ボフダン・フメリニツキー (ウクライナ語 : Богда́н Хмельни́цький ボフダン・フメリヌィーツィクィイ [ 2] 、1595年 - 1657年 8月6日 )は、ポーランド・リトアニア共和国 の貴族 で、ウクライナ・コサック の指導者である。ザポロージャのコサック の軍団書記 (ウクライナ語版 ) (1622年 - 1647年 )や、ウクライナ・コサックの最高指導者ヘーチマン (1648年 - 1657年 )を務めた。ヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対し1648年 から1657年 にかけて、フメリニツキーの乱 を起こし、1654年のペラヤースラウ会議 でポーランドと戦うために、ロシア・ツァーリ国 のツァーリ から保護を受けることで、ヘーチマン国家 を建設した。キエフ・ルーシ 崩壊後のウクライナ史 最大の英雄との意見もあるが[ 3] 、ウクライナ国内外に否定的な評価もある。当時ロシアに匹敵するほどの大国であったポーランドが大国から小国に転落する大洪水時代 の始まりとなる人物であり、彼の反乱がポーランド分割 に繋がるため批判の的である[ 4] 。
1649年-1654年におけるウクライナ・コサック国家(水色)
周囲は大国に囲まれていたため、最初はクリミア・ハン国と同盟を結んだが裏切られ、次にオスマン帝国に対する自国の保護国要請をし、保護国とするとオスマン帝国の表明を受けて保護国になろうとしたが、国内の正教会宣教師反対と部下の無断なオスマン帝国保護国への攻撃により頓挫。最終的に大国ポーランド・リトアニア共和国から独立に成功したものの、正教会国であるロシアの保護国となった。彼の乱と軍事的支援要請以降に、ロシアのウクライナ初進出と東欧進出の野望に繋がり、ウクライナを自国領域と見なすようになったきっかけとなった。そのため、ロシアからは完全肯定に近い評価であるが、19世紀 ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコ は、ウクライナをロシアに売った売国奴 として強く非難している[ 5] [ 6] 。
生涯
前半生
1595年にドニプロー川 中流域のチヒルィーン 近郊にあるスボーチウ に生まれた[ 3] 。父ムィハーイロ (ウクライナ語版 ) はコサックの小領主であった。フメリニツキーは実家の近所の教会学校で初等教育を受けたあと、ヤロスワフ のイエズス会 神学校、あるいはポーランドの大将軍スタニスワフ・ジュウキェフスキ が自らの地元リヴィウ に設立した学校で中・高等教育を受けたとされている。通常のローマ・カトリック 教徒の同級生が多いなか、ボフダン少年は正教会 に所属しつづけた[ 1] 。学校では世界 やポーランドの歴史 、ウクライナ語 、ポーランド語 、ロシア語 、トルコ語 (オスマン語 )、ラテン語 を習得したとされる[ 7] 。
1620年 、父に従いツェツォーラの戦い に従軍し、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国 軍と戦った[ 8] [ 9] 。この戦いで父が戦死し、フメリニツキー自身は捕虜となり、イスタンブール に2年間抑留された[ 8] 。この間もトルコ語の習得に余念がなく、オスマン帝国の情勢に精通するようになった。1622年 に母親が身代金 を工面したため帰国を許された。その後、登録コサック に入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営の傍らコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高い評価を得たとされている[ 10] 。
1637年 から1638年 に起きたウクライナ・コサック のポーランドに対する反乱の際には、オタマーン (コサック指導者)の軍団書記として従軍した[ 9] 。
1645年 ごろにはコサック傭兵の参加問題でポーランド政府からフランス王国 に派遣された他、ポーランド王ヴワディスワフ4世 の対クリミア作戦計画にも参加した[ 9] 。
蜂起
ボフダン・フメリニツキーの旗。ポーランド・リトアニア共和国の御慈悲(МЛС )の王(ЕК )の(臣たる)ボフダン(Б )フメリニツキー(Х )、ザポロージャ(З )の軍(В )のヘーチマン (Г )。
1647年 、ポーランドの貴族でチヒルィーンの副長官ダニエル・チャプリンスキ が、50歳を超えていたフメリニツキーの領地を奪おうとした[ 10] 。フメリニツキーはチフィルィーンの法廷やポーランド議会、ポーランド王ヴワディスワフ4世 に訴えるが、フメリニツキーの主張が支持されることはなかった。秋になると、フメリニツキーはウクライナ中を回って各地方のコサックの有力者に自分の立場を訴えたが、このことでフメリニツキーはポーランド・リトアニア共和国に対して反乱するためにコサックを糾合すべく根回しを行っているのではないかとの嫌疑がかけられることになり、チフィルィーンの代官によって逮捕されてしまう。フメリニツキーには死刑の宣告が下ったが、12月にフメリニツキーは代官を説得して出獄、一方でポーランド・リトアニア共和国に対する蜂起を決意する。フメリニツキーはザポロージャのシーチ (英語版 ) に逃れ、ポーランド貴族による収奪に不満を蓄積していたコサック達を説得することに成功する[ 10] 。
1648年 、フメリニツキーは、ムィクィーティンのシーチ (ウクライナ語版 ) における会議 によってザポロージャのコサックのヘーチマン に選出された[ 10] 。フメリニツキーはクリミア・ハン国 とも同盟を結び[ 11] 、ジョーウチ・ヴォーディの戦い で政府軍に勝利する。フメリニツキー率いるコサック・タタールの同盟軍は、1648年秋にはワルシャワ に達する勢いであった[ 11] 。この年にポーランド王に即位したヤン2世カジミエシ によってコサックの伝統的権利の維持などを約束する、コサックは王にのみ従い土地の貴族には従わないとした和平を結び[ 11] 、フメリニツキーは兵を引きキエフ に戻った。キエフに凱旋したフメリニツキーは、キエフの正教会 府主教 や、偶然キエフに滞在中であったエルサレム 総主教から「ポーランドからの解放者」「第二のモーゼ 」と呼ばれ歓呼の声で迎えられた[ 12] 。フメリニツキーは戦いの意義としてポーランド支配からの脱出を自覚しポーランド軍をズボーリウ で破り、ズボーリウ条約 (ズボリフ休戦協定[ 12] )を結んだ[ 12] 。同条約でウクライナ(キエフ州、チェルニヒフ州、ブラツラウ州のこと)はコサック領とされ[ 12] 、ポーランド軍、ユダヤ人 、イエズス会の排除が取り決められた。ここにウクライナは事実上のコサック国家 となった[ 12] 。
ペレヤースラウ条約
フメリニツキーはこうしてウクライナのポーランドからの自治を勝ち取ったものの、ウクライナは周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。1651年 6月のポーランドとの戦いではタタール軍(クリミア・ハン国)がポーランド側に寝返り、フメリニツキーはタタール軍を説得しようとしたが逆に拘束されたためコサック軍は大敗を喫した[ 13] 。この結果登録コサックの数は2万人にまで減らされ、ヘチマン国家の統治域もキエフ州のみに縮小された。フメリニツキーは同盟国を求めて一時はオスマン帝国の宗主権下に入った。またモルダヴィア公国 やスウェーデン との同盟も求めようとしたが[ 14] 、1654年 にはロシア・ツァーリ国 とペレヤースラウ条約 を結んでその保護下に入った[ 15] 。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年にわたるモスクワによるウクライナ支配の口実をも齎してしまった側面がある。
ヘーチマン国家は制度上はポーランドに属する自治領でありながらも事実上はモスクワが宗主権を行使することになり、自治権も次第におびやかされることになった。この協定に対する評価もウクライナとロシアではわかれている[ 16] 。ウクライナはこの協定を、フメリニツキーが結んだ多数の短期的な同盟の単なる一つとみなしたが、ロシアおよび後のソ連 は、キエフ・ルーシの崩壊以来、歴史の中で別々の道を歩んだロシアとウクライナがこの協定でついに「永続的に」統合されたとみなした[ 16] 。
ポーランドから守ってもらうためモスクワの保護下に入ったウクライナであったが[ 17] 、1656年 にポーランドとモスクワが対スウェーデン戦争のために同盟を結んだことが、モスクワに対するフメリニツキーの怒りを呼び起こした[ 17] 。彼はその後、ポーランドだけではなくロシア・ツァーリ国からの独立をも目指して再び蜂起しようとしたが失敗し、その直後1657年 に病死してしまった[ 17] 。
ウクライナ以外における評価
『ルヴフ 近郊のボフダン・フミェルニツキとトゥハイ・ベイ 』(マテイコ、1885年 )。
ポーランド史では、フメリニツキー(ポーランド語ではフミェルニツキ)の名は、ポーランド・リトアニア共和国の繁栄時代を一挙に終わらせ、共和国分割 に繋がる国家崩壊をもたらした忌まわしき名として思い起こされる。ポーランド史において、フメリニツキーの乱とコサック国家の自立は、フメリニツキー死後のコサック国家内の混乱のためもあり、共和国領内へスウェーデンやロシアなど外国勢力の侵入を招く「大洪水時代 」の序幕となった。こののち100年あまりをかけて共和国は凋落の一途を辿り、分割されて国家は消滅する。
文化面での扱いは違った。ロマン主義 の時代以降、ポーランドの多くの芸術家にとってウクライナという地方はインスピレーションを掻き立てられる憧憬の地となった。そうした中で、フメリニツキーはかつての自由なるコサックの栄華を思い起こさせる代表的な歴史的人物となった。文学 では、ヘンリク・シェンキェヴィチ の『三部作 (ポーランド語版 ) Trylogia 』の第一作目、『火と剣もて (ポーランド語版 ) Ogniem i mieczem 』(1884年 )が最も知られている。この作品ではまさにフメリニツキーの乱が描かれ、その中でフメリニツキーはライバルのヴィシニョヴィェツキ とともに物語の中心的な人物とされている。絵画芸術の分野では、ヤン・マテイコ やユリウシュ・コサック (ポーランド語版 ) といった著名なポーランド人画伯が、フメリニツキーや彼の時代の出来事を題材とした絵画を多く残している。
一方、ロマン主義の入る余地のなかったのが、ユダヤ人 であった。1648年にユダヤ教徒に対して行われた大虐殺 により[ 18] 、ユダヤ史ではフメリニツキーの乱は最悪の事件の一つとして数えられ、各地の「寛容の博物館(Museum of Torelance)」等ではヒトラー に継ぐ大悪人として紹介されている[ 19] 。
記念
現在、フメリニツキーはウクライナ最大の英雄 として扱われており、首都キエフ の中心近くには彼の銅像 (ウクライナ語版 ) の立つソフィヤ広場 (ウクライナ語版 ) (一時期、フメリヌィーツィクィイ広場と呼ばれた)があり、いすゞ自動車 との提携で販売されているマイクロバス にも「ボフダン 」という彼の名が付けられたものがある。また、5 フリヴニャ 紙幣にも肖像が用いられている[ 6] 。
家族
関連項目
脚注
^ a b Bohdan Khmelnitsky – Russiapedia History and mythology Prominent Russians
^ ラテン文字転写 の例: Bohdan Zynovij Mykhajlovych Khmel'nyts'kyj 。ポーランド語 名ではボフダン・ゼノビ・フミェルニツキ (Bohdan Zenobi Chmielnicki )、ロシア語 名ではボグダン・ジノーヴィイ・ミハーイロヴィチ・フメリニーツキイ (Богда́н Зино́вий Миха́йлович Хмельни́цкий )。
^ a b 黒川 (2002), p.100
^ 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』p108,黒川祐次,中央公論新社〈中公新書; 1655〉、東京、2002年(日本語)。000003673751。
^ “ВЕЛИКЕ ПОВСТАННЯ ”. www.infoukes.com . 2022年2月26日 閲覧。
^ a b 黒川 (2002), p.112
^ 黒川 (2002), p.101 、仏 の作家プロスペル・メリメ 著『ボグダン・フメリニーツキー』より
^ a b 黒川 (2002), p.101
^ a b c 『ロシア史1』, pp.378-379
^ a b c d 黒川 (2002), p.102
^ a b c 黒川 (2002), p.103
^ a b c d e 黒川 (2002), p.104
^ 黒川 (2002), p.106
^ 黒川 (2002), p.107
^ 黒川 (2002), p.108
^ a b 黒川 (2002), p.109
^ a b c 黒川 (2002), p.111
^ ユダヤ人の死者数は証拠不足により精確さに疑問がもたれているが、一番低い見積もりでも2万人とされる(当時のユダヤ人口は5万1千人)。N.ヤコヴェーンコ著『ウクライナ史の概説』、1997年
^ この件に限らないが、フメリニツキー自身の研究にせよ、ウクライナの地におけるユダヤ教徒の歴史にせよ、日本語による研究は少ない。フメリニツキーの大虐殺に関しては、英語ではJerome A. Chanes著『Antisemitism』 に、また、西洋史の野村真理『ガリツィアのユダヤ人 ポーランド人とウクライナ人のはざまで』(人文書院、2008)やウクライナにおけるユダヤ人の専門家赤尾光春 の論文「ウマン巡礼の歴史―ウクライナにおけるユダヤ人の聖地とその変遷―」『スラヴ研究』第50号 に言及がある。
参考文献
Крип'якевич І. Богдан Хмельницький . К. 1954. (ウクライナ語)
Смолій , В. А., Степанков, В. С. Богдан Хмельницький , Альтернативи, 2003. (ウクライナ語)