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タラス・グリゴリエヴィチ・シェフチェンコ、タラス・フルィホーロヴィチ・シェウチェンコ[2](ウクライナ語: Тара́с Григо́рович Шевче́нко ロシア語: Тарас Григорьевич Шевченко 英語: Taras Hryhorovych Shevchenko、1814年3月9日 - 1861年3月10日[1])は、ウクライナの詩人、画家である。近代ウクライナ語によるウクライナ文学の始祖と評価されている。
農奴制に反対し、秘密結社「聖キリルと聖メソジウス団(英語版)(Кирило-Мефодіївське братство)」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。1847年4月5日に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを批判する詩が見つかり逮捕された。サンクトペテルブルクの刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。
画家としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都キエフには彼の名を冠したタラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学がある他、ウクライナ国家文学芸術賞「シェフチェンコ国家賞(英語版) 」、ウクライナ人民共和国・ディレクトーリヤ時代の軽巡洋艦「巡洋艦タラス・シェフチェンコ」、「タラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学」、「タラス・シェフチェンコ国立博物館(英語版)」、国外でもニューヨークの「タラス・シェフチェンコ広場(英語版)」等、シェフチェンコにちなんだものも多い。
概要
タラス・シェフチェンコは1814年3月9日[3]、ロシア帝国領ウクライナ、キエフ県モールィンツィ村(英語版)[4]の農奴の家庭にて、父フリホーリィ・シェフチェンコ(英: Hryhoriy Ivanovych Shevchenko)と母カテリーナ(英: Kateryna Shevchenko)のあいだに生まれた。
一家は翌年、近隣のキリーリフカ村(現在のシェフチェンコ村、Шевченкове)へと移る[5]。彼らが生活したのはドイツ系ロシア貴族のヴァシーリィ・エンゲリガルト(Енгельгардт Василь Васильович)の所領であった[5]。
幼い頃より村の教会学校で読み書きを習いながら、絵画を独学していたが、1823年(9歳)に母、25年(11歳)に父を失ってしまう[6]。孤児となったシェフチェンコは、教会の住み込みとして輔祭のもとで働きながら教会スラヴ語の読本や祈祷書などに親しんだ[6]。その後1828年、14歳の時にヴィリシャーナ村(英語版)にて(先代ヴァーシリィの跡を継いでいた[6])パヴェル・エンゲリガルドト(ウクライナ語版)の家庭で小使を務めはじめた。
1829年にはエンゲリガルトに随伴して、ロシア帝国領リトアニアのヴィリニュスへ移り、1831年以降は帝国の首都ペテルブルクに住むようになった。地主はシェフチェンコを家庭画家にする予定があったので、シェフチェンコはロシア画家V.シリャイエフ(ウクライナ語版)の弟子となり、美術を習うこととなった。この頃から、シェフチェンコは密かに詩を書くようになる。
シェフチェンコの作品はロシアの画家たちカール・ブリューロフ、イヴァン・ソシェンコ(英語版)、アレクセイ・ヴェネツィアノフと、詩人たちヴァシリー・ジュコフスキーとイェヴゲン・フレビーンカ(英語版)などによって高く評価され、1838年にシェフチェンコ自身は彼らの努力によって農奴制から解放された。同年、上述した文化人たちの推薦によってシェフチェンコはロシア帝国美術大学に入学し、ブリューロフの弟子となった。
1840年にシェフチェンコは、美術大学に在籍しながら、有名な詩集『コブザール(ウクライナ語版) 』を著した。詩集はウクライナ語で書かれていたので、ヴィッサリオン・ベリンスキーをはじめとするロシアの知識人はシェフチェンコを「いなかっぺの言葉」を用いる「いなかっぺの詩人」として鋭く批判した。一方、ウクライナの文化人たちは、『コブザール』を絶賛した。都の批判に対しシェフチェンコは、ウクライナ・コサック時代を英雄化する『ハイダマークィ』(1841年)と『ハマリア』(1844年)という二つの物語詩を出版した。
1843年にシェフチェンコはウクライナに戻り、史学者ムィハーロ・マクスィモーヴィチと作家パンテレイモーン・クリーシュ(英語版)と知り合い、『絵のように美しいウクライナ』という絵画シリーズを作り始めた。大学に戻ったシェフチェンコは、1844年に反農奴制と反帝国主義を説く『夢』という政治的物語詩を著した。同じく農奴である役者、ミハイル・シェープキンとも交流があった。
絵画作品
主な著作
文学リスト
脚注
参考文献
関連文献
関連項目
外部リンク