この項目では、ミュージシャンについて記述しています。俳優の同名の人物については「内田裕也 (俳優) 」をご覧ください。
内田 裕也 (うちだ ゆうや、1939年 〈昭和 14年〉11月17日 - 2019年 〈平成 31年〉3月17日 [ 1] )は、日本 のミュージシャン 、俳優 、プロモーター、タレント・スカウト、音楽プロデューサー、エンターテイナー、政治活動家 。本名:内田 雄也(読み同じ)。身長 174cm 。血液型 はB型 。
兵庫県 西宮市 に生まれ[ 1] 、1959年に日劇ウエスタンカーニバル で本格的にデビュー。内田裕也とザ・フラワーズ 、フラワー・トラベリン・バンド でのロッカーとしての活動のほか、1970年代 後半からは俳優としても活動した。映画の代表作に『コミック雑誌なんかいらない! 』『エロティックな関係』『水のないプール 』『十階のモスキート 』『魚からダイオキシン!! 』などがある。若松孝二 監督や神代辰巳監督の作品にも出演した。口癖は「ロックンロール」(Rock'n Roll)。
妻は俳優の樹木希林 。娘は内田也哉子 。内田也哉子と結婚した本木雅弘 は娘婿に当たる。
経歴・人物
父・鐵蔵(1969年12月28日 81歳没)、母・壽子(1985年1月29日 88歳没)の間に兵庫県 西宮市 に生まれ、大阪府 堺市 で育つ[ 2] 。堺市立大美野小学校〜堺市立三国丘中学校 入学(1952年 )[ 2] 。中学二年の時、清教学園中学校 に転入(一期生)[ 2] 、翌1953年 、大阪市立旭陽中学校 へ転入[ 2] 。1955年 、大阪府立旭高等学校 へ入学[ 2] 。少年時代は発明 に凝るなど、真面目で勉強熱心なタイプで、清教学園中学時には生徒会 副会長を務める[ 2] 。中学ではラグビー 部、高校では野球 部に所属[ 2] 。しかし、エルヴィス・プレスリー に憧れたことで学校に行かなくなり、旭高等学校を退学して1956年 、大阪府立三国丘高等学校 に転校する[ 2] 。1957年 、高校卒業後、日本大学法学部 の夜学を中退。
プロ野球 は阪神タイガース ファンである[ 3] 。
バンドボーイとして音楽生活を開始し、間もなく佐川ミツオ(現・佐川満男 )とともにバンドボーイ兼ボーカルとしてロカビリー・バンドのブルー・キャップスを結成する[ 2] 。
1958年 、自身がバンドマスターのブルージーン・バップスを結成。メンバーには美川鯛二(現・中村泰士 )、北原謙二 などがいた[ 2] 。
1959年 、大手芸能事務所 である渡辺プロダクション に所属し、同年に日劇ウエスタンカーニバル へ初出場する。
1960年 、かまやつひろし などとサンダーバードへ参加するが、ジャズ志向が強いバンドであったため脱退し、山下敬二郎 とレッド・コースターズ、田川譲二とダブル・ビーツなどのバンドを渡り歩く。
1962年 、寺内タケシ とブルージーンズにヴォーカリストとして参加する。
1963年 、恩地日出夫 監督の『素晴らしい悪女』に映画初出演。その後も、1965年 公開の『エレキの若大将 』に勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で出演し、「レディース&ジェントルメン、マイ・ネーム・イズ・ショーン・コネリー ...なんてなことを言っちゃったりして」、「シャークス...シャーク(癪)な名前ですね」などのジョークを交えた軽妙なセリフと演技を披露した。
1960年代 中頃から、ベンチャーズ やビートルズ の影響により、ロック 色を強めた活動に転換していく。1966年 6月のビートルズ日本公演では、尾藤イサオ とのツインボーカル、バックにジャッキー吉川とブルーコメッツ 、ブルージーンズを従えた特別編成のバンドで前座として出演(「ウェルカム・ビートルズ」など数曲を演奏)する。同年には大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で活動していたファニーズ、のちのザ・タイガース をスカウト する。東京へ活動の場を移しジャズ喫茶・新宿ACBなどからステージ・再デビューや内田のバック・バンドを足がかりに活動を広げる計画を持ちかける。しかし諸事情で頓挫 ( とんざ ) し、また、所属する渡辺プロダクションと自身の活動で軋轢 ( あつれき ) が生ずる。内田は広い人脈を築き、裏方的な役割を志向するが、プロダクション配下で行う芸能活動と両立できず、また、会社側に提案したロック音楽プロデュース という役割も当時は理解されず退社の余儀ない状況に追い込まれる。
1967年 、春頃から3か月ほどヨーロッパ に渡る。オーストリア 、ドイツ 、イタリア 、スペイン 、イギリス 、フランス を放浪し、クリーム 、ジミ・ヘンドリックス 、ピンク・フロイド 、ジャニス・ジョプリン などの新しいロックを体験する。その経験を活かし、同年11月に麻生レミ をヴォーカルとして内田裕也とザ・フラワーズ を結成し、ジャニス・ジョプリンやジェファーソン・エアプレイン などのカバーを中心に、ジャズ喫茶でのライヴ活動を展開する(レコード・デビュー前の音源として、一柳慧 の「オペラ横尾忠則 を唄う」〈正式な発売は1970年 3月〉がある)。
1969年 、1月にフラワーズのデビュー・シングル「ラスト・チャンス」、同年7月にはジャケットにメンバーのヌード写真を使用したアルバム「チャレンジ!」が発売されるが、志とは裏腹にセールスには繋がらなかった。
1970年 、前年年末にフラワーズへ参加したジョー山中 (ヴォーカル、元・4.9.1〈フォー・ナイン・エース〉)、石間秀樹 (リードギター、元・ビーバーズ )によりサウンド面が強化され、1970年1月26日に開催されたコンサート「ロックンロール・ジャム'70」(同録音は後にレコード化される)では石間がシタールを使用するなど、意欲的な演奏であったが、同時期にメンバーの麻生レミと小林勝彦(スチール・ギター)が渡米のため脱退する。このため、メンバーを新たにピックアップして同年春にはフラワーズをフラワー・トラベリン・バンド として再編成するが、自身はヴォーカルを降りてプロデュースを担当する。同年10月にデビュー・アルバム「Anywhere」を発表する。日本万国博覧会 (通称・大阪万博)で出会ったバンド、ライトハウスのプロデュースを手掛けていたヴィンセント・フスコーが興味を持ったことやオリジナル曲によるアルバム製作も可能となったため、12月には自身とメンバーがカナダへと渡った。
1971年 、4月に当時発足したばかりのワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン )のアトランティック・レーベルから、フラワー・トラヴェリン・バンドとして2枚目のアルバムとなる『SATORI』を発売。その後、1972年 2月にライトハウスのキーボード奏者ポール・ホファートのプロデュースによる3枚目のアルバム『Made in Japan』、1973年 2月にはカナダ より凱旋帰国後に行われた1972年9月16日の横須賀文化会館でのライブ音源に、スタジオ録音の新曲を加えた2枚組として4枚目のアルバム『Make Up』を発売するが、1973年4月の京都円山公園 でのコンサートを最後にフラワー・トラベリン・バンドは活動を休止する。
1973年2月28日、日本ロックンロール振興会主催・第1回「ロックンロール・カーニバル」(渋谷公会堂 )をプロデュース[ 4] [ 5] [ 6] [ 7] 。出演はファニー・カンパニー 、キャロル 、クリエイション 、内田裕也と1815ロックンロールバンド[ 5] [ 6] 他に何故か國學院大學全學應援團 が出演[ 5] 。お客は当時爆発的な人気を得ていたキャロル目当てだったが[ 5] 、キャロルの後にステージに登場したのが國學院大學全學應援團で、國學院大學 の校歌 を歌い「フレーっ、フレーっ、日ノ本」とエールを送る異様なステージを行い、客席も「シーン」となって多くの客が席を立った[ 5] 。次にステージに立ったのが内田裕也と1815ロックンロールバンドで、内田が三島由紀夫 紛いのパフォーマンス を意図した演出だったが、應援團がステージ終了後に楽屋 に押しかけ「利用された」「ギャラなどいらない」などと大暴れをし、吐き気の出るイベントとなった[ 5] 。
1973年、初のソロアルバム『ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)』を発表。10月には悠木千帆(現・樹木希林 )と結婚。12月には年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を開催する。
1974年 8月にワンステップ・フェスティバル 、1975年 8月に第1回ワールドロック・フェスティバルの主催、ジェフ・ベック やニューヨーク・ドールズ などの来日に尽力するなど、1970年代中盤からは国外アーティスト の招聘 ( しょうへい ) に労力を注いだ。ただし、トラブルメーカーの内田は、レイ・チャールズやルー・リードと喧嘩になったこともある[ 8] 。なお、矢沢永吉を殴ったという噂話は虚偽であり、真相は内田が矢沢を殴ろうと思ったが、矢沢が「一発殴ってください」と言ったために、彼を高く評価して殴ることをやめたという[ 9] 。川添象郎によると、内田裕也が初めて大麻を使用したのは川添の自宅で、裕也はけいれんを起こしていたという[ 10] 。
1970年代後半からは映画俳優としても活躍し、神代辰巳 監督の『嗚呼!おんなたち 猥歌』では、本人のキャラクターを活かした歌手役を演じた。また、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』では脚本 ・主演を兼ね、一定の評価を得た。
1979年 1月、妻の樹木が『ムー一族』の打ち上げパーティーの席上、番組プロデューサーの久世光彦 と番組出演者の不倫を暴露し騒動となる。騒動を聞きつけた内田はパーティー会場へ乗り込もうとするが、入店を断られたため店員と押し問答となった揚句、パトカー が出動する騒ぎを起こした[ 11] 。
1981年 、離婚届 を区役所に提出するも、樹木は離婚 を認めず、訴訟 となり、離婚無効との判決 が下る。
1991年 にはアントニオ猪木 が一度出馬表明しながら撤回したことに触発され東京都知事選挙 に立候補し、対立候補である浜田マキ子 と共闘。政見放送 の冒頭から10秒間の沈黙の後アカペラ で「パワー・トゥ・ザ・ピープル 」、後半にも「コミック雑誌なんかいらない!」を歌い、英語 及びフランス語 で主張を演説した[ 12] [ 注釈 2] 。また選挙戦最終日の4月6日の街頭演説では対立候補である「鈴木俊一 」と書かれたたすきを帯び、ほとんど演説をしないまま演奏に終始し、最後は「明日は投票日、絶対に入れないでください」との言葉で締めた[ 12] 。選挙公報 は「NANKA変だなぁ! キケンするならROCKにヨロシク! Love&Peace Tokyo」とだけ手書きで書かれた物だった。マスコミへのアピール時に政策をフリップ(放送用の手書きボード)に書き込むことを求められた際、「GOMISHUSHUSHA NO TAIGUU O KAIZEN SURU」(ゴミ収集者の待遇を改善する)とローマ字で政策を書いた。以上、数々のエピソードを作り(この模様は映画『魚からダイオキシン!! 』にて一部見ることができる)、メディアからは「売名出馬の泡沫候補 」と批判され、結果的には落選したが、無所属 (政党推薦候補除く)ではトップの票(5万4654票、16人中5位)を獲得した。
シンガーでありながら1985年 に発売した「アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)」以来シングル盤を発表していなかったが、2014年6月11日に29年ぶりとなるシングル盤をエイベックス から「シェキナベイベー 」[ 注釈 3] を指原莉乃 (HKT48 )とのコラボレーション・デュエットという形で発売した[ 13] 。
2017年11月には脱水症状 を起こして緊急入院する[ 1] など、晩年は怪我や病気が続いたことで体力が低下し、自身が主催する恒例の年越しライブ「New Years World Rock Festival 」では2017・18年と車椅子での出演となった[ 1] 。
2018年9月15日に妻の樹木と死別。その約半年後となる2019年3月17日5時33分、肺炎 のため東京都内の病院で死去[ 1] [ 14] 。79歳だった。
同年4月3日、青山葬儀場でお別れの会が開かれ、AI 、堺正章 、指原莉乃 、竹中直人 、ダイアモンド☆ユカイ 、浅田美代子 、鮎川誠 、崔洋一 、尾藤イサオ 、DJ KOO 、PANTA 、田代まさし 、郷ひろみ 、氏神一番 、巻上公一 、秋元康 、南部虎弾 、ギュウゾウ 、ビートたけし 、美勇士 ら950人が参列した[ 15] [ 16] [ 17] [ 18] [ 19] 。戒名は「和響天裕居士」[ 15] [ 16] 。
各種ロックフェスティバル
1974年7月31日から8月10日まで福島県郡山市で開催(その内のロックコンサートは8月4・5日と8~10日に実施)され、リタ・クーリッジ 、オノ・ヨーコ 、沢田研二 、キャロル 、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド 、サディスティック・ミカ・バンド 、四人囃子 など、数多くのアーティストが出演した[ 20] 。ロックコンサートの部分に関しては裕也と素人のブティック・オーナーとが共催したが、実質的な仕切りは裕也だった。翌1975年8月10日に第2回ワン・ステップ・フェスティバルに相当する「空飛ぶカーニバル」が郡山市で開催された[ 21] [ 22] 。
ワールド・ロック・フェスティバル・イーストランド(1975年~76年)
1975年8月3日から9日にかけて札幌・名古屋・京都・東京・仙台で順次開催され、8月7日の東京(後楽園球場)公演には、ニューヨーク・ドールズ 、フェリックス・パッパラルディ 、ジェフ・ベック 、カルメン・マキ &OZ、四人囃子 、クリエイション 、イエローが出演した[ 23] 。各地の公演で出演者が微妙に異なっている[ 24] [ 25] [ 26] [ 27] [ 28] [ 29] [ 30] 。翌1976年に第2回が開催されたが、前年ほどは盛り上がらなかった[ 31] [ 32] [ 33] 。
ニュー・イヤー・ロック・フェスティバル(1974年~)
内田裕也が始めた「打倒!NHK紅白歌合戦 」をテーマとして、1973年12月に年越しロックイベント「フラッシュ・コンサート」を渋谷西武劇場(現:PARCO劇場 )にて開催され、ニュー・イヤー・ロック・フェスティバルとして、裕也が亡くなった後も開催されている[ 34] 。開催会場は度々変わっている。
名称については「浅草ROCK'N'ROLL VOLUNTEER」、「スモーキン・クリーンコンサート」、「New Year Rock Festival」を経て、2007年からは「New Years World Rock Festival 」の名称で実施。開催会場は一時は浅草 の国際劇場 やロックンロック、ロック座 で行われた時期もあるが、2008年(36回)から東京会場は銀座 の博品館劇場 をメイン会場に据えるようになっている。2013年からは日本国内において2都市同時公演を東京と石巻(2015年は福島)で行っており、東北開催ではその地ゆかりのアーティストが参加している。
内田の非常に幅広い交友関係を生かして、多くのアーティストが出演してきた。
【常連(古参)】白竜 、シーナ&ザ・ロケッツ 、THE NEWS 、石橋勲BAND、頭脳警察 (PANTA )、近田春夫 /活躍中、氏神一番/カブキロックス 、陣内孝則 /ザ・ロッカーズ 。他に故人となったジョー山中 、桑名正博 、安岡力也 が生前は、ほぼ毎年参加していた。
【常連(若手)】カイキゲッショク 、新月灯花、高木完 、高樹町ミサイルズ(Vo.中村獅童 )、原田喧太 (原田芳雄の長男)/KATAMALI、美勇士 (桑名正博の長男)/トライポリズムなど。
【常連以外】原田芳雄 、宇崎竜童 、かまやつひろし 、ビートたけし 、などが数回出演。ほかに沢田研二 、萩原健一 、キャロル 、本木雅弘、RCサクセション 、アナーキー 、あぶらだこ 、THE MODS 、ルースターズ 、HOUND DOG 、P-MODEL 、BOØWY 、ラッツ&スター 、ザ・スターリン 、松田優作 、JAGATARA 、つんく♂ 、ヒカシュー 、AI (カイキゲッショク・HIROの妻)、Zeebra など。
家族
娘は内田也哉子 、娘婿は婿養子となった本木雅弘 である。
『SWITCH』誌にて、本木も含む家族全員の記念写真が掲載されたり、孫の七五三を報じるワイドショーでは、内田裕也は不在だったが、一家の祝い事を撮影するジョー山中 の姿が全国にオンエアされたこともある。女優の内田伽羅 は孫[ 35] 。
エピソード
自身の自虐ネタ にもなっている位にヒット曲 といえるものはない。また、日本のロックの首領 ( ドン ) (関西では「関西のロック界の首領 ( ドン ) 」と称される)とされているが、実態はほとんどない[ 36] 。
『YOUNG GUITAR 』1972年7月号での大瀧詠一 との対談で「おれは、フォークとロックの違いというのは、結局Drug をやってるか、やってないかの違いだと思う。日本の場合だと、わりと健康、健康ムードで、LSD のようなものはヘビー過ぎてあれだろうけど、Grass ぐらい別に日本でも売っておかしくない世の中になるんだと思う」と発言、大瀧に「Drugは、音楽する人には必要ないと思う」と反論された。これに内田は「アメリカではDrug常用者の80%がロック・ミュージックが好きだということを考えれば、日本でも。そういうことが絶対にあると思う」などと、日本での麻薬 合法化を期待する発言を行なった[ 37] 。
映画『花園の迷宮 』で共演した島田陽子 と不倫 関係に入る。きっかけは同作品で内田が島田洋子をレイプする役どころであり、当初は島田も不信感を抱いていたところへ内田から「この撮影をしても、あなたの品位はなんら貶められません」と訴える長文の手紙が丁寧な字で届いた。島田は誠意が尽くされたその文面に心を動かされたという。また、撮影が終わると内田が花束を持って待っていてくれたりしたことから交際がスタート[ 38] 。だが後に破局(DV もあった)。内田が1991年東京都知事選挙 に出馬した際、島田は内田に選挙カー を提供するなどの支援をしたが、その際に方々から数億ともいわれる膨大な借金 をし、破局後それに関するトラブルを多数引き起こす。これが現在に至るまで、内田の死後も尾をひくこととなり、女優としてのキャリアに暗い影を落とした[ 39] [ 40] 。
内田が主演を務めた日活ロマンポルノ の映画『嗚呼!おんなたち 猥歌 』(1981年 、監督:神代辰巳 )のヒロインに高畑淳子 が抜擢されたが、撮影直前になって高畑が出演を取りやめた(代役は中村れい子 )[ 41] [ 42] 。内田はこの件で高畑を許しておらず[ 41] [ 42] 、「会ったら蹴飛ばしてやろうと思ってんだけど、なかなか会わねぇんだよね」[ 43] 「怒りは未だに収まらない」[ 41] 「今思い出しても腹が立つ」[ 42] といった言葉を残している。
2011年 4月6日 に東日本大震災 で被災した宮城県 石巻市 で炊き出し を行なった。ピザ ・野菜 スープ 400食、ロックにちなんだバナナ 690本、ミカン 690個を被災者に配布した[ 44] 。
先述の指原莉乃とのデュエット曲発売の関係で、2014年7月13日に福岡市 の海の中道海浜公園 で開催されたHKT48コンサート「可愛い子にはもっと旅をさせよ」に出演、「裕也」コールや「超絶かわいい裕也」など、アイドルのコンサートならではのかけ声を浴びた内田は出番を終えた後「俺の一生の中でも忘れられないコンサートになりました」と振り返った[ 45] 。
『NHK紅白歌合戦』には出場歴がない(先述)一方、2013年9月13日放送のNHK総合テレビ 『あさイチ 』出演時、「いつか紅白に出て見返したい」と語った[ 46] [ 47] 。
代名詞ともいえるフレーズ「シェキナベイベー (シェキナ)」は『ロック・サーフィン・ホット・ロッド』収録の「ツイスト・アンド・シャウト 」にて歌詞中の“Shake it up Baby”を歌ったもので、後にグッチ裕三 のモノマネから広がって内田自身を代表するフレーズとなった。後にシングル「シェキナベイベー 」のタイトルともなった。
萩原健一 は裕也を評して「日本のロックに無軌道、日陰のイメージがついたのは裕也さんのせい。」と雑誌のインタビューで裕也を批判したことがある。
ソロ転向後の桑名正博 をプロデュースしていた寺本幸司 が、作詞:松本隆 ・作曲:筒美京平 コンビで『哀愁トゥナイト』を桑名に歌わせ、ヒットした[ 48] 。するとかつて桑名が所属していたファニー・カンパニー をプロデュースしていた内田が、寺本宅に夜中の1時頃電話してきて、「お前は桑名を歌謡曲 歌手にしやがったな!」と酔って大声で怒鳴り、寺本が「裕也さん、桑名はロックをやってると思いますよ」と返答したら、「何がロックだ!売れれば何でもいいのか、この裏切り者!」と罵り、「裕也さん、ロックに形はあるんですか。ロックはスピリッツがあるかどうかじゃないですか」と切り返したらガチャンと電話を切ったという[ 48] 。その後小杉理宇造 がカネボウ化粧品 のキャンペーンソング の話を持ち込んで来た時には、これをやったらますます歌謡曲寄りになり、内田に殴り込まれるかも知れないという恐怖を感じたが、「歌手を止めさせて(家業の)桑名興行の跡取りにする」(桑名は桑名興行からずっと役員報酬 を受け取っていた)と迫った桑名の父親に「日本一の歌手にします!」と啖呵を切ったこともあり、寺本はその誘惑に負け、これを承諾した[ 48] 。
フォークソング やニューミュージック を自身の男の美学に反するものとして[ 49] 、"しみったれた音楽""軟弱"と決めつけ[ 49] 、生涯に亘り、批判し揶揄の対象にし続けた[ 49] [ 50] [ 51] 。中でも最も敵対視したのが吉田拓郎 [ 49] 。1970年代 の日本の音楽シーンには「ロックvs.フォーク」というべき戦いがあり[ 49] [ 52] 、拓郎を筆頭にフォークというジャンルに位置付けられることの多い幾多のミュージシャンが[ 49] 、綺羅星 の如く名曲の数々を生み出して[ 49] 、日本の一大ムーブメントとなっていたことに比べ[ 49] 、内田が音頭を執るロックというジャンルに位置付けられることの多いミュージシャンは[ 49] 、なかなかメジャーに浮上出来ず[ 49] 。女性ファンは勿論、同性からも好かれる拓郎はガキ大将 のような存在で[ 49] 、連日、原宿 「ペニーレーン」などに同業ミュージシャンを引き連れて飲み歩き[ 49] 、同じ原宿「クロコダイル」[ 53] 等を遊び場としていた内田にとっても目障りな存在[ 49] 。いつも何か理由を探しては喧嘩を売る準備をしていた[ 49] 。拓郎は元々、自身はフォークではないと考えていたため[ 49] 、内田の存在を気にしていなかったが[ 49] 、週刊誌 に浅田美代子 と拓郎の熱愛が報道されると内田はここぞとばかり、「懲らしめてやる」と樹木希林 とともに「ペニーレーン」に乗り込み、拓郎を問い質したが「真剣に付き合っています」と言われため、この時は矛を収めざるを得なかった[ 49] 。しかしこれだけでは気が収まらず、拓郎は浅田と結婚後、顔を殴られ自宅に帰って来て、びっくりする浅田に「裕也とその一派にやられた。アイツはずるい。自分じゃやらずに体の大きな弟分にやらせる」と言った[ 49] 。まるで子供同士の戦いに浅田は呆れて、どちらに加担する気も起きず、それ以上の詮索はしなかったという[ 49] 。
2011年に『俺の知らない内田裕也は俺の知ってる宇宙の夕焼け』と『誰もがエリカを愛してる』と、内田と沢尻エリカ のオマージュ アルバム を発表したあがた森魚 は「ずっと2人のことが気になってた。どこか似てるんだよ。スキャンダラスってことじゃないよ。イノセントで愛らしくて。何ごとが叫んでいるんだけど、社会に受け入れられず、孤立感があって……。沢尻エリカさん、現代の乙女の悲しみ、心もとなさを体現しているように見える」などと評した[ 54] 。
法的問題
1977年 9月に佐世保警察署 に大麻取締法違反 の疑いで逮捕され(事情聴取 後、起訴猶予処分 )[ 55] [ 56] [ 57] [ 58] 、釈放後の『週刊文春 』のインタビューでは「マリワナに関して、くどくど弁解などしたくない。オレは10年前からやってるわけで、いつかはやられるだろうと思ってた。ただね、ひとつだけ言っとくと、あれによって音楽が変わるかというけど、そんなにたいそうなもんじゃないよ。まあ、アルコールは人を攻撃的にするよね。酔うと悪口の言い合いになったりする。その点マリワナは、決して攻撃的にならない。やさしく包んでくれる。そういう意味では、アルコールよりも健康的なわけで、ただそれだけのことだよ」と述べた[ 58] 。
2011年 5月13日、交際中の女性に別れ話をされた際に女性を脅迫し、女性の自宅に侵入した容疑で逮捕された。具体的には4月2日、交際していた50歳の女性会社員に別れ話を持ちかけられ、復縁を迫ろうと「会社に連絡した。内容は、暴力団 と交際している。アブリ[ 注釈 4] をやっている。まだ実名は言ってない!よく考えて一週間以内にTELLを!今ならまだ間に合う!」(原文ママ)などと書いた文章を女性宅のポストに投函した。さらに同月19日、女性宅を自分の家と偽って鍵屋に頼んで鍵を無断で交換した上に宅内に侵入した。帰宅した女性が、玄関の鍵が開かないことを不審に思っているところに内田が部屋の中から出てきたという[ 59] 。女性は110番 通報し、警視庁 原宿署 は両者から事情を聴いた上で5月13日に強要未遂 と住居侵入 の疑いで内田を逮捕した。なお、同年3月にもストーカー 行為を110番通報されており、4月には被害届 も提出されていた。5月31日、起訴猶予処分で原宿署から釈放 され[ 60] 、6月3日に銀座博品館劇場にて謝罪会見を行った[ 61] [ 62] 。
作品
シングル
ひとりぼっちのジョニー/ヤング ワン(1963年)
破れたハートを売り物に/メダルのジョーイ(1963年)
悲しき悪魔/キューティー・パイ(1963年)
ブルージーンと皮ジャンパー/ジプシー・キャラヴァン(1964年)
ラスベガス万才 /ロール・オーバー・ベートーベン (1964年)
スイムで行こう/ラン ラン ラン(1965年)
「スイムで行こう」はエルヴィス・プレスリー 、「ラン ラン ラン」はザ・ジェスチャーズ (英語版 ) の楽曲。
マンジョキロックンロール/ジョキ安ブギ (内田裕也と1815ロックンロールバンド名義)(1974年)
きめてやる今夜 (Gonna Make It Tonight)/レッツ・ツイストNo.1(Let's Twist No.1)(1977年)[ 注釈 5]
いま、ボブ・ディランは何を考えているか(What's Happening, Mr.Dylan?)/アニーよ銃をとれ!(Annie Get Your Guns)(1978年)
無礼講(Sake,Women & My Life)/ONE NIGHT ララバイ(One Night Lullabye)(1979年)
長いお別れ(The Long Goodbye)/さらば愛しき女よ(Farewell My Lovely)(1982年)
雨の殺人者(Killer In The Rain)/ローリング・オン・ザ・ロード(テーマ・オブ「ロックンロールBAKA」)(1982年)
アニー FOR A CHEEK TIME(Annie For A Cheek Time)(1985年)/コミック雑誌なんかいらない(No More Comics)(1985年)
シェキナベイベー (内田裕也feat.指原莉乃 名義)(2014年)
アルバム
ロック・サーフィン・ホット・ロッド(尾藤イサオ +内田裕也)(1964年)
レッツ・ゴー・モンキー(尾藤イサオ+内田裕也)(1965年)
Challenge!(内田裕也とフラワーズ)(1969年)
ロックンロール放送局(Y.U.Y.A 1815KC ROCK'N ROLL BROADCASTING STATION)(1973年)
エキサイティング! ロックンロールパーティ(内田裕也と1815スーパーロックンロールバンド)(1973年)
HOLLYWOOD(内田裕也 & ザ・ヴェンチャーズ)(1975年)
ア・ドッグ・ランズ(1978年)
さらば愛しき女よ(1981年)
NO MORE COMICS(1985年)
出演作品
テレビドラマ
映画
コンサート
CM
MV
その他
著書
脚注
注釈
出典
外部リンク
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