渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。
経歴
1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。
1941年八段。順位戦に3期参加した後、1949年に引退。
1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。1953年将棋連盟名誉会長。
1975年11月17日に行なわれた第1回の「将棋の日」において、日本将棋連盟から「名誉九段」が贈られる[3]。
1985年、心不全のため死去。
弟子
棋士
名前 |
四段昇段日 |
段位、主な活躍
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下平幸男 |
1948年
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八段、一般棋戦優勝1回
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二上達也 |
1950年4月1日
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九段、王将1期、棋聖3期、一般棋戦優勝5回、A級在籍27期
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北村昌男 |
1953年
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九段、一般棋戦優勝2回
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佐藤大五郎 |
1957年4月1日
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九段、タイトル挑戦1回、一般棋戦優勝1回、A級在籍2期
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勝浦修 |
1967年4月1日
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九段、タイトル挑戦2回、一般棋戦優勝3回、A級在籍7期
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- 北海道出身者を中心に多くの弟子を育成した。
- 孫弟子に羽生善治、森内俊之らがいる。
昇段履歴
- 1918年00月00日: 入門
- 1922年10月01日: 四段
- 1926年00月00日: 五段
- 1929年00月00日: 六段
- 1935年00月00日: 七段
- 1941年00月00日: 八段
- 1949年00月00日: 引退
- 1975年11月00日: 名誉九段(第一回将棋の日)[4]
主な成績
在籍クラス
順位戦の在籍クラスの年別一覧
開始 年度
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(出典)順位戦
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期
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名人
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A級
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B級
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C級
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0
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1組
|
2組
|
1組
|
2組
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1946 |
1
|
|
八段戦 順位8位▼ |
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|
6-7 降級PO:0-2
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1947 |
2
|
|
|
B級 順位2位 |
|
4-8
|
1948 |
3
|
|
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B級 予選1組 B級 本戦不出場 |
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|
1-4
|
1949
|
|
1949年引退
|
順位戦の 枠表記 は挑戦者。 右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
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年度別成績
公式棋戦成績
年度 |
対局数 |
勝数 |
負数 |
勝率 |
(出典)
|
1946
|
18 |
7 |
11 |
0.3889 |
|
1947
|
14 |
5 |
9 |
0.3571 |
|
1948
|
5 |
1 |
4 |
0.2000 |
|
1949年引退
|
栄典
脚注
注釈
- ^ ここでは便宜上、四段昇段日をプロ入り日として扱うが、渡辺のプロ入り当時は初段昇段時から専門棋士として扱われていたとされる。昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、「初段からが専門棋士」だった[1]。その頃、奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[2]。
出典
関連項目
外部リンク
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- 01. 木村義雄 (1947)
- 02. 渡辺東一 (1948-1952)
- 03. 坂口允彦 (1953-1954)
- 04. 萩原淳 (1955-1956)
- 05. 加藤治郎 (1957-1960)
- 06. 原田泰夫 (1961-1966)
- 07. 坂口允彦 (1967-1968)
- 08. 丸田祐三 (1969-1972)
- 09. 加藤治郎 (1973)
- 10. 塚田正夫 (1974-1976)
- 11. 大山康晴 (1977-1988)
- 12. 二上達也 (1989-2002)
- 13. 中原誠 (2003-2004)
- 14. 米長邦雄 (2005-2012)
- 15. 谷川浩司 (2012-2017)
- 16. 佐藤康光 (2017-2023)
- 17. 羽生善治 (2023-現在)
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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第8回(1982年)より創設 |