日本とウクライナの関係 (にほんとウクライナのかんけい、ウクライナ語 : Українсько-японські відносини 、英語 : Japan–Ukraine relations 、日宇関係 )は、19世紀 の百科事典『古事類苑 』で、ウクライナ人がロシア帝国によって領土が奪われたコサック として記述されているのをもって端緒とする。
ウクライナはロシア帝国 の支配下にあったため、民間の交流は日露関係 の影響を受けていた。20世紀においてウクライナ人は、日露戦争 と日ソ戦争 に参加し、極東ロシア の植民地化に加担する一方で、日本と秘密裏の交渉を行い、日本の支援のもとで沿海州 におけるウクライナ人の居住地区(緑ウクライナ )をロシアから独立させようと計画した。1991年 にウクライナが独立を果たすと、同年12月28日 に日本国政府はウクライナを国家として承認し[3] 、1992年 1月26日 には両国間の外交関係が設立された。2008年 に入ってからは、インベストウクライナ (英語版 ) 、ウクライナ日本センター、日本貿易振興機構 などの団体が主催する定期的な交流が行われるなど、ウクライナと日本の関係は改善している[4] 。ウクライナ紛争 以降の両国関係は、歴史上で最も高いレベルとなっている。
両国の比較
歴史
最古の記録
日本における最古の記録として、明治政府が編纂した百科事典『古事類苑 』(1896年-1914年)がある。この事典の項目「外交部二十一 露西亞上」には、ロシア帝国の説明とともにウクライナ・コサック についての記述がある。
日露戦争
オデーサの日本領事館の印章
外交面での最初期の出来事として、ロシア帝国時代の1902年にオデーサ に日本領事館が設置された[注釈 2] 。当時の日本とロシアは朝鮮半島をめぐって緊張が高まっており、日本政府は黒海艦隊 の動向を知るためにオデーサを重要と見なして総領事館を設置した。飯島亀太郎が領事に着任し、飯島は日本産の商品の宣伝や、現地商人との商談を行ったが、1904年の日露戦争 の開戦によって領事館は閉鎖された。
日露戦争において、1904年から1905年にかけて多くのウクライナ人 がロシア帝国 側に参加させられた。ウクライナ出身者が最も多かったのはロシア帝国陸軍 第10軍団であった。その軍団は、第9ポルターヴァ 歩兵師団と第31ハルキウ 歩兵師団から編成され、1904年の春にキーウ 軍管区 から満州 へ送られた。しかし、戦闘中に軍団は多くの死傷者を出して軍管区へ帰還された。1905年の春にオデーサ軍管区から第15歩兵師団と第4狙撃兵旅団が戦地へ送られたが、その時には既に終戦していた。日露戦争に参加したロシア帝国軍の兵卒の中では、ウクライナ出身者よりロシア極東 に居住していたウクライナ系移民の方が多かった。彼らはアムール・コサック 、シベリア・コサック 、ザバイカル・コサック の諸軍に編成され、日本陸軍 と交戦した。
また、ロシア帝国軍の将校には旧ザポーロジャ・コサック 出身者がいた。例えば、ロシア満洲軍 (ロシア語版 ) 総司令官 を務めたチェルニーヒウ県 の貴族ミコーラ・リネーヴィチ 大将、クバーニ・コサック とドン・コサック から編成された混成コサック師団の司令官を務めたパウロー・ミーシチェンコ 大将、第2シベリア軍団の司令官ムィハーイロ・ザスーリチ 中将、第10陸軍軍団の司令官カピトン・スルチェーウシキー 中将、ザバイカル・コサックの隊長で、後に1918年に独立したウクライナ国 の首脳となるパウロー・スコロパードシキー 少佐などであった。さらに、日露戦争においてロシア側の最大の英雄と称されたロマーン・コンドラテーンコ 中将もウクライナ系の人物であった。
ロシア革命
のちに首相となる芦田均 は、ロシア革命 が起きていた1918年にキーウを訪問し、ソヴィエト連邦 成立後の1928年にオデーサなど黒海周辺をめぐった。芦田はオデーサの様子を見て、港に船がなく革命前よりも生活水準が低下したと記録している。当時はヨシフ・スターリン 政権によるホロドモール の前兆が始まっており、農産物の輸出が止まっていた時期にあたる[注釈 3] 。
19世紀末からウクライナ本土からの移民が活発化した影響で、極東の沿海州 とアムール州 ではウクライナ系の住民が地域人口の約半数となった。外満州のウクライナ系住民は自分たちが暮らす土地を緑ウクライナ (ゼレーヌイ・クリン)とも呼んだ。他方、ロシア革命によって満州や樺太南部に逃れるウクライナ系住民もいた。
ウクライナ独立運動
1917年にウクライナ人民共和国 が成立した際には、日本は大使館員をキーウへと派遣した。1920年代にプラハで結成されたウクライナ軍事組織 (UVO)は、ウクライナ西部をポーランドから独立させるために活動していた。UVOがナチス・ドイツ の協力を得て西ウクライナ人民共和国 を建国した際、リヒャルト・ヤリが日本担当の在外代表を務めた。しかしゲシュタポ は最終的にウクライナ独立を許さず、ヤリは拘束された。日本政府はUVOについての情報を収集しており、臼井茂樹 と後任の馬奈木敬信 がベルリンで接触をした。UVOを支援していた在米ウクライナ人組織については、在米日本公館が情報を収集し、独立運動団体について報告していた。ルシン人 による独立運動カルパト・ウクライナ については、独立宣言の前から日本政府の外交当局が関知していた。カルパト・ウクライナの外交部代表だったユリヤン・ヒミネツは、ベルリンの日本大使館と接触し、独立運動への支援を期待した。
満洲、樺太
ロシア革命によって多数の亡命者が世界各地に滞在し、ハルビン はベルリン、パリ、ベオグラードと並ぶ4大亡命地の1つとなった。満州や樺太 南部に逃れた白系ロシア人 にはウクライナ系住民もおり、日本人との交流も行われた。満洲国 成立後のハルビンにもウクライナ人が暮らし、満洲帝国ウクライナ人居留民会をはじめとする団体がウクライナ語の出版物を刊行した。『遠東雑誌』は極東のウクライナ人の情報を世界各地に広めることを目的として、ウクライナ東洋学者協会が中心に編集した。協会の会長フョードル・ダニレンコは当地のウクライナ人社会のリーダーで、小説家としても活動した。ハルビンのウクライナ語の新聞には『満洲通信』もあり、これらの出版物はハルビン特務機関 や日本当局が関与した可能性がある。
日本が関東軍 を編成する際には、満州のロシア人コミュニティから2つの部隊が作られた。1938年に作られた部隊は浅野節を隊長とする通称浅野部隊 で、ハルビン 近郊の第二スンガリー駅の兵舎に駐屯した。1945年に作られた部隊はI・A・ペシュコフが隊長を務めた。
シベリア抑留
第二次世界大戦 後、バフムート に第415収容地区(グラーグ )、ザポリージャ に第100収容地区、ドニヤーク に第217収容地区、ドニプロ に第315収容地区、リンチャンスクに第125収容地区が設置され、シベリア抑留 を受けた日本人捕虜 が収容された。このうち第415収容地区の収容者は、北朝鮮 の平壌市 付近で武装解除させられた日本兵で約4000人で、1946年 7月頃、船とシベリア鉄道 で1ヶ月以上かけて遠路移送されてきた。日本人捕虜は都市の建設事業、道路の敷設、石炭及び金属企業内などで強制労働 に従事した。厳しい労働環境、貧しい食事による栄養失調 と飢餓 で倒れる者も多く、1年後の1947年7月頃には約3600人に減少した。
日本国憲法
1946年に日本国憲法 の草案が執筆された際、ベアテ・シロタ・ゴードン は人権条項を担当した。ベアテは両親が在日ウクライナ人で、少女時代を日本で暮らした経験があった。アメリカ国籍を取得し、終戦後に日本へ帰ろうとしたが、民間人は占領国へ行くことが認められなかった。そこで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)に所属して訪日し、両親と再会した。ベアテは憲法草案で第24条 の両性の平等 の条項などの起草を担当したが、半世紀ほど公表せず、1995年から講演や著書でこのことを明らかにしている。なお、ベアテの父親のレオ・シロタ はピアニストで、日本の音楽教育に貢献した人物だった(後述 )。
外交関係の樹立
1991年のソ連崩壊 によってウクライナは独立を果たし、日本政府は同年12月28日にウクライナを国家承認した。1992年1月26日には外交関係が樹立し、1993年に日本大使館、1994年にウクライナ大使館が設置された。1995年にはレオニード・クチマ 大統領がウクライナ大統領として初の訪日を行った。
経済的関係
ウクライナの独立後、日本の商社が相次いでキーウに事務所を設立した。ウクライナは重工業国でもあったが、独立後は経済が落ち込んだ点が影響して1990年代の貿易は低調だった。2000年代に入るとウクライナ経済の成長によって消費ブームが起き、日本の乗用車販売が急増して日本の対ウクライナ輸出は拡大した[注釈 4] 。ウクライナが日本へアルミニウム、鉄鉱石、穀物などを輸出し、日本がウクライナへ鋼管や自動車を輸出する関係が築かれた[31] 。2007年の世界金融危機 によってウクライナ経済は打撃を受けて輸出は縮小したが、その後も乗用車は日本からの輸出の中心となっている[注釈 5] 。ウクライナからの輸出はタバコが6割強を占めている。
2009年3月25日には、ユリア・ティモシェンコ 首相が訪日し、麻生太郎 首相と会談した[35] 。共同声明では、貿易、投資、省エネなどの分野での協力を歓迎するとともに、最近の経済危機の影響などについて話し合った[36] 。
京都議定書 に署名している日本は、2008年7月15日に、国連の気候変動条約で定められた目標を達成するために、ウクライナから温室効果ガスの排出枠を買い取ることで合意した[37] 。2009年3月26日、この合意は確定した[39] 。
日本は1998年から2009年までの間に430万ドル以上の資金援助を行い、1億5,180万ドル以上の助成金を提供している[40] 。代表的な経済支援としてボリースピリ国際空港 の新ターミナル建設があり、円借款の第1号として行われた。
ロシア侵攻の避難民に経済的な支援をする民間団体は、日本財団 が最大となっている[注釈 6] 。2024年には官民が56の協力文書を交わし、渡航制限の緩和や租税条約の締結、投資協定の交渉などが進められることになった。日本商工会議所 はウクライナ商工会議所との連携によってウクライナ復興・ビジネス交流会を開催し、日本企業は鉄鋼、建設、商社など約60社、ウクライナ企業はエネルギー、農業・食料、ITなど約27社が参加して講演や交流会が行われた[43] 。
政府間関係
キーウの在ウクライナ日本公館の旧館
非核化
ウクライナ最高会議のヴェルホーヴナ・ラーダ は、1990年に非核3原則の「受け入れない、作らない、手に入れない」を含む主権宣言を採択した。1991年の非核化に関する最高ラーダ声明では、ウクライナ領内に暫定的に置かれていたソ連製核兵器の廃絶を宣言した。ウクライナ政府は、核兵器廃絶の理由としてチェルノブイリ原子力発電所事故 の経験をあげて核廃絶を訴えた[注釈 7] 。
1992年のミュンヘンサミット では、日本を含めたG7の決定で非核化支援が始まった。これは旧ソ連の核兵器を安全に廃棄するための支援事業で、核セキュリティの強化などが行われた[注釈 8] 。1994年に日本とウクライナは核兵器廃棄協力協定を締結し、核物質管理、解体作業員用の医療機器供与、専門家の調査・交流を行った。
基本価値の共有
ウクライナのオレンジ革命 (2004年)を受けて、日本政府は民主化の進展に協力し、欧州安全保障協力機構 (OSCE)の選挙監視団を派遣した。2005年7月のヴィクトル・ユシチェンコ 大統領の訪日時には、民主化についての基本価値の共有を両国で確認した。
原子力災害への協力
2005年にユシチェンコ大統領が訪問した際、チェルノブイリ の除染プログラムなどについて話し合った[48] 。日本政府は個人や地域の保護と能力強化を重視し、人間の安全保障 アプローチによる支援を行った。
2011年に東日本大震災 が起きた際、ウクライナは支援として地震発生直後に物資を送り、福島第一原子力発電所事故 のために放射線サーベイメーターや個人線量計などを供与した。2012年に両国は原発事故後協力協定を締結し、経験共有や研究協力の協議が行われている[注釈 9] 。
2014年ウクライナの主権についての日本政府の支持
2014年のクリミア危機 への対応として日本政府は「ロシアはウクライナの領土的完全性と主権 を侵害している」とロシアを批判した[51] 。日本政府は対露制裁として、ロシアや東部の武装勢力の関係者について、査証発券の停止や資産凍結などを行った。しかしながら制裁の内容は実質的な効果がないように計算されており、日本政府は日露関係 を危機にさらしたくなかったという指摘もある。また、ウクライナが国際通貨基金 (IMF)の改革の受け入れに同意した場合には、15億ドルの金融支援を提供すると表明した[52] 。
その他の支援として、日本政府は東部の紛争への人道支援、財政の安定、インフラ整備、改革推進の開発支援など2国間として最大規模の18.6億ドルのプロジェクトを行った。
日本におけるウクライナ年・ウクライナにおける日本年(2017年)
2016年のポロシェンコ大統領の訪日時に、2017年を「日本におけるウクライナ年」とすることで合意し、大統領令で「ウクライナにおける日本年」が定められた。これを機会として、ウクライナ人の査証緩和が行われ、JICA事務所が設置された[54] 。これを記念して、さまざまなイベントが開催された(後述 )。
2022年ロシアのウクライナへの軍事侵攻時
2022年 2月24日にロシアが開始した軍事侵攻 によって被害に遭うウクライナを援助するため、日本政府は、1億ドル 規模の円借款 (約115億円相当)並びに、UNHCR やユニセフ など国際機関 と協力し、1億ドルの緊急人道支援 を行うことを決めた[57] 。また、日本におけるウクライナ避難民受け入れ の方針を表明した[58] 。
政府関係者の往来
来宇
訪日
ウクライナ の最高会議 議長 ヴォロディミル・リトヴィン(左)と日本 の内閣総理大臣 野田佳彦 (右)(2012年3月9日)。最高会議は「ヴェルホーヴナ・ラーダ」と呼ばれ、日本の国会 に相当する
2022年3月23日、ゼレンスキー大統領のオンラインによる国会演説 [66]
2022年3月23日、ゼレンスキー大統領は衆議院議員会館 にある国際会議室と多目的ホールでオンライン演説を行った。海外の要人の国会演説では初めてオンライン形式によるものだった。ウクライナ語で話す演説の内容は、在日ウクライナ大使館の同時通訳で伝えられた[67] [68] [69] 。
大使
在ウクライナ日本大使
在日ウクライナ大使
ミハイロ・ダシケヴィチ (ウクライナ語版 ) (1995年~1999年、信任状捧呈 は2月15日[70] )
ユリー・コステンコ (ウクライナ語版 、英語版 ) (2001年~2006年、信任状捧呈は6月5日[71] )
ヴォロディーミル・マクハ (ウクライナ語版 、英語版 ) (2006年、信任状捧呈は7月26日[72] )
ミコラ・クリニチ (ウクライナ語版 ) (2007~2013年、信任状捧呈は4月23日[73] )
イーホル・ハルチェンコ (2013~2020年、信任状捧呈は4月11日[74] )
セルギー・コルスンスキー (2020年~、信任状捧呈は11月19日[75] )
外交問題
2022年3月1日、ウクライナ日本大使館がロシアと戦う日本人を「義勇兵 」としてTwitter上にて募集[76] [77] 。約70人の日本人が戦争参加へ志願した[78] 。
同年3月16日、ゼレンスキー大統領 が米議会で行った演説で、「真珠湾攻撃を思い出して欲しい。あのおぞましい朝のことを」と訴え、ロシアのウクライナ侵攻を、1941年の日本軍による真珠湾攻撃 になぞらえた。日本のネットユーザーからは批判があがり、日本では国会のリモート演説で真珠湾に触れないよう要望が出された[79] [80] 。同年同月23日、ゼレンスキー大統領が23日午後6時(ウクライナ時間午前11時)から、日本の国会でオンライン演説を行い、ウクライナ政府への追加支援を呼びかけた[81] 。
同年4月1日、ウクライナ政府は公式Twitterにて「現代ロシアのイデオロギー」と題した動画を投稿した[82] [83] 。ユダヤ人 大量虐殺(ホロコースト )を行ったナチス・ドイツ の独裁者ヒトラー やイタリアのファシズム 指導者ムッソリーニ と共に昭和天皇 の顔写真を並べ、「ファシズムとナチズム は1945年に敗北した」と記した[84] 。同年同月の24日、「昭和天皇をヒトラーと同一視した」などと批判が高まった事態を受け、動画から昭和天皇の顔写真を削除、Twitterで謝罪した[85] 。
同年4月12日、日本の公安調査庁 は「アゾフ大隊 はネオナチ 」と長年に渡り掲載していた記事を削除[86] 。公調は「8日にHPで示した以上の見解はない」とした[87] 。
同年4月25日、 Twitterで「困難な時に揺るぎない支援に感謝する」などとして、米国やドイツなど約30か国の国名を挙げた動画を公開したが、日本は含まれなかった。 動画では、画面に流れる国名の中に「日本」が含まれていないとして、国会議員などから異議を唱える声が上がっていた。 在日ウクライナ大使館 は同年同月27日、動画で表示される支援国に「日本」が追加された新たな動画をTwitterでシェアした。
地方公共団体レベルの交流
ウクライナを応援するために青色と黄色にライトアップされた愛知県
岡崎市 の
明代橋 (2022年3月12日撮影)
2022年3月、ロシアによる侵攻の事態を受けて東京都 は小池百合子 都知事の判断により都庁横断的に取り組むことにし、ウクライナ避難民のための相談窓口を開設した。ウクライナ語 、ロシア語 、英語 、やさしい日本語 で対応し、東京で安心して生活するのに必要な情報を提供し、詳しい相談の相手を案内する[88] 。ウクライナから避難してきた人が住むために都営住宅 をまず100戸用意しており、最大で700戸まで対応可能な状態にした[88] 。
姉妹都市
友好協力都市
民間交流
ロシア侵攻への抗議とウクライナ支持をする日本での集会
文化交流団体
キーウ工科大学 (ウクライナ語版 ) には、JICAによってウクライナ日本センター(UAJC)が設立され、「ウクライナの経済成長に資する人材の育成」と「ウクライナ・日本両国の社会・経済・文化面における交流関係促進」を目的とした。JICAのプロジェクトは2011年に終了し、以後は国際交流基金によって運営されている。日本語教育と文化交流事業を中心とし、併設された図書館には約12000冊の蔵書がある。2022年からはロシア侵攻によって休講を挟みつつ、オンラインのコースを再開した。来館者数は次第に回復し、2022年9月時点で1日あたり約300人となった[92] [93] 。ウクライナには他にもさまざまな民間の文化交流団体があり、2018年時点でテルノーピリ の「ダルマ」(達磨)、ムィコラーイウ の「タチカゼ」(太刀風)、ドニプロ の「フドウシンカン」(不動心館)などがある。
住民
2018年時点で在ウクライナ日本人 は約200名で、キーウに日本商工会が組織されている。2021年時点で在日ウクライナ人 は1858人となり、その後のロシア侵攻によって日本のウクライナ人コミュニティは増加している。居住地域は東京、横浜、大阪、京都、名古屋に集中しており、基本的に大都市に多い[注釈 10] 。主な移住の理由としては、就労、教育、家庭環境がある[注釈 11] 。日本人は2014年のウクライナ紛争 が始まるまで、ロシアとウクライナの違いを認識していなかった者が多かった。在日ウクライナ人への調査によれば、ほぼ全ての回答者が、ウクライナとロシアの違いを説明した経験がある。
ロシアによるウクライナへの侵攻は、ウクライナ人にとって歴史上最大の人道的危機となっている。法務省によれば、2022年9月時点で日本への避難民は1800人以上で、それまでの在日ウクライナ人の総数に迫る数となっている。2022年9月時点で日本の大学の51校がウクライナ人学生の無償受け入れを表明し、資金確保のためにクラウドファンディングなどが活用されている。
在日ウクライナ人の公式組織は、2022年8月時点で4団体ある。NPO法人日本ウクライナ友好協会KRAIANY、一般社団法人ジャパン・ウクライナパートナーズ、NPO法人日本ウクライナ文化協会(名古屋が拠点)、福岡県ウクライナ協会となっている。2007年にはウクライナ正教会 が東京に設立された[100] 。
ウクライナにおける日本年
2017年は「ウクライナにおける日本年」として、ウクライナ全土で合計80件のイベントが開催された。文化交流では日本文化の展示や講演、ワークショップ、シンポジウムなどが行われた。映画祭、民芸品とモダンアート展示、漫画ワークショップ、武道・茶道・書道・折り紙、日本語教室などもあった[注釈 12] 。また、日本とウクライナの協力分野として「福島・チェルノブイリ」の交流もテーマとなった[注釈 13] 。
ホロドモール追悼
スターリン 政権時代の1930年代 、ウクライナ および在ロシアウクライナ人 (ウクライナ語版 、英語版 ) が多く住んでいたロシア 領クバン地域 でソ連邦当局によって人為的な大飢饉が引き起こされた(ホロドモール )。1929年からソ連に滞在していた正兼菊太 はホロドモール当時のウクライナでスパイ活動をしており、のち1935年に当時の様子を語っている。
この大飢饉から90年後となる2022年 11月26日、東京都 港区 の日本聖公会 聖オルバン教会で合同祈祷式が執り行われ、キリスト教 諸派の司祭 やセルギー・コルスンスキー 駐日ウクライナ大使が一堂に会し、かつての大飢饉犠牲者を追悼すると共に現在ロシア軍に国土を蹂躙されているウクライナ が平和を取り戻すための祈りを捧げた[106] 。
語学
初めてのウクライナ語・日本語辞典として、1944年に刊行された『ウクライナ・日本語辞典』(УКРАЇНСЬКО-НІППОНСЬКИЙ СЛОВНИК )がある。著者はアナトリ・ジブローワとワシーリ・オジネツ、編纂は保田三郎で、収録語数は約11000語だった。
ソ連時代は外国語教育が統制下にあり、ウクライナで日本語教育が始まったのは1990年のキーウ国立言語大学 (ウクライナ語版 ) 附属東洋語大学からだった[注釈 14] 。次に国内の主要大学でも始まり、1994年には7つの大学を含む22機関で行われるようになった。日本語教師にはウラジオストクの極東国立大学 やレニングラード大学 の日本語研究者らが参加し、サハリン残留の日本人でウクライナに抑留経験のある人物もいた。日本からの教師派遣や日本人留学生の協力もあって整備が進められた。
当初の日本語教師の派遣はJICAと国際交流基金が担当しており、ソ連崩壊後は日本外交協会 が加わって、NIS諸国派遣日本語教育専門家(通称NIS日本語教育専門家)の派遣を行った[注釈 15] 。ウクライナ独立後の1996年に初の専門家がキーウ大学 に派遣された。キーウ大学では2000年から日本語講座が毎年開講されるようになり、国内のインターネット普及で日本からの情報取得も始まった。2005年には日本語能力試験 がウクライナでも受験可能になり、2006年にJICAのウクライナ日本センターが活動を開始し、市民向けの日本語教育も提供された。当時のウクライナの日本語学習者の関心は、日本の伝統文化、サブカルチャー、留学や就職、同じ被爆国としての共感などだった。ウクライナの日本語学習者の数は、1993年-1994年の731人から2018年の2174人となっている。
日本のウクライナ語教育機関は、2022年8月時点で3つの日曜学校がある。東京のジェレルツェとホロバチョク、名古屋のベレヒーニャの3校となっている。2023年秋から神戸大学 で一般教養課程としてウクライナ語の講義が始まった[112] 。
舞台芸術、音楽
日本人がウクライナ文化に触れる最初期の機会となったのは、カルメリューク・カメンスキーのウクライナ劇団の訪日だった。この劇団は1915年にウラジオストクで芸術座 と共演したことがきっかけで1916年に日本公演を行い、神戸、東京、横浜で好評を呼んだ[注釈 16] 。劇団員は民族衣装のヴィシヴァンカ を着て、日本で初めてウクライナの民謡・舞踊を演じた。
作曲家の山田耕筰 は、1918年にニューヨークでセルゲイ・プロコフィエフ に会った。プロコフィエフはドネツク州 出身で革命を避けてアメリカに渡ったところで、この縁がもとで山田は1931年にキーウで演奏会と講演会をした。キーウ出身のピアニストのレオ・シロタ はハルビンで山田と知り合い、山田の招きで1929年に訪日して東京音楽校(現・東京芸術大学 音楽学部)の教授として15年間日本に滞在した。
ウクライナ国立歌劇場
ウクライナのバレエ、オペラ、オーケストラは訪日公演が盛んであり、2022年8月時点で合計527公演を数える。ウクライナ国立歌劇場 のウクライナ国立バレエ 、キーウ・オペラ、ウクライナ国立歌劇場管弦楽団は、光藍社 の招聘により定期的に公演を行なっている。2022年のロシア侵攻後は公演中止が検討されたが、団員の希望によって「キーウ・バレエ・ガラ2022」が実現した。キーウ国立バレエのソリスト経験を持つ寺田宜弘 は2022年から芸術監督に就任し、侵攻後初となる公演を指揮した[注釈 17] [117] 。キーウ国立バレエ学校と寺田バレエ・アートスクールは、姉妹校としてバレエの文化交流を行なっている。オデーサでも交流が盛んであり、寺田翠 や大川航矢 がオデッサ・オペラ・バレエ劇場 のバレエ団に所属経験がある。また、吉田裕史 は同劇場の首席客演指揮者に就任した。
ウクライナ出身の音楽家ナターシャ・グジー は、2000年代から日本で活動し、民謡をはじめとするウクライナ音楽を演奏している。ウクライナと日本の相互理解への功績により、2016年に外務省から外務大臣表彰を受けた[120] 。
スポーツ
ウクライナ出身の父を持つ大鵬。のちに父の故郷ハルキウを訪問した
ウクライナで武術をする人々は2018年時点で150万人おり、日本の武道 の人気が高い。ウクライナ武術ポータルのアンケートによれば、最も勤しんでいる武術は空手道 の26.7%で、他にも柔道 、柔術 、合気道 が10位内に入った。
元横綱の大鵬幸喜 の父は、ハルキウ出身のマルキャン・ボリシコ だった。ボリシコはロシア革命を逃れてポルタヴァ県 から樺太南部に移住し、納谷キヨとの間に幸喜が生まれた。ソ連の樺太侵攻 によってボリシコは逮捕され、それ以後は幸喜と会えずに1960年に死去した。大鵬は2002年にハルキウを訪問し、それを記念してハルキウでは大鵬幸喜大会が開催されるようになった[122] 。
文学
ヴァスィリー・エロシェンコ。日本語で執筆してユニークな童話も発表した。エスペランティスト でもあった。肖像画は中村彝 画。
ウクライナ出身の作家ヴァスィリー・エロシェンコ は、1914年に日本での生活を始めた[注釈 18] 。日本語やマッサージを学びながら創作活動を行い、中村屋 のサロンで秋田雨雀 や神近市子 らと交流したが、ロシア共産党員であるという誤解を日本政府から受けて国外退去処分となった[124] 。エロシェンコは20作以上の童話も日本語で残している[注釈 19] 。
宮沢賢治 はウクライナの農業を理想化し、「曠原淑女」という詩で故郷の農婦をウクライナの舞手にたとえた。詩人の石原吉郎 は、第二次大戦時代に捕虜となって8年間の抑留生活を送り、ハバロフスクに強制移住させられていたウクライナの女性から食事を振る舞われた体験を『望郷と海』に書いている。
翻訳では、1959年にタラス・シェフチェンコ の詩集『コブザーリ』が日本語に翻訳され、1972年には安部公房 、大江健三郎 、松尾芭蕉 などがウクライナ語に翻訳された。1961年にオレーシ・ゴンチャールは東京での作家会議にソ連作家団の団長として訪日した。ウクライナの亡命作家のネストル・リペツィキーは『遠い島国の歌』(1972年)という日本近代詩をウクライナ語で発表した。
民間交流の関連項目
学術団体
ウクライナ研究会(国際ウクライナ学会日本支部)
会長
脚注
注釈
^ 解釈が異なる見解については、立憲君主制 の項にある注釈の中の記載を参照。
^ 日本政府は1874年にサンクト・ペテルブルグに公使館を設置したのちに領事館を開設し、コンスタンチン・アンドレフスキーが初代の日本国名誉領事に就任した。
^ 芦田はロシア帝国の中でキーウに最も愛着を示し、ウクライナ人が活動的であると高く評価したが、ウクライナ独立運動は支持しなかった。
^ ピークの2008年には乗用車8.5万台が輸出され、対ウクライナ輸出の73パーセントに達した。
^ 当時のウクライナは、国内企業の資金調達の45%と、一般世帯のローンの65%が西側諸国の金融機関からとなっており、金融危機の影響が大きかった。ユシチェンコ政権はIMFの支援16億ドルを受け、支援の条件として緊縮策を行った。
^ 日本に避難し、身元保証人がいる場合に支援の申請ができる。身元保証人の支出した渡航費や日本での生活費について支援を受けられる。
^ チェルノブイリ原発事故は、ウクライナ人がロシア政府に不信を抱き、ソ連からの独立を強めたきっかけでもあった。
^ ウクライナの核兵器廃絶は、経済危機による核兵器維持の困難さと、西側諸国からの核保有の批判も影響していた。
^ 2011年10月30日、日本政府は福島原発事故を受けてウクライナがどのようにチェルノブイリ原発事故に対処しているのかを調査するため、在キーウ日本大使館の職員数を30人から36人に引き上げた。
^ 在日ウクライナ人の統計が始まったのは1993年で、当時は5人だったが、ソ連市民の統計にウクライナ人が含まれていた可能性がある。
^ 女性の場合、高等教育を受けて日本語能力があるにも関わらず就労していない割合が高い。これは、日本社会のジェンダーバイアスが原因にあるとされる。
^ 画家のミヤザキケンスケは世界壁画プロジェクトとしてキーウのArt-zavod Platformaとマリウポリの中等学校で壁画を描き、アートクラスも行った。漫画家の夏目は「日本のイラストの中のウクライナ兵」を描いてウクライナの防衛に敬意を表現した。
^ デザイナーの高田賢三 が福島の被災者支援として始めた「起き上がりこぼしプロジェクト」が、チェルノブイリ博物館 でも展示された。
^ 西側の言語に属する日本語教育は、ソ連時代はモスクワ国立大学、サンクトペテルブルグ国立大学、ウラジオストクの極東国立大学に限定されていた。
^ ソ連時代のウクライナ人が持つ日本のイメージは、基本的にロシアを経由した情報に基づいていた。
^ ウクライナ劇団と共演した芸術座には松井須磨子 や島村抱月 らがいた。
^ 当時、ウクライナ国内に残った団員と国外に避難した団員の間で対立があり、寺田は外国出身の立場として団員を結束させることができると考えた[117] 。
^ エロシェンコは、日本で視覚障害者 がマッサージ師として自立しているという情報を聞いて訪日をした。
^ 執筆は口述筆記か点字で行われたと推測されている。
出典
参考文献
関連文献
生田美智子 編『女たちの満洲 ―多民族空間を生きて―』大阪大学出版会、2015年。
大西由美「ウクライナにおける大学生の日本語学習動機 」『日本語教育』第147巻、日本語教育学会、2010年、82-96頁、2024年3月29日 閲覧 。
岡部芳彦『日本・ウクライナ交流史1915‐1937年』神戸学院大学出版会、2021年。
岡部芳彦『日本・ウクライナ交流史1937‐1953年』神戸学院大学出版会、2022年。
開発援助研究所「ウクライナ経済の現状と課題 」『OECF Research Papers』第35巻、海外経済協力基金 開発援助研究所、1998年3月、1-87頁、2024年3月3日 閲覧 。
阪本秀昭 編『満洲におけるロシア人の社会と生活 日本人との接触と交流』ミネルヴァ書房、2013年。
長縄光男 , 沢田和彦 編『異郷に生きる 来日ロシア人の足跡』成文社、2001年。
関連項目
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