神田山陽(かんだ さんよう)は、講談師の名跡。当代は三代目。
二代目 神田 山陽(かんだ さんよう、1909年8月31日 - 2000年10月30日)は、講談師。本名:浜井 弘。
経歴
中国大連生まれ、生後すぐに東京に移住[1]。書店・出版社の「大阪屋号書店[2][3]」の社長の嗣子として生まれる。
日本大学予科から同大学商業学部経済学科に入学するが、ダンスに熱中したため、自然放校となる[1]。趣味が高じて、ダンスの教師を務めたこともあった[4]。
1935年、大谷内越山の一人一話会に入会し、1939年、独立格として品川連山の名で高座に上る[1]。六代目一龍斎貞山、大島伯鶴、初代神田山陽に師事するが、戦後に相次いで師匠を亡くす[1]。1942年に講談組合の真打に昇進[1]。1948年、三代目神田小伯山を襲名し、八代目桂文楽一門として落語協会に加入する[1]。1955年、二代目神田山陽を襲名[1]。1956年、落語協会から芸術協会(現落語芸術協会)に移る[1]。
1970年、講談協会会長に就くが、1972年、講談協会が多数決で解散と決まり、日本講談協会を設立する[1]。1980年、再び講談協会が設立され副会長に就く[1]。1991年、講談協会を退会し、再び日本講談協会を結成する[1]。
1997年、講談界で初めて要記録無形文化財に認定された[1]。2000年10月30日、腎不全のため死去。91歳没。
人物
趣味は将棋で、戦前には若手棋士を集めたトーナメントのスポンサーになったこともあった[4]。また、NHK将棋講座、NHK杯将棋トーナメントの司会を務めたことがある。1996年、第3回大山康晴賞を受賞。
私費を投じて講談界再興に尽力し、女流講談の育成や多くの演目の伝承に貢献した[1]。晩年は多くの女流棋士が手厚く介護したという[1]。
著書
弟子
太字は現役。
山陽死後他門下へ移籍
廃業
- 品川連生(神田錦陽)
- 神田照山
- 神田東陽
- 神田南陽
- 神田とまと
- 神田まさる
詳細不明の弟子
- 神田好山 - 刺青を入れており、逗子の海岸で自殺した。
外部リンク
脚注