エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley 、1935年 1月8日 - 1977年 8月16日 )は、アメリカ合衆国 の歌手 [ 9] [ 10] 、俳優 [ 11] 。全世界のレコード ・カセット ・CD 等の総売り上げは5億枚以上とされている[ 12] [ 13] 、史上最も売れた音楽家 の一人[ 14] [ 15] 。「キング・オブ・ロックンロール 」と称される[ 16] 。ミドルネーム は公文書 、サイン 共にAronだが、墓石 にはAaronと表記されている[ 17] 。
概要
1950年代にチャック・ベリー やファッツ・ドミノ 、リトル・リチャード 、カール・パーキンス 、ジェリー・リー・ルイス 、ビル・ヘイリー ら[ 18] と共にロック・アンド・ロール (ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロール またはキング と称され、ギネス・ワールド・レコーズ では「史上最も成功したソロ・アーティスト」 として認定されている[ 19] 。1950年代 に、アメリカ やイギリス をはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽 の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ジョン・レノン 、ボブ・ディラン 、ポール・マッカートニー 、ボブ・シーガー 、フレディ・マーキュリー 、テリー・スタッフォード[ 20] など、多くのロック、ポップのミュージシャンたちが憧れたことでも知られる(下段・フォロワーを参照)。
初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽 であるブルース やリズムアンドブルース と白人 の音楽 であるカントリー・アンド・ウェスタン を融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカ では画期的なことであった。
その後全国的な人気を得たが、白人社会だった当時は保守層 から「プレスリーはセックス狂」や「彼は白人を黒人に陥れる」など、凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年 の非行 の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」も問題となり、PTA はテレビ放送 の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWK FM & AMラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ 」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送[ 21] 。さらにフロリダ の演奏では、下半身を動かすなとPTA やYMCA に言われ小指を動かして歌った。この時には警官 がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。
そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思ってないさ。自分を表現する方法なんだ」「俺は人々に悪影響を与えてるとは思わない。もしそう思ったら、俺はトラック運転手に戻るよ。本気でそう思ってるんだ」と答えている。
プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョン やレコード プレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行 も若者たちの間に芽生え、若者文化 が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランド にて42歳の若さで死去した。
プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネス によって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー 」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌 の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位[ 22] 。
経歴
生い立ち
プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州 テュペロ の小さな家(トイレも水道も無い掘立小屋)で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916 - 1979)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912 - 1958)の3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手 で服役するなど極貧生活を強いられるも、両親はプレスリーを大事に育てた。
敬虔なキリスト教 プロテスタント [ 23] (ペンテコステ派 )[ 24] の家庭に育ったプレスリーは、9歳の時に洗礼 を受けた。11歳の誕生日にはライフル を欲しがったが、当然母親に却下され、代わりにアコースティック・ギター を買い与えられた。これを機に自宅の地下洗濯部屋でギターを練習し、音楽に傾倒していった。
1948年、プレスリーが13歳の時に一家はテネシー州 メンフィス へと引っ越し、下宿生活を経て1949年にメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスには非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、プレスリーは黒人の音楽を日常的に聴いて育ち、エリス公会堂で行われていたゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。毎回欠かさず観に来ていたプレスリーは、ある日入場料を支払えないため1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、以降は無料でショーを観ることができた(1970年代の公演ではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。高等学校を卒業したプレスリーは、精密金型製造会社に就職した後、クラウン・エレクトリック社に転職してトラック運転手として働いていた。
サン・レコード時代
サン・レコード時代のエルヴィス(1954年)
1953年 夏、プレスリーはメンフィス のサン・スタジオ で最初の両面デモ・アセテート盤 を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness” と “That’s When Your Heartaches Begin” であった。
サン・レコードの創業者サム・フィリップス [ 25] とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞き、プレスリーの才能を感じた。そして1954年 6月に行方不明となった歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、フィリップスは地元のミュージシャン、スコティ・ムーア [ 26] 、ビル・ブラック と共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat (田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始めたが、その後歌いながら腰を揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis (骨盤 のエルヴィス)」と呼ばれた。
1954年 7月5日 のリハーサル休憩中、プレスリーは“That’s All Right, Mama” [ 27] を歌い始めた。即興演奏ではあったが、プレスリーが適所を得たかもしれないと考えたフィリップスは録音を始め、不在だったドラマーの代わりにベースを演奏させた。B面として“Blue Moon of Kentucky” を収録したシ 同曲は、WHBQラジオが放送した2日後に、メンフィスでの局所的なヒットとなった。ラジオを聴いた人々はプレスリーを黒人歌手だと勘違いしていたという。
プレスリーが公演を始めると、その評判はテネシー州中に広まった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っているように、プレスリーの自信は高くなかった。また、白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”の事を言ったものだが、実際には更に差別的な言い方であった)は連れてこないでくれ」と連絡を受けることが度々あった。プレスリーはその要望を拒否し、後に謝罪と多額の慰謝料を差し出されるも拒絶した。
この逸話から分かるように、公民権 法が施行される前の1950年代 のアメリカ音楽業界にも人種隔離が多く残っていた。当時の黒人ロックンロール歌手によるヒット曲も、パット・ブーン ら白人歌手によるカバー版が白人向けの商品として宣伝され、ラジオなどで放送される傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人 が歌えばリズム・アンド・ブルース に、白人 が歌えばカントリー・アンド・ウェスタン に分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として注目された。
サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングル を発売した。
「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバー である。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。
既に他の歌手のマネージャーとして活動していたトム・パーカー (通称・パーカー大佐 )は、プレスリーの先進性を聞きつけると彼に接触、マネージャーに就任した。1955年 8月18日 にプレスリーの両親はパーカーとの契約書に署名し、サンとの関係を終了した。
RCAとの契約
ハーレー・ダビッドソン に乗るエルヴィス(1956年)
リベラーチェ とエルヴィス(1956年)
エド・サリヴァン とエルヴィス(1956年)
プレスリーは1955年 11月21日 にRCAビクター と契約した。1956年 1月28日 に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショー」にてテレビ に初出演し、黒人のR&Bを歌った。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対して各地のPTAや宗教団体から激しい非難を受けた。一方でプレスリーは若年層を中心に多数のファンを集めるようになった。
1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” が発売され、1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。
録音のため、1950年代はニューヨーク州 ニューヨーク にあるRCAスタジオ を利用したことがあったが、後の主演映画 の挿入歌を除き、録音に最も利用されたのはテネシー州 ナッシュヴィル にあるRCAスタジオB である。しかし、1972年以降は、カリフォルニア州 ロサンゼルス ハリウッド にあるRCAスタジオやメンフィスのスタジオを利用した。1976年になると、RCAの社員がプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込んで録音を行った。
後年のプレスリーが録音自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジが彼の意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調不良など様々な理由があった。
プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式の録音にこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌った。現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後、現在までに発見された様々な未発表テイクの中には、発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、録音に関心がなくなった頃には体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、概ねそれは実現しなかった。
1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス 、ジェリー・リー・ルイス が滞在していたサン・レコード に赴き、彼らとジャム・セッション を行なった。フィリップスにはもうプレスリーの楽曲を発売する権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュ も共演していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真 でしか確認することができない。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット 』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル 』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売上が国内1位であることを報じられた。また『ビルボード 』誌で100位以内に到達した曲数が史上最高となった。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売上の半数がプレスリーのものであった。
エド・サリヴァン・ショー
当時のアメリカの人気音楽番組『エド・サリヴァン・ショー 』には、1956年 9月と10月、1957年 1月と短期間に3回出演した[ 32] 。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組であるため、保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が、プレスリーにジャケットを着用させ、意図的にプレスリーの上半身だけを撮影したと伝えられている。
上記の様なやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァン が「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は鎮静化した。また同番組がアメリカ全土への宣伝に大きく役立ったと言われている。
軍歴
陸軍に勤務していた頃のプレスリー
1958年 1月20日 に、プレスリーはアメリカ陸軍 への徴兵 通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制度 を施行しており、陸軍は2年間の徴兵期間を設けていた。プレスリーは、スター用の特例任務に就かず、ほかと変わらぬ普通の一兵士として西ドイツ にあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年 3月5日 に満期除隊した[ 33] 。パーカー大佐は、「少しでも優遇措置を受ければ、批判は避けられない」とプレスリーを説得した。これにより、彼に否定的だった国民からも好意的に見られるようになった。
徴兵命令が来た際、プレスリーは映画『闇に響く声』を撮影中で、入営を少し延期しなければならなかった。徴兵局は入営の延期を要請したパラマウント に対し、プレスリーの出頭を求めた。翌日、プレスリーは徴兵局へ赴き、延期を申し入れた。
1958年8月11日、機甲科向けの専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、8月12日に外出を許可した。グラディスは8月14日に亡くなり、翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。
プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理中隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学び、軍曹 まで昇進した(空手8段と言われることがあるが、実際には空手ではなく、除隊後にトレーニングした韓国人のカン・リー道場での最終段位であり、空手道とは関係がない。公開されている免状には韓国国旗とアメリカ国旗があしらわれている)。また在籍中、軍の病院において扁桃腺炎 と診断された。その際、医師は声の変調を恐れて、扁桃腺 の切除手術は行わなかったが、プレスリーは回復した。
1960年3月2日、プレスリーは除隊し、帰国の途に就いた。途中スコットランド を経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ、5日に名誉除隊を果たした。
映画出演
『監獄ロック』(1957年)
『G.Iブルース』(1960年)
プレスリーが歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社 数社から出演依頼が届くようになった。プレスリーは大変喜び、劇場に通い演技を独学で勉強した。パーカー大佐はプレスリーを主演にさせるべく、初の映画に20世紀FOX 配給「Rino Brothers 」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender 」に変更されて公開された。
陸軍入隊前までの1958年 までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊すると直ちに『GIブルース』が製作され、同名の主題歌とともにヒットした[ 34] 。
パーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues 」、「Blue Hawaii 」、「Viva LasVegas (ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。
結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年 公開の「Charro! (殺し屋の烙印)」のみであった。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年 のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目を集められなかったこと、脚本の質が低かったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。また一度に10本分の出演契約を結ぶなど、パーカー大佐による強引な活動もプレスリーを疲弊させた。
そういう状況の中、ミュージカル映画 の枠に留まっていたこと、低質な脚本[ 注釈 1] 、また、プレスリーが拘った場面がカットされたことなどにより、プレスリーは映画出演への不満を募らせていた。1960年代後半には歌手活動を再開させた。
歌手活動の本格再開後も、1970年 8月のラスベガス 公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画 「Elvis: That’s the Way It Is (エルヴィス・オン・ステージ )」や1972年 4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour (エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評を博した[ 35] 。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS 」が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。
1974年 8月19日 に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンド が訪れた。バーブラは自らが主演する映画「A Star Is Born (スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。
1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手 家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボール で、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。
ビートルズとの会見
プレスリーとビートルズ は直接的な接点を持たなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルス のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たした。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタイン とパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目でビートルズはロサンゼルスに赴いたが、情報が漏洩したことで自宅周辺には人々が集まった。
この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。通説ではメンバーのジョン・レノン 、ポール・マッカートニー 、ジョージ・ハリスン 、リンゴ・スター は平静を装いながらも、心を躍らせて部屋に入った。そこでプレスリーはテレビを見ながらベース を演奏してくつろいでいた。感激した4人は呆然としてしまった。気まずい沈黙とぎこちない会話の後、プレスリーが「一晩中俺を見てるだけなら俺はもう寝るぜ?せっかく演奏ができると思って待ってたのにさ」と発言したため、即興演奏 が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター 、マッカートニーはピアノ を演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤード やサッカー を楽しんでいたという。
ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。プレスリーの妻だったプリシラによれば「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。
ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウは「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問してた。会話は上手くいかなかったけど、プレスリーが楽器を用意して、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないけど、その内の1つは『I Feel Fine』だった事は覚えてるよ。リンゴは木製の家具を叩いてバックビートを鳴らしてた。それは素晴らしいセッションだったよ」と語っている。
「君たちのレコードは全部持ってるよ」と述べたプレスリーに対しレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言し、部屋は重い雰囲気に満ちた。これはレノンの過激な冗談だったとも言われている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの関係者に「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。
後にプレスリーはマッカートニーやハリスンの曲をカバーしているが、レノンの曲は取り上げていない。(ただしビートルズもプレスリーのカバーを正式には残していない)しかしプレスリーの側近であるジェリーシリングによると、プレスリーはレノンがリードボーカルを担当する初期ビートルズの曲も好んでいた。プレスリーは「ハード・デイズ・ナイト 」を特に気に入っていたという。しかし、薬物を題材にした楽曲は嫌っていたと側近は語っている。プレスリーはビートルズとの会見の後にも公にビートルズを賞賛している。1969年、プレスリーは記者に「彼らはとても面白くて、とても実験的だ。特に彼らが『 I Saw Her Standing There』辺りを歌ってた頃が好きだったな」と語った。公演でも「ビートルズやドアーズ など、新しいバンドが本当に好きだ」と語っている。
結婚と離婚
リサを抱くプリシラとエルヴィス(1968年)
1967年 5月1日 、ネバダ州 ラスベガス のアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリュー と結婚 。プリシラはプレスリーの駐西ドイツアメリカ軍における上官の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラをメンフィスに呼び寄せる代わりに、彼女を自らの父親の家に同居させ、有名なカトリック 系女子高校を卒業させることを彼女の両親に約束した。しかし、程なく2人はグレイスランドで同居し始めた。1968年 2月1日 には娘リサ・マリー・プレスリー が生まれる。
その4年後、結婚前から続くプレスリーの悪い生活習慣(昼夜逆転)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの関係者)との生活、さらに数ヶ月にも及ぶツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは不倫し、結婚生活は破綻してしまう。グレイスランド を出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。プレスリーは彼女と1973年 10月9日 に正式に離婚した。
一方で、離婚後も2人は友人関係にあり、以前よりも密に連絡し合うようになった。ロサンゼルスに滞在する際にプリシラの家を訪れたり、時折プリシラをグレイスランドに呼び寄せるなど、2人は親交を保った。
1960年代、70年代の音楽活動
プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言える状態だった。量産された映画とブリティッシュ・インヴェイジョン による影響は否定できず、プレスリーもそれを自覚していた。一方1965年の「クライング・イン・ザ・チャペル」(オリオールズの曲をカバー)が好成績を収めた。1968年のテレビ出演で歌手活動を本格的に再開したプレスリーは、1969年に「サスピシャス・マインズ」[ 36] 、「イン・ザ・ゲットー」を発売した。1969年 から過密な日程による公演活動を再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック 状態へと追い込むものであった。1969年 以降行った公演は1000回以上であり、平均すると1年につき約125回だった。
1969年 より、ネバダ州 ラスベガス を中心に多数の公演を実施したが、その規模は次第大きくなっていった。瞬間最高視聴率 約72%を記録した1968年 のNBC-TVスペシャル 以降、プレスリーはロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、トニー・ジョー・ホワイト、ニール・ダイアモンド、BJトーマスらのゴスペルやポップ等を取り入れた。バンドもコーラス・グループやピアノ等を新たに加え、オーケストラまで揃えて大きく膨れ上がった。なおこの頃から着用し始めた派手な衣装は、リベラーチェ に影響されたとされる。1972年には「バーニング・ラヴ」が、ビルボード 2位まで上昇する大ヒットとなっている[ 37] 。1970年代にエルヴィスは他に、「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。
プレスリーはラスベガスでのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。活動再開後、生前最後となる1977年 6月26日 のインディアナ州 インディアナポリス 公演まで入場券は完売した。1977年 8月17日 から始まる予定だったツアーも、最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。
ニクソンとの面会
リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)
1960年代半ばからアメリカは非常に混沌とした時代になった。ヒッピーの過激な反戦運動の中で、フリーセックス、栄養失調、病気、LSDなどの薬物中毒の問題などが浮上し、犯罪と暴力が急増した。
プレスリーはドラッグが蔓延るヒッピー文化の暴動と、過激なカウンターカルチャーによるアメリカの未来を危惧していたという。1970年12月21日には、アメリカン航空 でワシントンD.C. に出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービス に手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。
「私はエルヴィス・プレスリーです。あなたを尊敬しています。私は3週間前にパームスプリングスでアグニュー副大統領と話し、我が国に対する懸念を表明しました。麻薬文化、ヒッピー、SDS、ブラックパンサーなど。私は彼等にとって敵では無く彼らの言う「体制」ではなく、私はアメリカを愛する者です。私はこの国を助けるためにできるだけの手伝いをさせていただきたい。私には国を助けること以外に何の関心も動機もありません。ですから私は役職を与えられたくないのです。もし私が連邦捜査官になったら、もっと良いことができます。あらゆる年齢層の人々とのコミュニケーションを通じて、私なりの方法でそれを手助けするつもりです。何よりも私はエンターテイナーです。必要なのは連邦資格だけです」という手紙をニクソンに送った。
その40分後、大統領補佐官から面会を許す旨の電話 があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェスト を伴い、プレスリーはホワイトハウス へ赴きリチャード・ニクソン 大統領との会見に臨んだ。写真はその際撮影されたものである。プレスリーは連邦捜査局 本部の視察を許可された。若者の凄まじい反米精神と、不健全なヒッピーカルチャーを深刻な問題として考えていたプレスリーは、ビートルズ、スマザーズ・ブラザーズ、ジェーン・フォンダなどの過激な発言と活動を危険視していた。プレスリーは彼等を厳しく取り締まるべきと考えていたという。
プレスリーは「自分はドラッグ・カルチャーと、共産主義 の洗脳 について研究してきた」[ 38] とニクソンに語っている。保守派の政治家として、麻薬撲滅に腐心していたニクソンに対し、「ロックが麻薬 使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」と発言したことで、プレスリーは麻薬取締官の徽章を贈呈された。なお、プレスリーは警察官や軍に関する徽章等の収集家であった。
プレスリーは熱心な愛国者であったが、自身の政治的見解は公表することはなかった。ニクソンと薬物問題を議論した際も、自身が芸能人であることを予め断り、必要以上に関与しなかった。1972年の記者会見で「政治的なキャリアを追求することを考えたことはありますか?」という問いにプレスリーは「いいえ、僕にはその願望はありません」と答えている。記者から「兵役についてた頃の話もありましたが、ベトナム戦争の反対運動者についてあなたの意見はどうですか?今日徴兵されることは拒否しますか?」という問いに、プレスリーは「それについての自分の意見は自分の中に留めておくつもりです。僕は芸能人ですからね」と答え、記者は「他の芸能人も貴方と同じように秘密にするべきですか?」と質問するとプレスリーは「いいえ」と答えている。
またプレスリーは人種差別に大変批判的であった。1950年代に一部の白人から寄せられる批判に臆せずに黒人への賛辞を何度も公言しているが、一方で公民権運動には関与しなかった。人種差別やベトナム戦争に反対していたマーティン・ルーサー・キング をプレスリーは熱烈に支持していたが、それを公言することはなかった(キングの訃報を聞いたプレスリーは泣き崩れたという)。この様にプレスリーは、基本的に芸能活動を除き自己主張には積極的ではなかった。
トム・パーカー大佐
パーカー大佐とともに(1969年)
トム・パーカーは悪徳マネージャーとして有名だった。プレスリーは世界的に知られた歌手となったが、終生アメリカとカナダ 以外で公演を行っていない。海外での公演ができなかった理由は、不法移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。
パーカー大佐は世界中から寄せられる多くの公演要請に応えるため、衛星中継 で公演を放送した。日本公演の要請に対し、日本 のゴールデンタイム に衛星生中継で視聴できるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間 深夜1時から公演『アロハ・フロム・ハワイ 』を開催した。放送は、日本時間19時から約2時間続いた。
同公演はプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リー の遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。入場券に定価は設定されず、任意の金額で購入出来た。6000席の会場で約7万5000ドル が集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。
アメリカでは、公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、4月4日に放送された。新たにハワイの映像や挿入歌が追加された生放送とは別の編集版であった。既にこの公演のライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[ 39] 。
「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利 をRCAへ売却した。これは長期的に巨額の損失を生んだが、パーカー大佐自身がギャンブル で大損を出していたため、早急に大金を得るために独断で行ったものだった。プリシラとの離婚に必要な資金は175万ドルであり、プレスリーの印税 で難なく稼ぎ出せる金額だった。後年のプレスリーがやや困窮した理由は、楽曲の権利による印税 が支払われなくなったためである。プレスリーの関係者は、この事件を「悪名高き1973年の取引」と呼んでいる。
この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満を関係者に多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐を解雇にすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[ 40] 。
死と埋葬
プレスリーの墓
1977年 8月16日 、テネシー州メンフィスの自宅グレイスランド で、交際相手のジンジャー・アルデンによって寝室のトイレの床に倒れているプレスリーが発見された。プレスリーはバプテスト記念病院へ搬送されたが、医師により、午後3時30分に死亡が確認された。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈 と公式に発表された[ 注釈 2] 。
晩年、プレスリーはストレスからくる過食症に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年 頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラス から処方された睡眠薬などを誤用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェスト などのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。
ハーディンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないと述べているが、ソニー・ウェストは暴露本 を書いて中傷したとされた。このことについてウェストは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法薬物は一切使用していないが、この処方薬の影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。
イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こす要因が発見されたと報道した[ 41] 。
当初プレスリーはメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件が起きたため、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られた車(キャデラック )、自家用機(コンベア880 / リサ・マリー号)などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーア は「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。
死後
プレスリーの急死後、その肖像権 は非常に危うい位置にあった。杜撰に管理されていた彼の権利は濫用され、プレスリーの印象を損なう商品が続出した。
生前のプレスリーは名義貸しのつもりで数々の契約書に署名していたが、関係者によって莫大な予算が請求されることがあった(ソニー・ウェストが暴露したテープに電話の内容が記録されている)。
死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理すべく訴訟を起こした(当時、故人の肖像権は帰属等が不明であった)。勝訴した遺族により、以後プレスリーの権利は厳密に管理されている。
未発表映像も発掘され、1968年 のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版が発表され好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてたものや、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化したものもある。
エルヴィスの物まねタレント
それ以外にもプレスリーを題材にした映画が製作されたり、プレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌として使用される事も多い。プレスリーの記録である最多ヒット曲数18曲は、2019年にマライア・キャリー の19曲によって更新された。
死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。マクドヴェルのようにプレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[ 39] 。
更に1997年 には新たなる試みとして、プレスリーの公演の映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏するエルヴィス・ザ・コンサート (現:エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート )がメンフィスで行われ、以後国内外で開催されている。娘のリサ・マリー・プレスリーはマイケル・ジャクソン と結婚したが、後に離婚している。
フォロワー
グレイスランド(Graceland)
プレスリーは多くの国の若者にロックンロールという新しい音楽への強い関心を与えた存在だった。ジョン・レノン 、ボブ・ディラン 、ポール・マッカートニー 、ボブ・シーガー 、フレディ・マーキュリー 、ルー・リード [ 42] 、ロバート・プラント 、ブルース・スプリングスティーン 、テリー・スタッフォード、クリフ・リチャード らをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。
ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ボーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ジョン・シュナイダー、ZZトップ、チープ・トリックらはプレスリーの曲をカバー した。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもその影響を受けていた。
バンド・メンバー
スコティ・ムーア — リードギター、リズムギター、バックボーカル(1954–59、1960–69、2016年に死亡)
ビル・ブラック — コントラバス、ベースギター、バックボーカル(1954–58; 1965年に死亡)
DJフォンタナ — ドラム、バックボーカル(1955–59、1960–69、2018年に死亡)
ゴードン・ストーカー — バックボーカル、ピアノ、オルガン、アコーディオン、パーカッション(1956–59、1960–68、1969–71、2013年に死亡)
ニール・マシューズ、Jr. —バックボーカル、ギター、ベースギター、コントラバス(1956–59、1960–68、1969–71; 2000年に死亡)
ホイト・ホーキンス —バックボーカル、ピアノ、オルガン、パーカッション(1956–59、1960–68、1969–71、1980年に死亡)
ヒュー・ジャレット — バックボーカル(1956–58; 2008年に死亡)
レイ・ウォーカー — バックボーカル(1958–59、1960–68、1969–71)
ボブ・ムーア—コントラバス、ベースギター(1958–59、1960–68; 2021年に死亡)
ダドリー・ブルックス — ピアノ、チェレスタ(1957–59、1960–63; 1989年に死亡)
タイニー・ティンブレル — リズムとリードギター、マンドリン(1958–59、1963–68; 1992年に死亡)
ジョーダネアーズ - 男性コーラス・グループ
スウィート・インスピレーションズ - 女性・ソウル・コーラス・グループ(ツアーなどで共演)
家族
衣装と食生活
1970年代の公演で主に着用された、金やダイヤモンド、ルビーなどを施したジャンプスーツの重量は25kg 以上にもなっていた。これは敬愛していたゲイのピアニストであるリベラーチェ の影響を受けたものだった。ただし、プレスリーは宝石類にあまり関心を持たず、舞台上で華やかに見えるものなら擬似品でも構わないと考えていた。
プレスリーは酒 やたばこ を嫌っていた。たまに葉巻 を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から渡された酒も口を付けるだけで殆ど飲んでいない。公演中に飲んでいたのは主に水 かゲータレード である。
プレスリーは毎日のようにコーヒー や炭酸飲料 を飲み、「ピーナッツバター とバナナ とベーコン のサンドイッチ 」を食べていた。このサンドイッチは「エルヴィスサンド 」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは多量のバター を溶かしたフライパン で揚げ焼きにした高カロリー なものであるため、プレスリーが1970年代以降体調を崩し、肥満 化していった一因になったという指摘もある。
影響
日本では湯川れい子 、小林克也 、平尾昌晃 、山下敬二郎 、ミッキー・カーチス 、本郷直樹 、尾藤イサオ 、ささきいさお 、鹿内孝、藤木孝、西郷輝彦 、坂本九 、西田敏行 、大瀧詠一 、小泉純一郎 等がプレスリー・ファンとして知られている。
アメリカのティーンエイジャーの一部は、プレスリーのダックテールと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルを真似し始めた。また、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのスタイルは、ファッションの新たな流行を生み出した。プレスリーや、ジェームズ・ディーンの影響は、西側世界における3ティーンエイジャー 世代の存在を印象付けた。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツ のオペラ 歌手ペーター・ホフマン らがいる。
1977年 にジミー・カーター 大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽 と、黒人のリズム・アンド・ブルース のスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウン は「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。
アメリカ内務省 のゲイル・ノートン 長官は2006年 3月27日 、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州 メンフィス の邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。
交友関係
プレスリーは友人だと認めた人物にのみ親交を持った。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。
モハメド・アリ と交流があった。2人は1973年に初めて会い、プレスリーが死去する1977年まで交友を続けた。アリは歌手ではサム・クックが1番好きで、2番目にプレスリーを好きだったという。プレスリーがアリに贈った金色のマントは、初めて着用して登場した試合で敗れたので以後2度と着用されなかったものの、アリによって厳重に保管された。アリはプレスリーに金色のサイン入りグローブを贈答し、プレスリーもこれを大事に保管した。
メンバー等
70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのジェリー・シェフ はプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。その理由はジェリーが、ブルース 以外の音楽には興味がなかったからである。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャン を弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベース のジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
プレスリー復帰後のショーでリズムギター を務めていたジョン・ウィルキンソン (英語版 ) は、元々は歌手であった。プレスリーは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。
プレスリーの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、プレスリーは葬儀 の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペル を歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、プレスリーは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。
エピソード
身長については諸説ある。1958年の軍隊の記録では6フィート (182cm )とされている。[ 44] これは靴 を履いた状態での記録である。[ 45] 他に、彼が17歳の時の運転免許証の記録によると5フィート11インチ(180cm)とされている。 また、彼のコスチュームデザイナーは5フィート11.5インチ(181cm)であったと語っている。など様々な記録が残っているため、実際は靴を履いた状態で180cmから182cmであったと推測できる。
髪は茶褐色であるが黒く染めていた。
趣味はバッジ 収集。
ホノルルのパール・ハーバー にある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーの収益で建設されたものである。プレスリーは当時の収入について「1日100万ドル使い続けても使い切れない」と述べていた。友人には車や宝石を頻繁に贈った。一方でプレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付も行っていた。殆どが非公式かつ匿名で行われたものだった為、総額や使途は明確には把握されていない。
アフリカ系アメリカ人 に対する差別には反対していたが、全盛期の1950年代から1960年代 にかけてアメリカ合衆国に広がったアフリカ系アメリカ人公民権運動 には関与しなかった。
プレスリーはデヴィッド・ボウイ に、次のアルバムをプロデュースしてほしいと頼んだが、その半年後にプレスリーが亡くなったため実現しなかったという。ボウイからその話を聞いたドワイト・ヨーカム は「ポップ・ミュージックの歴史において、実現しなかった最大の悲劇の一つに違いない」と語った。
俳優のニック・アダムズ との親しい関係などから、エルヴィスがゲイ という噂が一時期囁かれていた[ 46] 。マーロン・ブランド は晩年のエルヴィスについて「道徳心や恐怖心から、他の女性に目を向けれずに自身の性的指向を恐れるようになったと思う」と友人に語ったとされてるが、この情報は懐疑的である[ 47] 。実際プレスリーとマーロン・ブランドは親しい関係ではなく、食堂で1度だけ、わずかな時間対面したと言われている。
ジェームズ・ディーン の大ファンで、俳優としての目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗 」の台詞を全て暗記し、周りを驚かせたこともある。ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声 」は、ディーンのために書かれた作品であった。
「F1 チームの元オーナーのクレイグ・ポロックが旧式のハーレーダビッドソン を約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー” と書かれていた。プレスリーからジェームズ・ディーンに贈られたされたものであった為オークションに出品したところ、約1億2千万円の値がついた」との出所不明の逸話が日本でのみ広まっているが、ジェームズ・ディーンが事故で他界したのが1955年であり、プレスリーのデビューが1956年であることを鑑みても、キャリア絶頂期で世を去った1955年頃のディーンがデビュー前のプレスリーと交流していたとは考えにくい。また、2人が一緒に写る写真なども存在しない。
元自家用機のコンベア880 「リサ・マリー」
現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880 「リサ・マリー号」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されている。世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。この機体は1975年 にデルタ航空 (当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後の1979年 に登録抹消されている。
関係者はファンを隔離するため、プレスリーをホテルの最上階に軟禁し、窓ガラスに銀紙を貼ることがあった。
1977年、プレスリーの死去を受けて「我が国家の貴重な財産がもぎとられた」と、ジミー・カーター 大統領が異例の追悼声明を発表している[ 48] 。
メンフィス
グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。
主な使用楽器
マーティン D-18
デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。ブリッジ・ピンを何度も紛失している。
1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のレッド・ウェストとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。
マーティン D-28
主にテレビ・ショウで使用された。ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。
ギブソン・J-200
映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。ボディが大容量なため、大音量が出せる。1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。
ギブソン・J-200(特注品)
1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、プレスリーがデザインした人工衛星が描かれたピックガードを装着していた。また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。「エルビス・オン・ステージ 」でも確認できる。ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。
ギブソン・ダヴ (特注品)
1971年からJ-200に代わって使用したギター。J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。DOVEという名称の由来のピックガードの鳩のプリントは無い、オール・ブラックのモデル。ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。
ギブソン・ハミングバード
75年から76年にかけて使用していたギター。ピックガードにハチドリのプリントが施されている。ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。
ギブソン・EBS-1250
6弦ベースと6弦ギターのダブルネック のモデル。通常のEBS-1250はドットインレイだが本モデルはレスポールやSGのような台形のインレイを採用した。アコギの様にヘッドにストラップを付けて映画「カリフォルニア万才」で使用。
ハグストロム・ヴァイキングII
テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。スウェーデン製。非常に硬質で特徴的な音色。オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。
グレッチ 6122 カントリー・ジェントルマン
69年から70年まで公演で使用したギター。チェット・アトキンス のシグネイチャー・モデルである。ホロウボディだがFホールはペイント。ドキュメンタリー映画「エルビス・オン・ステージ 」のMGMリハーサル撮影の合い間にも使用している。同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。公演ではイスに座り、このギターを弾きながら歌った。
フェンダー・プレシジョンベース (オリジナル・プレシジョン・ベース)
1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。ベーシストのビル・ブラックはウッドベース 奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。そこでプレスリーが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。1957年にリニューアルされる前の仕様。
記録
プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。
ギネス・ワールド・レコーズ編
世界で最も成功したソロ・アーティスト
全米No.1シングル18曲(歴代3位)/全英18曲(歴代1位)
最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数:140タイトル
全米No.1アルバム9作/全英6作
全米チャート入りレコード149作/全英98作
シングル発売133枚
最も長期に渡ってNo.1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956〜2002年)初のNo.1アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!(1956)」から「ELVIS(2002年)」まで。
最多ヒットシングル記録(151曲)ビルボードtop100へのエントリー回数151回は最多。
1日で最もレコードを売ったアーティスト(エルヴィス・プレスリー/死の翌日、1977年8月17日) 2,000万枚以上の売り上げ。プレスリーの死の衝撃が物語れる。
世界に最もファンクラブが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)世界で(死後にもかかわらず)625のファンクラブが現在活動中である。
世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。アメリカの国定史跡。
統計、評論家などによる投票
ロックの殿堂 (エルヴィス・プレスリー/米1986年)
1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。
UKミュージック・ホール・オブ・フェイム (エルヴィス・プレスリー/英2004年)
2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。
カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年)
1998年、カントリー・ミュージック協会 により、カントリーの殿堂入りを果たした。伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。9月23日、テネシー州 、ナッシュビル のグランド・オール・オープリー ・ハウスで授賞式が行なわれた。
ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年)
2001年、ゴスペル・ミュージック協会 により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとジョニー・キャッシュ だけである。
世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right)
イギリスの雑誌『Q』によって発表。音楽のジャーナリスト達の投票により決定。プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。2位はビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」。
死後、最も売り上げが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
経済誌「Forbes」により毎年(10月下旬)発表。死んだ著名人の1年度の売り上げを順位付けしたものである。2001年から発表が始まり、プレスリーは2005年まで5年連続1位に輝いた。2006年は、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより2位になったが、翌2007年には4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回し、2008年度も5200万ドル(約51億円)で1位になった。毎年大体50億〜60億あたりの売り上げを誇っている。
イギリスで最もヒットしたアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
「The Book Of British Hit Singles & Albums」が発表。プレスリーが「イギリスで1番売れたアーティスト・トップ100リスト」の第1位になった。1952年からのチャート・イン週間数の総計を基準としたものである。毎年発表される。上位にはクイーン やクリフ・リチャード らがいる。
雑誌や一般による投票
ロック史上最高の服装(エルヴィス・プレスリー/白いジャンプ・スーツ)
約1万2千人の音楽ファンによって投票。「最高のロック・アウトフィットtop10」での投票で、プレスリーの「白いジャンプ・スーツ」が、ロック史上最高の服装として歴代第1位に選ばれた。2位は、カイリー・ミノーグ の「ゴールドのホット・パンツ」。
最もサインに価値があるロック・ミュージシャン(エルヴィス・プレスリー)
カリフォルニア州のサイン専門誌「Autograph Magazine」により発表。最もサインに価値のあるロック・ミュージシャン第1位に、プレスリーが選ばれた。2位はビートルズのポール・マッカートニー 。
ディスコグラフィ:アルバム
公式リリース音源の数は800曲を超える。
Follow That Dreamレーベル
プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたのが、主演映画のタイトルから引用したFollow That Dream レーベルである。
このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファンクラブ に優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年 に第一弾 Barbank'68 (1968年 のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも追体験出来るような内容になっている。
オリジナルアルバム
ライブ・アルバム
シングル・ディスコグラフィー
プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム 」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、1969年 11月1日 、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ 」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリー の「マイ・ディンガリング」(1972年 10月21日 から2週連続1位)に阻止された。
1970年代 においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、2002年 にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンヴァセーション 」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉、マライア・キャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている(Billboard 誌に準拠)。
ロックン・ロール (1986年殿堂入り)、カントリー(1998年殿堂入り)、ゴスペル・ミュージック(2001年殿堂入り)の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ楽曲においては3回(通算5回)グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。
全米ナンバー1獲得曲
ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。曲数はビートルズ 、マライア・キャリー に次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライア・キャリー に次ぐ歴代2位である。(en:List of Billboard Hot 100 chart achievements and milestones#Most cumulative weeks at number one )
主なシングル
フール・サッチ・アズ・アイ ((Now and Then There's) A Fool Such as I )1959年 全米2位、全英1位
アイ・ニード・ユア・ラヴ・トゥナイト、全米4位
思い出の指輪
ワン・ナイト
悲しき悪魔、1963年、全米3位
ラブ・ミー
アイ・ガット・スタング
ドント・クライ・ダディ
あの娘が君なら
リトル・シスター
望みがかなった
マリーは恋人
破れたハートを売り物に
アスク・ミー
明日への願い
好きにならずにいられない (Can’t Help Falling in Love )1961年 全米2位、全英1位
心の届かぬラヴ・レター (リターン・トゥ・センダー)(Return to Sender )1962年 全米2位、全英1位
クライング・イン・ザ・チャペル、1965年、全米3位
イン・ザ・ゲットー (In the Ghetto )1969年 全米3位、全英1位
ワンダー・オブ・ユー[ 49] 、1970年
バーニング・ラヴ (Burning Love )1972年 全米2位、全英7位
オールウェイズ・オン・マイ・マインド (Always on My Mind )1972年 全英9位
アメリカの祈り(アメリカン・トリロジー)、1973年、全米26位
ロックンロール魂
その他の楽曲
ブルー・ハワイ
ビバ・ラスベガス
GIブルース
サスピション
フィルモグラフィ
映画は駄作がほとんどである。ただし「オン・ステージ」「オン・ツアー」の2作のライブ映画だけは、内容が充実している。32本の映画出演作(ドキュメンタリーを除く)全てが主役。
プレスリーを扱った作品
プレスリー本人が描かれた作品
プレスリーに関連した作品
映画『フォレスト・ガンプ/一期一会 』 - 無名時代のプレスリーがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。また、劇中でガンプの母親が「子どもの見るものではない」と当時のプレスリーに対する親の考えが表されている。
映画『ミステリー・トレイン 』(ジム・ジャームッシュ ) - プレスリーのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。女の子のミツコはプレスリーに心酔している。プレスリーの亡霊が登場したり、ラジオからプレスリーの曲が流れたりもする。
映画『プレスリーVSミイラ男 』Bubba Ho-Tep (2006年) - 主人公はブルース・キャンベル が演ずるプレスリー。プレスリーは現在も、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送っており、1977年に亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。
ポール・サイモン - 1986年 に発表されたアルバム『グレイスランド 』、及びそのタイトル曲は、エルヴィスの家の影響を受けている。タイトル曲は、後にグラミー賞 を獲得した。
TVシリーズ『フルハウス 』 - 大のプレスリー・ファンであるジェシー・カツォポリス(Jesse Katsopolis )が主役。作品の随所にプレスリー関連のネタが登場する。1度だがラスベガスへ行ったときには「ラスベガス万才」と同じ空撮の映像にジョン・ステイモス が歌った「Viva Las Vegas」が流れる。また、まだ母体の中に居る段階の子供に生まれるまでずっとプレスリーの曲を聞かせようとしたり、子供部屋の装飾を全てプレスリーグッズにしようとするエピソードもあった(結果的には未遂に終わるが)。また初期はプレスリーを模した髪形をしていた。
TVシリーズ『俺がハマーだ! 』- プレスリー似た者コンテストの優勝者が次々と撲殺される事件が起き、おとり捜査 のために主人公ハマー刑事がコンテストに出場するエピソードがある。
ジャック・ウォマック の小説Ambient やElvissey (ともに未訳)で描かれる近未来世界では、プレスリーの復活を信じるE教会(the Chirch of E )という宗教が登場する。Elvissey では、E教会の信者たちが、プレスリーのそっくりさんファッションに身を固めて、Elcon という集会を開催するシーンがある。
映画『トゥルー・ロマンス 』True Romance (1993年) - プレスリーのファンである主人公を励ます幻影として登場する。ヴァル・キルマー が演じた。
映画『メン・イン・ブラック 』 - トミー・リー・ジョーンズ が車内でプレスリーの歌をかけるシーンでウィル・スミス が「エルヴィスは死んだんだぞ」と言うと「死んでないよ、故郷の星に帰ったのさ」と返すシーンがある。
映画『トラブル IN ベガス 』Elvis Has Left the Building (2004年) - エルヴィス・プレスリーのコスプレをした人物が次々に登場し、次々に死んでいく。
映画『エルヴィス、我が心の歌 』The Last Elvis (2012年) - プレスリーのトリビュートアーティストの物語。
映画『スティーラーズ 』Pawn Shop Chronicles (2013年) - プレスリーのトリビュートアーティストが主要人物として登場する。
映画『ボス・ベイビー 』The Boss Baby (2017年) - プレスリーに扮した何十人もの男が登場する[ 50] 。
能 『Blue Moon Over Memphis』 - 米国人劇作家Deborah Brevoort による2001年の英語能作品[ 51] 。エルビスの邸宅グレイスランドを訪れた熱烈な女性ファンの前にエルビスの霊が現れるという作品で、日本語を母語としない能の研究者を中心に結成されている「シアター能楽」により2000年代より米国で演じられている[ 52] [ 53] 。日本の能面師が制作したエルビスの面を使用[ 52] 。
映画『リロ・アンド・スティッチ 』Lilo & Stitch (2003年) - 主人公リロがプレスリーのファンであり、劇中音楽にプレスリーの楽曲が使用され、スティッチが鬘とファッションでプレスリーに扮してギターを披露する場面がある。
日本語文献
※近年刊行の一部。
ピーター・グラルニック 『エルヴィス伝 復活後の軌跡 1958-1977』三井徹訳 みすず書房 、2007年 大著
アルフレッド・ワートハイマー撮影・文 『エルヴィス・プレスリー 21歳の肖像』夏目大訳 青志社 2007年 大著の写真集
『SCREEN特別編集 エルヴィス・プレスリーの伝説』 近代映画社 2005年
『文藝別冊 エルヴィス・プレスリー』 <KAWADE夢ムック>河出書房新社 2003年
ボビー・アン・メイソン 『エルヴィス・プレスリー』外岡尚美訳<ペンギン評伝双書>岩波書店 2005年
前田絢子『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』角川選書 2007年
脚注
注釈
^ プレスリーは映画の台本を叩きつけ、「ふざけるな。 ボート にバイク に車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
^ 当時ドーナツの食べ過ぎが原因だったというデマがあった。
出典
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^ 能を英語で上演――”Blue Moon Over Memphis” UCLAにて共催 早稲田大学、2019/03/22
関連項目
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