋に持ち込まれてしまった。これについて大内自身は後年に「対局室(羽沢ガーデン)の近くにビアガーデンがあり、そこから聞こえる酔った人の話し声と将棋の読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語っていた[注釈 1]。そして指し直しの第8局で敗れ、名人を獲得することができなかった。
タイトル戦に昇格した第1期(1975年度)棋王戦で敗者復活戦を勝ち抜き、棋王決定リーグに進出。前年棋王戦優勝の内藤國雄と本戦優勝の高島弘光との三者によるリーグ戦で内藤と相星の3勝1敗となり、同点決勝で内藤を破り、自身初のタイトルとなる棋王の座を獲得。翌期には加藤一二三の挑戦を受け、3連敗のストレート負けで失冠した。
日本将棋連盟渉外担当理事だった1991年8月、大内は朝日新聞社に名人戦(当時は毎日新聞社主催)主催に復帰する考えがあるか打診した[6]。日本将棋連盟の8人の理事のうち、朝日新聞社への移行に賛成していたのは大内、二上達也、田丸昇の3名のみで、他の5名は反対していた[7]。その後、1991年9月・1992年3月・1992年5月の棋士会でも反対意見に押され、廃案となった[8]。
第68期(2009年度)順位戦でC級2組からの降級が決定。当時既に60歳を超えていた関係上、フリークラスに編入を経ずに引退が決まった。タイトル獲得歴を有する棋士が順位戦C級2組から降級して引退するケースは、同年の有吉道夫と共に初であった。引退決定(当期順位戦終了)時点で第23期竜王戦で5組に在籍し、昇級者決定戦及び残留決定戦に出場する権利を残しており、昇級者決定戦は1回戦(2010年3月17日)で泉正樹に敗北、そして勝敗に関わらず引退日となる2010年4月20日の竜王戦5組残留決定戦で石田和雄に勝ち、石田を6組に降級させ、自身は6組降級(の成績)の汚点を棋士人生に残すことなく、勝負師として最後の華を飾った[注釈 2][注釈 3]。
2017年6月23日に死去(死因は非公表[9][10])[2]。75歳没。
葬儀は近親者のみで済ませ[2]、7月17日に東京・将棋会館で「お別れの会」を開催した[11][12]。囲碁を趣味とした大内に、日本棋院から囲碁アマ八段が追贈され、女優の吉永小百合(吉永は、家族ぐるみで、数十年の親交があった[10])など、関係者と一般の将棋ファンを合わせて約500名が出席した[11][12]。
2018年4月2日に発表された第45回将棋大賞(2017年度)で、大内に升田幸三賞特別賞が贈られた[13]。受賞事由は「振飛車穴熊を戦法に確立した工夫」[13]。
(段位・主な活躍は2024年4月1日現在のもの。)
(日本将棋連盟以外の表彰等は「#その他表彰等」を参照)
名局集
教則本
エッセイ
共著
現 司会 鈴木環那 (2022 - ) 現 司会 室谷由紀 (2024 - )