秋元 康(あきもと やすし、1958年〈昭和33年〉5月2日 - )は、日本の音楽プロデューサー・作詞家・放送作家。
略歴
東京都目黒区大橋出身[2]。
中央大学文学部中退。妻は元アイドルの高井麻巳子[注釈 1]。株式会社秋元康事務所所属[注釈 2]。日本映画監督協会会員[3]。2010年6月、日本放送作家協会理事長に就任[4]。2016年4月、代々木アニメーション学院名誉学院長兼総合プロデューサーに就任[5]。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事[6]。株式会社KeyHolder特別顧問[7][8]。株式会社Fanplus特別顧問[9]。テレビ朝日放送番組審議会委員[10]。
とんねるずのブレーンおよびプロデューサーとして世間に認知されて以降、ジャンルを問わず多数の楽曲の作詞を手掛ける。2000年代以降は、AKB48グループや坂道シリーズのプロデューサーとしてほとんどの楽曲の作詞をしている。
来歴
生い立ち
サラリーマン家庭の2人兄弟の長男である[2]。喘息を患い、小学1年生の時に保谷市(現・西東京市)に引っ越し、西東京市立中原小学校へ入学した[2]。大蔵官僚を志望し、開成中学校を受験するも不合格となった[11]。
親の勧めもあり中央大学附属高等学校に進学[2]。高校2年生の時、そろそろ勉強しないと東京大学に入学できないと思い、受験勉強を開始した[12]。
放送作家の活動
高校2年の冬、ニッポン放送『せんだみつおの足かけ二日大進撃!』を聴いていた際に何気なく、せんだみつおを主人公とした『平家物語』のパロディを、受験勉強のために用意したノート20枚にわたり書き上げた[注釈 3][11][13]。募集されていたわけではなかったが、同級生の薦めもあってノートをニッポン放送へ送ったところ、ニッポン放送制作部副部長だった亀渕昭信[注釈 4]と、大橋巨泉事務所の放送作家グループに所属していた奥山侊伸の目に留まり[14]、ニッポン放送へ遊びに来るように言われ、出入りするうち奥山の弟子となり、大橋巨泉事務所に所属した[15]。高校生でありながら頭角を表し、同年齢の山口百恵の番組を担当し放送作家として原稿を書き続けた。その後、中央大学文学部に進学し、放送作家の活動を本格的に始めた[15]。当初は放送作家をアルバイトと考えていたが、放送作家業によって当時のサラリーマンの4倍近い収入を得ていた[15]。しかし、本人はそれをあぶく銭だとしていた[15]。「思えば、道草から始まった人生」と自身は回想している[16]。
作詞家の活動・おニャン子クラブのブレーンとしての活動
放送作家業に物足りなさを感じ、また放送作家業の将来性に不安を感じていたところ、亀渕からニッポン放送の子会社だったパシフィック音楽出版(後のフジパシフィックミュージック)の朝妻一郎を紹介され、作詞を手掛けるようになる[12]。これらの経緯から、作詞家としてはフジパシフィックと契約している[17]。
1981年、フジテレビ系で放送されたアニメ『とんでも戦士ムテキング』の挿入歌「タコローダンシング」[注釈 5]で初めて作詞家としてクレジットされる[18]。
アーティストに初めて提供した作品は、Alfeeのシングルレコード「通り雨」(1981年10月21日発売)のB面「言葉にしたくない天気」である[15]。これ以降、作詞家としても活動を開始した。1982年の稲垣潤一「ドラマティック・レイン」、1983年の長渕剛「GOOD-BYE青春」で作詞家としての知名度を獲得した[12]。
放送作家としてテレビ番組『ザ・ベストテン』、『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』の構成を担当して高視聴率を挙げる一方、さまざまなジャンルの楽曲の作詞を手掛ける[19]。1985年の小泉今日子「なんてったってアイドル」[20]、同年のとんねるず「雨の西麻布」などの楽曲をヒットさせる[21]。
1985年からは女性アイドルグループ・おニャン子クラブの楽曲を手掛け、全楽曲の作詞を担当した。後に総合プロデューサーとして関わるAKB48とは異なり、おニャン子クラブは先述の『夕やけニャンニャン』が最初にありきで、秋元自身は、おニャン子クラブについては共同作業であるとし、自分は仕掛け人ではないと説明している[22]。また、国生さゆりは「構成作家の秋元さんはスタッフの一員、いい意味で他のスタッフと同列だった」と述べている[23]。1986年のオリコンウィークリーチャート52週のうち36週でおニャン子クラブ関係の楽曲が1位を獲得[18]。1987年には長者番付のその他の部門で16位となり、納税額は1億61万円であった[24]。
1988年、おニャン子クラブのメンバーだった高井麻巳子と結婚した[25]。結婚と同時に渡米し、ニューヨークに1年半ほど滞在[19]。帰国後、美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」の作詞を担当した[19]。これにより作詞家としての地位を不動のものにした[21]。
AKB48グループ・坂道シリーズなどのプロデュース
2005年、KRKプロデュース代表の窪田康志、office48代表の芝幸太郎、電通らと協力し『秋葉原48プロジェクト』を発足した。東京・秋葉原で女性アイドルグループAKB48を立ち上げ、総合プロデューサーに就任した[26][注釈 6]。2006年、AKS[注釈 7]を、東京都港区白金台(KRKプロデュース社内)に設立し、AKB48の運営・管理業務を行う。
2010年初頭、インタビューで秋元は「将来は国内7大都市に劇場を建て、選抜メンバーでJAPAN48を作りたい」と語り、実際に国内外にAKB48の姉妹グループを立ち上げた[注釈 8]。
2011年にAKB48の公式ライバルとして乃木坂46を立ち上げ、2015年からは坂道シリーズと称して欅坂46(現・櫻坂46)、けやき坂46(現・日向坂46)、2018年には吉本興業所属の芸人・タレントによる吉本坂46を立ち上げた[28][29]。
2013年、ジャーナリストの田原総一朗との対談の中で、将来的にはAKB48のプロデュース業から退くことを示唆している[注釈 9]。
2023年、乃木坂46の公式ライバルとして僕が見たかった青空をプロデュースすると発表した[31]。8月30日、シングル『青空について考える』でCDデビュー[32]。
人物
身長は166.7 cm[注釈 10]。愛称は、やすす[34]、秋元先生[35]。2001年3月、第1子である長女をもうけた[36]。毎日の睡眠時間は3時間ほどである[37]。好きな座右の銘は「人生無駄なし」[12]。
放送作家
- 放送作家としてデビューして以来、2012年8月に毎日新聞のインタビューで尋ねられるまで、プロフィール上の生年を1956年としていた(実際の生年は1958年なので2歳上に鯖を読んでいたことになる)。その理由は、高校2年でラジオの台本を書いていたころ、同級生の親友からニッポン放送でアルバイトをしたいと言われて局に相談したところ「大学生でなければダメ」と言われたので、親友を大学1年であるとごまかし、秋元もそれに倣って大学1年としていたからで「いまさら直すのも面倒」ということでそのままにしていた[38]。JASRACなどには当初より実際の生年で届けている[39]。
- エンターテインメントの基本は予定調和を破壊することにあると考え[40]、予定調和を嫌う傾向にあるとされているが[41]、正確には、予定調和を破壊することに狙いがあるのではなく、既成概念にとらわれないという意味でこの言葉を用いている[42]。放送作家の時代は、短期間継続的にヒットを出さなければならない立場にあったため、確実性を求め、市場の最大公約数に従う企画を制作していたが[43]、その結果として技術が平均化し、突出した試みができず[44]、真似されやすく、過当競争に巻き込まれる危険性が高いことから、のちに企画の優位性・差別化を重視するようになった[45]。秋元がいつもスタッフに言っている言葉に「みんなが行く野原には野イチゴはない」があり、みんなが思いつく場所には絶対に美味しいものは残っていないという信条がある[46]。
- 秋元は「自分は天才でもアーティストでも芸術家でもない[要出典]。ピカソになりたい広告代理店マン。でもピカソになりたいと思った時点でピカソにはなれない」[47]、「我々の仕事は不安定な上に潰しがきかない。我々のようなレベルの人間でもいつ仕事がなくなるか不安を抱いている」と述べている[48]。
作詞家
- これまで4,000曲以上を世に送り出してきた[49]。多いときは1日で10曲の作詞をする[50]。2022年の時点で年に200から300曲の作詞をする[51]。
- AKB48とその姉妹グループ(および派生ユニット)、坂道シリーズとその関連グループのほとんどの楽曲の作詞を手掛ける。2012年2月現在、AKB48関連だけで700曲を超える(ステージ公演曲やシングルCD・アルバムなどを含む)。AKB48や乃木坂46の作詞は、およそ1,000曲の中から楽曲を選び、アレンジが完成した段階から作詞を始める[52]。
- 自身の作成した歌詞は「詩」ではなく「詞」と考えており、誰の口からその言葉が発せられるのかを念頭に作詞しているため、多少違和感があっても、耳に残るような歌詞や声のニュアンスを重視している[52]。
- 通常は作詞を終えた後にタイトルを付けるスタイルを採用している[53]。例外として、美空ひばりの「川の流れのように」はタイトルを先に決めて詞を書いた[53]。
- 秋元康という名前が出ることで企画性が強いとか何かを狙っている仕掛け的な捉え方をされて音楽のアーティスティックな部分より売る意図が注目されすぎるデメリットがある場合、作詞をしても裏方に徹してクレジットに名前を出さないことがある[54]。
- 作詞家のデビュー前、相談も兼ねて歌詞をやしきたかじんに見せたところ「全然アカン、話にならん。持って帰れ」と厳しく評定された[55]。たかじんに言わせると「単なる文章であって歌詞とはいえない」という評価であった[55]。しかし、結果的にその歌詞の中からヒットする作品が出ることとなり、たかじんは「えらいことした。あの中からなんぼかもろといたらよかった」と話のタネにし、これに対して秋元も「たかじんさんはこだわりが強いから、納得できる歌詞を書くのは至難の業」と語っている[56]。また、たかじんによるとこの時歌詞を見せただけではなく、秋元は「このまま放送作家だけを続けていても、せいぜい一千万や数千万の収入で天井が見えている。自分はこのままで終わりたくない」という趣旨の相談をしていたという[57]。それから30年あまりの時を経た2010年に、たかじん生涯最後のシングルとなった「その時の空」で歌詞の提供が実現している[58]。
- 秋元本人が歌唱に参加している楽曲が一つある[要出典]。とんねるずと番組スタッフから成る野猿の「First impression」のカップリング曲「TODAY」で、作曲の後藤次利と共に全スタッフとして参加した[要出典]。『とんねるずのみなさんのおかげでした』で歌の披露に参加した[要出典]。
プロデューサー
以下、プロデューサーとしての年譜である。
アイドルユニット
企業など
記録・受賞
交友関係
映画への思い
作品
番組
2024年現在放送中
定期・不定期
過去
テレビドラマ
テレビアニメ
OVA
映画
舞台
- PSST PSST〜シブがき隊ROCK PERFORMANCE〜(プロデュース)
- 古舘伊知郎 TALKING BLUES(総合プロデュース)
- 雪蛍恋乃滝(脚本・演出)[151]
- スタンディングオベーション(企画・原作)[152]
- アドレナリンの夜(企画・原作)[153]
書籍
著書
原案
原作
ゲーム
イベント
その他
- 秋元康作詞塾 AKIMOTO YASUSHI SCHOOL 全4巻(日本音楽教育センター)
作詞
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行
わ行
アーティストなし
-
- NHK衛星第2「おーい!ニッポン」県のうた(各都道府県含めた全49曲)(1998年 - 2003年)
- ZENTある未来(株式会社善都社歌)
- 伏した虎よ(和歌山市立伏虎義務教育学校校歌)
- ラブソングを聴こう 〜#あわあわダンス〜(AWA)
チャート1位シングル
以下、週間チャート1位となったシングル作品。
出演
テレビ
ラジオ
ネット配信
CM
関連文献
脚注
注釈
- ^ 現姓は秋元。
- ^ 秋元自身が取締役を務め、妻の高井が監査役を務める事務所[要出典]。
- ^ 当時、同番組には「せんみつ深夜劇場」という名作古典文学のパロディのコーナーがあった。
- ^ のちに社長となった。
- ^ 歌唱は大杉久美子、1981年1月25日発売のLP『とんでも戦士ムテキング ムテキングとんでもジョッキー』に収録[18]。
- ^ AKB48は専用劇場で毎日公演を行う「会いに行けるアイドル」を標榜した。当時の秋葉原は、社会現象を巻き起こしていた書籍・ドラマ・映画『電車男』において描かれた「美少女アニメ・ゲーム」「メイド喫茶」「リュックサックを背負ったオタク男性」のイメージで認識されていたため、AKB48も「アキバの萌えアイドル」といった地下アイドル的な位置付けであったが、10thシングル「大声ダイヤモンド」以降徐々に一般の人気を上げ、2010年以降はシングルCDにおいて100万枚を超える売り上げを記録するようになった[27]。
- ^ 現在はVernalossom、事業内容は芸能プロダクションの経営など。
- ^ 2022年7月時点でAKB48を含めて国内6グループ(SKE48・NMB48・HKT48・NGT48・STU48)、海外7グループ(JKT48・BNK48・AKB48 Team TP・MNL48・AKB48 Team SH・CGM48・KLP48)。
- ^ 秋元は「AKB48のサプライズでいちばん驚くのは、『秋元康、今日をもってAKBを卒業します!』かなと(笑)。ほんと、僕は卒業すると思いますよ」「僕がAKB48の創業者か初代校長かもしれないけど、たぶん、ある程度の形ができたところで僕が交代して、『秋元はスパルタでやったけど、今度のAKBはこう変えたいんだ』という人が出てこないと、逆に続かないと思いますね。これはAKBの宿命です。AKBを守ろうとすれば、それはAKBの進化を止めることでしょう。そのときAKB48は終わるんです」と述べている[30]。
- ^ 高校生か大学生のころの身体検査では168.6 cmだった[33]。
- ^ 正確にはプロデュースではなく、共同作業者の一人として作詞を担当。
- ^ おニャン子クラブの男性版グループ。
- ^ 彦摩呂らの在籍した男性グループ。
- ^ バナナ輸入組合キャンペーンガールとして結成された沖縄出身3人組のアイドルユニット[59]。
- ^ 女子小学生グループ。
- ^ デビュー時中学生。
- ^ 2016年10月、自身初となるデジタル(2次元)アイドル「22/7」をプロデュースすることが発表された[60]。
- ^ 2017年、エイベックス社長の松浦勝人との共同プロデュースで劇団4ドル50セントをプロデュースした[61]。
- ^ 2018年、ワーナーミュージック・ジャパンとの共同プロデュースで、ガールズバンドであるザ・コインロッカーズをプロデュースした[64]。
- ^ 第10 - 15話(最終話)まで[要出典]。
- ^ 当初は3月27日公開予定だったが、新型コロナウイルスの影響により、公開延期が発表されていた[146]。
- ^ 当初は4月3日公開予定だったが、新型コロナウイルスの影響により、公開延期となった[148]。
- ^ もともとはリチャード・ギャリオットの作品であるが、秋元康が作詞を担当した日髙のり子の歌「瞳のナイフ」「ハートの磁石」が劇中に流れるほか、日髙のり子と戦えたり、「あきもとやすしは いんぜいなりきんだ」というセリフが登場するなど、単なる移植に留まらない改変を施している。音楽については後藤次利が担当している(後藤次利#音楽を手掛けた作品を参照)。
- ^ 女性アイドルグループ・CoCoとは無関係の男性フォークデュオ[要出典]。
- ^ 選抜経験がない18歳以上のメンバー(じゃんけん選抜は除く)で構成されるユニット[要出典]。
- ^ 発表直後に発売中止となり、音源化に至っていない[187]。
- ^ 2022年9月25日までは小島瑠璃子と共に担当[239]。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
秋元康に関連するカテゴリがあります。
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シングル | |
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オリジナルアルバム |
いとぐち - こころ日和 - 私のままで… - Message
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ベストアルバム | |
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映像作品 |
時計じかけの小悪魔 - ファースト・コンサート DO・RA・MA
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関連項目 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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2000年代 | |
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2020年代 | |
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