秋田 雨雀(あきた うじゃく、1883年〈明治16年〉1月30日 - 1962年〈昭和37年〉5月12日)は、日本の劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家である。本名は徳三(とくぞう)[1]。
産科医である父玄庵(全盲であった)と、母まつの長男として青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれる。黒石尋常小学校、青森県立第一尋常中学校(青森県立弘前高等学校の前身)を経て東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学する。在学中の1904年、詩集「黎明」を刊行[2]。
1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表。小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、戯曲への関心を深める[2]。1909年小山内薫の自由劇場に参加[2]。1911年「自由劇場」の第四回公演で、自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。
1913年、島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加[2]。翌1914年に脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成[2]。以後、芸術座、先駆座などに参加[2](先駆座は相馬黒光の実家につくった劇場で、1923年に上演[3])。その一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍した。
1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、彼と島村ら文化人との親交を取り持った。1921年には小坂狷二と共にエスペラント教本『模範エスペラント独習』を出版。1931年、日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加した。
1921年、日本社会主義同盟に加わり、1924年フェビアン協会を設立。1927年、ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問[3]。1928年、帰国後、国際文化研究所を創設して所長。1929年、プロレタリア科学研究所として引き継き所長。1940年検挙される[2]。
1934年新協劇団結成に参画し事務長となり、雑誌「テアトロ」を創刊[2]。
1947年、第1回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で青森地方区から立候補したが落選している。 1948年、東京都豊島区に開校した舞台芸術学院の院長に就任[4]。
1949年共産党に入党。1950年には日本児童文学者協会第2代会長に就任。1960年、黒石市名誉市民[2]。1962年5月12日、結核と老衰のため東京都板橋区中丸町の自宅で死去[5]。墓所は東京都豊島区雑司が谷の本納寺。
娘はロシア文学者上田進(演劇評論家尾崎宏次の実兄)に嫁した。
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