カザフスタン共和国
Қазақстан Республикасы (カザフ語) Республика Казахстан (ロシア語)
国の標語:なし
国歌 :Менің Қазақстаным (カザフ語) 我がカザフスタン
カザフスタン共和国 (カザフスタンきょうわこく、Kazakhstan、カザフ語 : Қазақстан Республикасы, Qazaqstan Respublikasy , قازاقستان رەسپۋبلىيكاسى [4] )、通称カザフスタン は、中央アジア に位置する共和制 国家 。西と北でロシア 、東で中華人民共和国 (中国)、南でキルギス 、ウズベキスタン 、トルクメニスタン と国境を接する国家で、南西は世界最大の湖カスピ海 に面している。首都はアスタナ (2019年から2022年までは初代大統領のヌルスルタン・ナザルバエフ のファーストネームにちなんだ「ヌルスルタン」へ名称変更)で、1997年に国内最大の都市アルマトイ から遷都した[5] 。
概要
カザフスタンは中央アジアで経済的、政治的に最も支配的な国家であり、石油 ・天然ガス を中心とする資源に恵まれ[5] 、中央アジアの国内総生産 (GDP)の60%を生み出している。国土面積は272万4900平方キロメートルと世界第9位[5] で、世界で最も広い内陸国であり、イスラム教徒 が多数派を占める国としても世界最も広大かつ最北端である。人口は約1900万人[5] で、人口密度 は世界でも低い国の一つであり、1平方キロメートルあたり6人以下(1平方マイル あたり15人)である。
現在のカザフスタン領土には、歴史的に遊牧民 や帝国 が往来・興亡を重ねた。古代には遊牧民のスキタイ人 が住み、ペルシア のアケメネス朝 が現在の国土の南部にまで進出してきた。テュルク系遊牧民 は、突厥 帝国など多くのテュルク系国家を祖先に持ち、その歴史を通じてこの国に居住してきた。13世紀にはチンギス・ハーン 率いるモンゴル帝国 に征服された。16世紀には、カザフ族 は3つのジュズ に分かれて独立した集団となった。18世紀にはロシア帝国 がカザフ草原 に進出し、19世紀半ばには名目上カザフスタン全土をロシア帝国の一部として支配するようになった。1917年のロシア革命 とその後の内戦を経て、カザフスタンの領土は何度か再編された。1936年、ソビエト連邦 の一部であるカザフ・ソビエト社会主義共和国 になった。なお、同国は1991年のソビエト連邦解体 時に、ソビエト連邦の中で最後に独立を宣言した共和国である。
こうした歴史的経緯や民族構成、地政学 的から位置、北隣のロシアや東隣の中国、西側諸国 、テュルク系を祖とするトルコ など多方面との良好な関係を重視しており、以下のような国際機関 に加盟している。
国名
正式名称はカザフ語 でҚазақстан Республикасы (Qazaqstan Respublikasy; カザクスタン・リスプブリカスィ)、ロシア語 で、Республика Казахстан (Respublika Kazakhstan; レスプーブリカ・カザフスタン)。
公式の英語 表記は、Republic of Kazakhstan [6] 、通称Kazakhstan 。
日本語 表記はカザフスタン共和国 [6] で、通称カザフスタン 。漢字表記は哈薩克斯坦[7] [8] 。
国名は、カザフ人 の自称民族名 Қазақ (Qazaq; カザク)と、ペルシア語 で「~の国、~の多いところ」を意味する -stān/-estān; スタン の合成語である。「スタン」に関しては、モンゴル語 の「部族」を意味する「ястан (ヤスタン)」に由来するという意見もある。カザクは、テュルク語 で「独立不羈の者」「放浪の民」を意味する。
2014年 2月6日 、カザフスタンの大統領 ヌルスルタン・ナザルバエフ (当時)は、周辺の同じく「スタン」を国名に持つ旧ソ連諸国との差別化により、国際的な認知度をアップさせるため、国名を変更する考えとともに新たな国名の候補として「カザフエリ(カザフ語でカザフ人の土地を意味する)」を挙げたと報じられたが[9] 、6月にはエルラン・イドリソフ (英語版 ) 外相がそのような動きを否定している[10] 。
歴史
イッセドネス人、アリマスポイ人
古代ギリシア のヘロドトス やアリステアス (英語版 ) らによる歴史書では、伝承ではあるものの、カザフ草原にイッセドネス人 やアリマスポイ (英語版 ) 人(一眼族)といった諸族がいたことを記録している。イッセドネス人は故人の肉を食す 民族 であり、アリマスポイ人は一つ目の民族であるという。アリマスポイ人は絶えず近隣の民族を攻撃しており、そのため西隣のイッセドネス人は西へ移動し、その西にいたスキュタイ 人は西へ移動し、さらに西(南ロシア草原 )にいたキンメリア人 を追い出すこととなった[11] 。
スキュタイ、マッサゲタイ
古代ギリシアのヘロドトス による『歴史 』によれば、元々はアジアの遊牧民であったスキュタイがマッサゲタイ に追われてアラクセス河 を渡河し、当時のキンメリア地方 (現在の南ウクライナ )に移ったという。アケメネス朝 のキュロス2世 がヤクサルテス川 を越えて中央アジア征服に及んだ際、マッサゲタイの女王トミュリス に殺され、征服は失敗に終わったとされているが、この記述はキュロス2世の死後から大分経ってから書かれた記録であること、トリュミスの名がここでしか書かれてないことから反ペルシアであるヘロドトスの創作の可能性の方が高い(古代ギリシアはペルシア戦争 でアケメネス朝の侵略を受けた)。
サカイ、ソグディアノイ
古代ローマ の地理書にはサカイ 、ソグディアノイ といった民族が記されている。サカイはスキュタイと同じ遊牧民族であり、ペルシアの史料ではサカと呼ばれ、アケメネス朝の属民であった。アレクサンドロス大王 の侵入時もその存在が確認でき、ヤクサルテス川(シル・ダリヤ )を挟んで対峙した。ソグディアノイはのちにシルクロード 交易の担い手となるソグド人として有名であるが、このころはアケメネス朝やアレクサンドロスの属民として歴史に登場する[12] 。
康居、奄蔡
紀元前2世紀 から4世紀 にわたり、中国の歴史書には康居 や奄蔡 といった遊牧民族が記されている。康居ははじめ、東の匈奴 、南の大月氏 といった強国に臣従していたが、1世紀 になると、栗弋国、厳国、阿蘭聊国といった諸国を支配下に入れるほど強盛する。奄蔡は西方史料のいうアオルソイ に比定されたり、のちに阿蘭と改名したことからアラン に比定されたりするが、記録が少なく、康居と同族であること以外わかっていない[13] 。
悦般、エフタル
悦般 はモンゴル高原 から追われた北匈奴 が行き着いた地で建てた国であり、その場所は康居の北にあったとされる。言語・習俗は高車 と同じであり、周辺民族の中でも清潔であったという[14] 。
この悦般がのちのエフタル であるとする説もある[15] 。エフタルはその出自が不明で、アルタイ山脈 から南下してきたとも、バダフシャン にいたとも言われている[16] 。エフタルはインド ではフーナ(hūna)と呼ばれ、ペルシアではヘプタル(heptal)、中国では嚈噠・挹怛とも呼ばれ、中央アジアにあってその周辺国に侵入し、戦争を行った。
西突厥
6世紀 、エフタルの国家は突厥とサーサーン朝 の挟撃に遭って滅ぼされ、中央アジア全土は突厥の領土となった。突厥は582年 に東西に分離し、カザフ草原は西突厥 が支配することとなる。西突厥は内紛が相次ぎ、一時は唐 の支配下に入ってともにアラブ ・イスラーム勢力と戦うも、741年 には王族である阿史那氏 が滅び、その帝国はそれぞれの部族に分散してしまう。9世紀 から12世紀 にかけては西突厥の構成民族であった突騎施 (テュルギシュ)、カルルク 、オグズ 、キマク 、キプチャク 、カンクリ 、ハザール 、ペチェネグ などが割拠した。
カラハン朝、カラ・キタイ
カラハン朝 はテュルク系 初のイスラーム王朝 であり、その母体はウイグル ともカルルク とも言われている[17] 。東西の文化が融合したことで文化面では大いに発展し、「カラハン朝トルコ語 (トルコ語版 ) 」と呼ばれるアラビア文字 を使って記されるテュルク語 の文語が生まれた。ユースフ・ハーッス・ハージブ の韻文 作品『クタドゥグ・ビリグ (幸福になるための智恵)』や、マフムード・アル・カーシュガリー のテュルク諸語の語彙を集めた辞典『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク (トルコ語版 ) (テュルク諸語集成)』が登場し、テュルク・イスラム文化の先駆けとなった[18] 。カラハン朝は1041年 に東西に分裂し、12世紀 初頭には耶律大石 率いる契丹 軍によって征服され、カラ・キタイ(西遼 )の属国となった。
モンゴル帝国
カザフ草原の西の大部分はテュルク系のキプチャク の領土であり、東の大部分はカラ・キタイの領土であった。カラ・キタイは1211年 にナイマン のクチュルク によって乗っ取られるが、まもなく東の遊牧民族を統一したチンギス・カン のモンゴル帝国 軍によって征服され、1237年 にはキプチャクもバトゥ 率いるモンゴル軍によって征服される。
モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイ が没すると、1242年 にバトゥはヴォルガ川 下流のサライ に都を置いて、 キプチャク草原 を中心とする自立政権ジョチ・ウルス を築いた。ジョチ・ウルスは内部では「右翼=バトゥ・ウルス=白帳ハン国 」と「左翼=オルダ・ウルス=青帳ハン国 」に分かれており、オルダ・ウルスはイルティシュ川 上流域〜シル川 下流域という後のカザフスタンに近い領域を支配していた。
カザフ・ハン国
アブライ・ハーン の切手 (カザフスタン 、2001年、Michel 317)
ペトロパブル 近郊のロシア人入植者
15世紀 末、ジョチ・ウルスの東部(現在のカザフ草原)において、ウズベク と呼ばれる遊牧集団からアブルハイル・ハン が頭角を現し、ウズベク・ハン国 を建国させる。一方でケレイ とジャニベク の2人によって率いられた青帳ハン国の残党(=後のカザフ )がウズベク・ハン国より分離する。アブルハイル・ハンの死後、カザフの集団は分裂状態に陥ったウズベクの集団を吸収し、カザフ・ハン国 を形成、アブルハイル・ハンの孫にあたるムハンマド・シャイバーニー・ハン によって率いられたシャイバーニー朝 と対立する。カザフ・ハン国はカーシム・ハン (在位:1511年 - 1518年 )の時代に強盛となり、対外戦争を行い、周辺国から恐れられた。
18世紀 になると、カザフ・ハン国は政治的統一を失い、東部の大ジュズ (Ұлы жүз )、中部の中ジュズ (Орта жүз )、西部の小ジュズ (Кіші жүз )という3つの部族連合体に分かれて草原に居住するようになる。
18世紀 初頭、ジュンガル が襲来したため(アクタバン・シュブルンドゥ )、1730年代から1740年代に小ジュズと中ジュズはロシア帝国に服属を表明し、その傘下に入った。1820年代 になると、カザフのハンは権威を喪失しており、ロシア帝国による直接統治を受け入れていた。同じころ、残る大ジュズもロシア帝国の統治を受け入れる。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州 、セミパラチンスク州 、セミレチエ州 、ウラリスク州 、トルガイ州 、シルダリア州 の6州に区分され、その東半分は1891年 にステップ総督府 の管轄下に置かれた(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府 へ移管)。
カザフ・ソビエト社会主義共和国
ロシア革命 では、北部は白軍 の支配下に入りアラシュ自治国 (1917年 - 1920年 )、1920年に南部は赤軍 の支配下に入りソビエト連邦 の構成下においてキルギス自治ソビエト社会主義共和国 (英語版 ) が誕生(首都はオレンブルク )、1925年にはカザフ自治ソビエト社会主義共和国 (1925年 - 1936年 )が樹立された(1929年に首都がアルマトイ になる)。
1936年 12月5日 、ソ連崩壊まで続くソビエト連邦構成国 カザフ・ソビエト社会主義共和国 に昇格した。第二次世界大戦 後、領内にはセミパラチンスク核実験場 と、ソビエト連邦の宇宙開発 の中心となるバイコヌール宇宙基地 が作られた。
カザフスタン共和国
ソビエト連邦崩壊直前の1991年 12月16日 、「カザフスタン共和国」として独立 し、1991年12月21日 に独立国家共同体 (CIS)に加盟した。
2006年 2月、野党 「アク・ジョル 」の共同議長アルティンベク・サルセンバエフ は運転手とともに、アルマトイ で射殺体で発見された。カザフスタン国家保安委員会 の5人のメンバーが、サルセンバエフの殺害に関わっているとして逮捕された。バウルツァン・ムハメドツァノフ 内務大臣 によると、犯人は1人あたり2万5,000ドルを受け取っているという。警察官1人も殺人に関わったとして逮捕されている。カザフスタンでは、反対派のアルマトイ前市長のザマンベック・ヌルカディロフ も射殺体で発見されている。
2007年 8月18日 の議会選挙では、与党 「ヌル・オタン 」が比例代表制 による全98議席を獲得、その他9議席を大統領の諮問機関であるカザフスタン民族会議 (英語版 、カザフ語版 、ロシア語版 ) が指名するため、与党が107議席を全て独占することとなった。5月には憲法 改正が行われており、改正によって初代大統領ヌルスルタン・ナザルバエフ に限り、3選禁止の規定が除外された。
2019年 3月、ナザルバエフは5期目(2015年〜2020年)途中で辞任を表明し、元老院(上院)議長のカシムジョマルト・トカエフ が第2代大統領に就任した。
2022年 1月、燃料価格が2倍に値上がりしたことに抗議する住民らの反政府デモが国内各地の都市で発生して多数の死傷者を出し、デモの沈静化策として国家安全保障会議 議長として強大な権力を握っていたナザルバエフが解任され、30年あまりにもわたって続いたナザルバエフ体制は完全に終焉を迎えた[19] 。
政治
行政
大統領
カザフスタンの国家元首 は直接選挙 により選出される大統領 であり、任期は5年となっている。
大統領は政府 を組閣し、閣僚 、最高裁判所 長、検事 総長、国立銀行 総裁 を任免、国民投票 を実施し、非常事態 を導入する権限を有する。1992年 5月から大統領がカザフスタン共和国軍 最高司令官を務め、同年7月からは国家保安委員会 が直属している。
現在の大統領はカシムジョマルト・トカエフ 。
ソビエト連邦構成共和国 だったカザフ・ソビエト社会主義共和国 共産党第一書記・同共和国大統領(それぞれ1989年 、1991年 に就任)からそのまま1991年12月にカザフスタン共和国大統領に就任したヌルスルタン・ナザルバエフ が、独立以来2019年まで一貫して大統領の地位にあり、強力な指導力を発揮した。1995年4月に大統領の任期を延長し、2000年12月までとしたが、同年8月には新憲法草案が国民投票にかけられ、圧倒的賛成で可決された[20] 。この1995年憲法はカザフスタンを大統領制国家であると規定し、大統領に大幅な権限を与えた。そして、最高評議会を廃止して二院制議会を新設し、1995年12月に議会選挙を実施したが、反対派はほとんどボイコットした。2019年3月19日、ナザルバエフは電撃辞任を表明し、翌20日に正式に退いた。
2022年、憲法が改正され初代大統領に関する条文が削除された[21] 。
首相
現在の首相はアリハン・スマイロフ 。
同国における首相 は、議会の同意により大統領が任命する。閣僚 は、首相の提案により大統領が任命する。また政府は、大統領の任期満了とともに総辞職し、新大統領により組閣 される。
閣僚の70パーセントは、人口の約65パーセントを占めるカザフ人 である。
立法
立法府 は、下院 (マジリス )と上院 (セナト )の二院制 である。下院は定数107議席。うち98議席が比例代表制 による直接選挙で選出され、9議席は諸民族の代表機関であるカザフスタン民族会議 (英語版 、カザフ語版 、ロシア語版 ) により選出される。
カザフスタン民族会議とは大統領の諮問機関であり、国内にある民族団体おおよそ全部を包括している[22] 。議席を得るには、7パーセントを基準とする阻止条項 をクリアする必要がある。
上院は定数47議席。各州、旧首都、首都の地方議会から2名ずつ選出され、15名は大統領が個人的に任命する。1995年 3月には、民族間関係を調整するカザフスタン民族会議が設置されている。また、上院の任期が6年に、下院の任期が5年に延長された。
1993年12月、一院制立法府の最高会議 (英語版 ) は解散させられ、1995年3月、憲法裁判所は1994年3月実施の選挙が違憲であったとの決定を下した。その後は議会不在のままである。
建国以来、アマナト (未来への信託)が単独過半数を占めており、事実上の一党体制である。
主要政党
司法
国際関係
全般
隣国であり、旧ソ連の中心であったロシア連邦 とともにユーラシア連合 を提唱し、ロシアと経済統合を進めてユーラシア経済連合 を設立するなど政治・経済両面で密接な関係を持つ。一方、ロシア語 で使われるキリル文字 の廃止(後述 )を進めるなど、過度のロシア依存は避けている。2022年カザフスタン反政府デモ 鎮圧ではロシア連邦軍 を主体とする集団安全保障条約機構(CSTO)の派兵を得たにもかかわらず、2022年ロシアのウクライナ侵攻 ではロシア側での参戦を拒否し、同年8月にはアメリカ軍 と2004年から実施している共同軍事演習 「地域協力2022」に開催地のタジキスタン のほかキルギス 、ウズベキスタン 、パキスタン 、モンゴル国 とともに参加した[23] 。
ロシア、中華人民共和国 、他の中央アジア諸国とともに上海協力機構 (SCO)の創設メンバーであり、またトルコ共和国 などを含むテュルク評議会 のメンバーでもある。欧米 諸国や、日本を含むアジア諸国とも良好な関係を築いている。アジア相互協力信頼醸成措置会議 と中央アジア諸国連合 を提唱、さらに2010年 の欧州安全保障協力機構 の議長国に選出されているなど、積極的に国際機構への参加を図っている。
トルコを含むイスラム諸国とロシアのいずれとも緊密な関係にあることから、首都アスタナ(旧ヌルスルタン) はシリア内戦 の停戦・和平に関する協議の場となっている[24] 。
核不拡散への協力
ソ連崩壊後、カザフスタンは核兵器 を放棄した(2006年に中央アジア非核兵器地帯条約 を締結)。セミパラチンスク核実験場 も閉鎖したが、ソ連時代の地上核実験 による放射能汚染 や健康被害の問題は依然として残っている。
一方でカザフスタンは核燃料 であるウラン の大産出国でもあるため、核兵器開発につながる技術や核テロリズム に使われかねない核物質 の拡散防止に積極的である。2017年8月、国際原子力機関 (IAEA)は、新興国に原子力発電所 用の低濃縮ウランを供給し、ウラン濃縮 技術の拡散を防ぐ「核燃料バンク」をカザフスタン東部に開設した[25] 。
対日関係
第二次世界大戦後、シベリア抑留 の対象となった日本人捕虜の一部が、各都市に設けられた収容地区(ラーゲリ )へ移送・収容された。収容地区(本部所在地)は、第29収容地区(バフタコール)、第37収容地区(バルハシ)、第39収容地区(ジェスカズガン )、第40収容地区(アルタ・アタ )、第45収容地区(ウスチ・カメノゴルスク )、第99収容地区(カラガンダ )、第330収容地区(アクモリンスク )、第347収容地区(レニナゴルスク)、第348収容地区(テゥルケスタン)、第1054収容地区(コクチェタフ )[26] 。
日本国政府は1991年12月28日 付で国家承認した[27] [5] 。日本とは互いに大使館 を置き(在カザフスタン日本国大使館 および駐日カザフスタン大使館 )、2006年 8月には小泉純一郎 首相が、2015年 10月には安倍晋三 首相が訪問した。
1998年 、カザフスタン政府によって実施された新首都アスタナの設計についての国際指名コンペにおいて、日本の建築家 黒川紀章 案が1位に選ばれ、その都市計画案に基づき開発が続けられている[28] 。
駐日カザフスタン大使館
国家安全保障
カザフスタン共和国軍 の兵士
カザフスタンは、旧ソ連軍 中央アジア軍管区 の部隊を継承した。
現在のカザフスタン共和国軍 は、陸軍, 空軍 ,海軍 の3軍種からなる。大統領は3軍の最高司令官であり、空中機動部隊 および空挺部隊 、ならびに大統領親衛隊 を直轄する。軍政単位としては、南部・西部・東部および中央の4個軍管区が設置されている。一般任務軍は、2個軍、2個師団 、5個旅団 からなり、4万6,800人が所属する。防空軍は1万9,000人。
また、これらとは別で国境警備軍 (英語版 、カザフ語版 ) と 国家警備軍 (英語版 ) が設けられている。
徴兵制度 が存在し、兵役の義務は18歳からの2年間とされている。
情報機関
国家保安委員会 が国内髄一の情報機関 となっている。
地理
カザフスタンの地図
首都アスタナ(旧ヌルスルタン)
カザフスタンはユーラシア大陸 の中心に位置しており、世界第9位の 2,725,000 km2 の広大な国土面積[29] (アジア では中国 、インド に次いで第3位)を有し、同時に世界最大の内陸国でもある。ただし、国土の大部分はサルイイシコトラウ砂漠 やキジルクム砂漠 などの砂漠 や乾燥したステップ 地帯で占められている。地形は大きく3つに分類されており、中国国境やアルタイ山脈 を含むカザフ高原、中部のカザフステップ 、西部のカスピ海 沿岸低地である。西部低地はウラル山脈 より西側でヨーロッパ に属する。国の南部は東西にわたり砂漠が発達し、アラル海 の縮小に表されるように過剰な灌漑 が重要な課題である。アラル海東方にはロシアが租借するバイコヌール宇宙基地 がある。カスピ海にはマンギスタウ半島 が突き出しており(マンギスタウ州 )、アクタウ は唯一の不凍港 を擁する。
湖
マルカコル湖
ザイサン湖
バルハシ湖
テンギス湖
アラル海
カスピ海
川
シルダリヤ川
イルティシ川
ウラル川
エンバ川
地方行政区画
カザフスタンの行政区画
中央アジア最高レベルの世界都市 であるアルマトイ
カザフスタンは以下の17州(Oblys)に区分されている。
州
北カザフスタン州
アクモラ州
パブロダール州
コスタナイ州
カラガンダ州
東カザフスタン州
アルマトイ州
ジャンブール州
テュルキスタン州 (旧称南カザフスタン州)
クズロルダ州
アクトベ州 (アクチュビンスク)
西カザフスタン州
アティラウ州
マンギスタウ州
アバイ州
ジェティス州
ウルタウ州
政令指定地区
アスタナ - 首都
アルマトイ - 最大の都市
シムケント
バイコヌール (ロシア租借地)
主要都市
ロシア租借地
政令指定地区バイコヌール は、ロシア連邦がカザフスタンより年間1億1,500万USドル の契約で町全体を租借 し、事実上の行政区として扱っている。これは、同市にある、ソ連時代の1955年 に建設されたバイコヌール宇宙基地 がロシアにとって今なお重要な宇宙開発施設であることに起因する。このためバイコヌールの行政権はロシアが握っており、たとえば市長は、ロシア連邦大統領 が推薦し、カザフスタン大統領が承認することで任命される。また、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンのテンゲ ではなくロシア・ルーブル が流通している。この租借契約は1994年 に合意され、2050年 まで続く見込みである。
経済
国際通貨基金 (IMF)の統計によると、2019年のカザフスタンの国内総生産 (GDP)は1,817億ドル、1人あたりのGDPは推計9,750ドルであり、独立直後の経済状況(一人あたりGDP[1992年]:169ドル)に比べ、著しい飛躍を遂げている。旧ソ連崩壊後の厳しい経済状況の中、民営化を中心とする経済改革を推進し、米国企業が参加するテンギス油田 開発の始動などにより、1996年には独立以来初めてプラス成長を記録した。1998年には農業・重工業の低迷およびロシアの金融危機 によりマイナス成長(前年比マイナス2.5パーセント)に転じたものの、1999年以降は再びプラス成長に転じ、世界的な石油価格の上昇を追い風に、2000年以降年平均10パーセントという好調な経済成長を維持した。ただし、2007年以降は金融危機による世界的な景気後退 とともに経済成長率は鈍化し、2010年 - 2013年は5パーセント前後の成長率で推移していた[30] 。
この経済成長は、鉱物資源 の輸出によるものであり、天然資源 依存型である。また、1人あたりGDPが1万ドル以上になり(2008年 ごろ)、マレーシア に並ぶ中進国 となった。しかし、2014年ごろから原油価格が下落していった。さらに原油価格やロシア通貨ルーブル下落の影響を受け、2015年8月、為替相場を管理フロート制 から変動相場制 へ移行すると発表し、その後の1年間で、テンゲの対米ドル為替相場は4割も下落した。こうしたテンゲの為替相場急落の影響でインフレ率が急上昇し、これによる実質所得 大幅減少のため、個人消費 が落ち込んでしまい、景気は大きく失速し、2016年の1人あたりのGDPは推定1万ドルを割った。2017年は前述した推計8,762ドルとなり、中国とほぼ同等となった[31] 。
なお、カザフスタンは2015年11月30日付で世界貿易機関 (WTO)に加盟しており、加盟国としては162番目と比較的遅めの立場となっている。一方で中央アジア地域経済協力機構 (英語版 ) (CAREC)の加盟国の一つともなっており、ユーラシア経済連合 の創設に携わった国の一つともなっている。
石油・天然ガス
カスピ海パイプライン (テンギス油田 - ノヴォロシースク 間)
国営企業カズムナイガス が中心となって、豊富な石油・天然ガス資源を開発・輸出している。2016年11月、新たにカスピ海のカシャガン油田 が商業生産を開始した[32] 。
その他鉱業
カザフスタンは石油、天然ガス、石炭 、ウラン、銅 、鉛 、亜鉛 などに恵まれた資源大国である。金属鉱業はカザフスタンにおける重要な経済部門の一つであり、GDPの約1割(石油・ガスは3割弱)を占め、石油・ガスを含む天然資源は、工業生産・輸出・国家歳入の約6割を支えている。その埋蔵量は、アメリカ地質調査所 (USGS)によるとウランが世界の18パーセント、クロムが同10パーセント、マンガンが同5パーセント、銅が同5パーセント、銀が同5パーセント、鉛が同9パーセント、亜鉛が同8パーセントであり、さらなる開発ポテンシャルを有している。ウランは恒常的に生産量が増加しており、特に世界金融危機 を経てからは伸びが著しく、2010年の間には1万7,803tU(金属ウラン重量トン)を産出して以降[33] 、カザフスタンはウラン生産で世界第1位(1997年は13位)となった。今後、炭化水素・クロム・鉄は50 - 80年、ウラン・石炭・マンガンは100年以上の生産が可能であると言われている。一方、輸出の主要部分を占める非鉄金属および貴金属鉱山の開発・生産は12 - 15年程度で枯渇する可能性が指摘されている。
カザフスタンは資源に恵まれている一方、品位の低さなどから開発に至った鉱山は確認埋蔵量の35パーセントにすぎず、10種の鉱物(ダイヤモンド 、錫 、タングステン 、タンタル 、ニオブ 、ニッケル 、ボロン 、マグネサイト 、マグネシウム塩 、カリウム塩 )はいまだ開発されていない。鉱床探査の不足により、近年は埋蔵量減少分が補填されず、質・量ともに低下していると指摘されており、地質調査部門の発展促進が課題となっている。
カザフスタンの鉱業における主要企業は、Tau-Ken Samruk(金属)、KAZ Minerals(銅、銀 など)、Kazakhmys Corporatiopn(銅など)、 Kazzinc(亜鉛、銅など)、Eurasian Resources Group(旧:ENRC、クロム 、鉄鉱石、アルミニウム 、発電事業)、ArcelorMittal Temirtau(鉄鋼)、Kazatomprom (ウラン採掘を含む国営原子力公社)などである[34] 。
有機鉱物 資源では、石炭(約10,600万トン、世界第10位、世界シェア1.4パーセント)[35] が優位である。品質が高いため、同国で産出する鉄 と組み合わせて鉄鋼 を生産している。燃料に向く低品質の亜炭 はほとんど採れない[36] 。原油 (約8,800万トン)の産出量は世界シェア2.0パーセントに達する[37] 。天然ガス は約300億m3 と多くはない。
2017年時点における金属 鉱物資源の採掘量、世界ランキング、世界シェアは以下の通りである[34] 。
色と面積で示したカザフスタンの輸出品目
ウラン鉱 (22.2千トン、世界第1位 、世界シェア39.0%)
銅 鉱(745.1千トン、世界第9位、世界シェア3.7%)
鉛 鉱(112.3千トン、世界第8位、世界シェア2.3%)
亜鉛 鉱(347.0千トン、世界第9位、世界シェア2.6%)
ボーキサイト 鉱(4,843.2千トン、世界第9位、世界シェア1.6%)
クロム 鉱 (6,261.5千トン、世界第2位 、世界シェア18.9%)
マンガン 鉱(1,612.8千トン、世界第9位、世界シェア2.6%)
モリブデン 鉱(0.5千トン、世界第12位、世界シェア0.2%)
鉄 鉱(18,330.9千トン、世界第12位、世界シェア0.6%)
金 鉱(85.3トン、世界第13位、世界シェア2.6%)
アンチモン 鉱(400.0トン、世界第9位、世界シェア0.3%)
プラチナ 鉱(0.1トン、世界第9位、世界シェア0.1%)
ビスマス 鉱(50.0トン、世界第5位)
銀 鉱(1,028.5トン、世界第10位、世界シェア4.2%)
このほか、非金属鉱物 資源として、硫黄 (352万トン、世界第6位、世界シェア4.4%)とリン鉱石 (150万トン)を採掘している[38] 。
エキバストス第一発電所 のような電力事業も鉱業の傘下である。
農業
観光産業
交通
道路
鉄道
旧ソ連の一部であったカザフスタン国内の鉄道は1,520mmと広軌 であるために今でも頻繁に国際列車 が運行され、ソ連時代からのエレクトリーチカ や客車が各国で使用されており、旧ソ連政府の影響により電化率は高い。
カザフスタンの1,520mmと中国の1,435mmとの間で軌間変換をするために、カザフスタン鉄道は新型車両としてスペインのタルゴ の軌間可変車両を導入した。
近年ではアクタウ と、カスピ海対岸でアゼルバイジャンの鉄道 と連絡する新バクー港 を結ぶ鉄道連絡船 経由で新ユーラシア・ランドブリッジ を構成している。
航空
科学技術
カザフスタンは2011年2月に科学法を採択してから、科学開発を急速に推し進めている。傍ら国際科学技術センター (ISTC)の本部がナザルバエフ大学に置かれている。
国民
国土の大部分は砂漠や乾燥したステップ で占められており、そのため人が住めるところは少なく、人口の大半は首都と一部の地域に偏在している。2022年の人口は1,920万人程度。
住民
構成はカザフ人 が69.6パーセント、ロシア人 が17.9パーセント、ウズベク人 が3.3パーセント、ウクライナ人 が1.5パーセント、ウイグル人 が1.3パーセント、タタール人 が1.0パーセント、その他5.3パーセント(2022年)となっている[6] 。
「その他」の中には朝鮮系 が入っているが、彼らの多くは現時点で3、4世代目となっており、民族的教育も育まれることがないため、母語 である朝鮮語 を話せない場合が多い[注釈 2] [39] 。
ソ連時代の名残りにより、国内では現在もロシア語風の姓名を用いる世帯が多い。
現在、ロシア人はロシアへの移住により減少傾向にある[40] 。以前はカザフ人よりロシア人の割合の方が高かったが、独立以降多くのロシア人が転出し、カザフ人の割合が徐々に増加し逆転した。
さらにカザフスタン政府が在外カザフ人の帰還を進めており、1991年から2014年1月1日までに94万4,500人のカザフ人が移住した。在外カザフ人は本国のカザフ人と比べ、よりカザフ文化を受け継いでいるが、それは本国はソ連時代にロシア化が進んだためである[41] 。しかし、それに反してソ連時代の名残りが根強いため、本国のカザフ人同様に人名にはロシア語風の姓名を用いる割合が非常に高いことが特徴ともなっている。
言語
憲法ではカザフ語 が国家語、カザフ語とロシア語 が公用語 と定められている。カザフ語は国語とされるが、カザフスタンにおいてカザフ語を理解ができるのは全人口の83.1パーセントに過ぎない。一方、ロシア語はロシア系のみならず、ソ連時代から95パーセントの住民が使用しており[42] 、異民族 間の交流語 として、カザフ語と同様の地位を与えられている。とりわけ都市部においてはロシア語を母語とし、カザフ語を全く話せないカザフ人も多いなど、カザフ語よりもはるかに広く使われているのが実情である。
たとえば外国映画は、主にロシアで作られたロシア語吹き替え 版が上映されている[43] 。これに対し2012年、文化法改正法が施行され、外国映画にカザフ語吹き替えが義務づけられた。カザフスタンはロシア系住民が約20パーセントと中央アジアでは最多であるにもかかわらず、この法律により、カザフスタンでロシア映画 を原語で上映できなくなる可能性があった。しかし、この法律は吹き替えコストの問題で空文化し、カザフ語吹き替え映画は政府の資金援助を受けた12本ほどにとどまった[43] 。そのため2016年、カザフ語字幕でもよいと緩和した上で改めて義務づけられた[43] 。
カザフ語に関しては、同じ中央アジアの旧ソ連国家であるウズベキスタン やトルクメニスタン がウズベク語 やトルクメン語 に行ったような、キリル文字 からラテン文字 への切り替えを進めており[44] 、2021年に看板のロシア語併記義務を撤廃する法律が議会で可決された。トカエフ大統領は脱ロシア語に関しては急ぐ必要がないとブレーキをかける意向を見せている[45] [46] 。当然ながら、カザフ語とともに公用語である国内では最も広範囲に使われているロシア語はキリル文字表記のままであり、公用語から除外されるわけでもない。
カザフスタンはヴォルガ・ドイツ人 の移住・追放先の一つであったため、現在でも全人口の1.1パーセントほどにあたる18万人がドイツ語 を話す。
婚姻
婚姻時に、婚姻前の姓を保持する(夫婦別姓 )か、共通の姓(夫婦同姓)か、複合姓に改姓することから選択することが可能である。すでに複合姓である場合にさらに追加することはできない。改姓した場合、離婚時には、婚姻時の姓を保持することも元の姓に戻すことも可能である[47] 。
カザフスタン人の婚姻適齢は男女ともに18歳以上、女性に関しては妊娠や出産など正当な理由がある場合は16歳以上で婚姻可能である。人口統計資料(2018)によると平均初婚年齢は男性27歳で女性は24.3歳(2010年)となっている[48] [49] 。
婚姻適齢の引き下げは、婚姻を締結しようとする者、その者の親、または後見人の申し立てが必要である。
宗教
2009年の調査では、イスラム教 が70.2パーセント、キリスト教 が26.2パーセント、無宗教 が2.8パーセントとなっている[50] 。
なお、イスラム教徒が多数を占めるものの同国においてそのシャリーア (イスラム法による戒律)は緩く、イスラム教では本来禁忌である飲酒 なども公然と行われている。
教育
義務教育 は6歳からの8年間と定められている。国民の識字率 は国民全体の99.8パーセントとなっている[51] 。
国内最大の大学 はナザルバエフ大学 である。なお、カザフスタンは中央アジアにおいて国立大学 の数が非常に多く、国際学校 も豊富に揃っていることが特徴である。
保健
国内における全ての専門分野の医師の数は50.6千人(国民1万人辺りにつき約33.9人)となっている。
社会
家族
カザフ人は父系の出自を大きなアイデンティティとしている。父系 の氏族「ルゥ」に帰属を持ち、44の主要なルゥがある。このルゥは民族の成立以前からあるものもある。結婚後もルゥは変わることはない。ソ連時代は家父長制 であると批判されたが、集団化 への抗議による家畜屠殺 、それに伴う膨大な餓死者(一説には220万人)も発生し集団化は見直され、ルゥを元にした組織となった[52] 。
治安
2015年の10万人あたりの殺人(既遂)率は、約4.8件(認知件数:853件)であった[53] 。かつては10.0件以上あったが、減少して2010年以降は10.0件を切っている。
強盗は、68.7件(認知件数:1万2,197件)であった[54] 。強盗は、2009年 - 2012年の間に急増したが、2013年以降は減少している。窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)は、約1177.0件(認知件数:20万8,907件)であった[55] 。窃盗(強盗・侵入盗・自動車盗は除く)に関しては、2010年 - 2014年の間に急増し、2014年以降は高止まりしている。
2016年 6月5日、アクトベ 市内の銃砲店や警察施設が攻撃されるテロ事件 が発生。治安部隊 との間の銃撃戦で、6名が死亡、10名が負傷した。このテロ事件を受け、治安当局はアクトベ市のテロの脅威度を「赤」(3段階中最高位)に設定した。また、アクトベ市を除くカザフスタン全土を「黄」(3段階中1番目)にした[56] 。6月12日、カザフスタン当局はアクトベ市のテロの脅威レベルを「赤」から「黄」に引き下げ、カザフスタン全土がテロの脅威レベル「黄」となった[57] 。8月14日、カザフスタン国家保安委員会はテロの脅威レベル「黄」を2017年 1月15日まで延長した[58] 。
人権
人権団体はカザフスタン政府を権威主義 と評し、定期的にカザフスタンの人権 状況を劣悪と評している。
マスコミ
2016年の時点で、1,364の新聞 と522の雑誌 を含む1,886の活字 メディア が登録されている[59] 。
メディアの検閲
インターネット は2014年時点で国民の70.8パーセントに普及している。「マスメディアに関する法律」の中で、インターネットはマスメディア と法的に定められた。
これによりフェイスブック やツイッター などのSNS 、インターネット掲示板 での言動は新聞、テレビ と同等のものとなった。亡命者 が政権批判をするブログ サイト[60] は国内からアクセス不可であり、政府の視点とは異なるニュースチャンネルも規制がかけられている。
NGO のフリーダム・ハウス はカザフスタンを「部分的自由」と評価を下している[61] 。
文化
イスラム教徒の聖地の一つ、ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟
カザフ人は高度に発達した遊牧民としての文化があった。 8世紀、アラブ人 が当時のカザフスタンにあたる地域のカザフ人と交流するようになると、この地はイスラム教 の影響を受けるようになった。
現在は旧ソ連領中央アジアの中で最も文化的にヨーロッパ化された国と言える。ロシア語話者も多く、イスラム教徒 であっても戒律を厳格に守る者は少ない。
食文化
文学
音楽
映画
衣装
美術
建築
世界遺産
カザフスタン国内には、国際連合教育科学文化機関 (UNESCO)の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が3件、自然遺産 が1件存在する。
祝祭日
日付
日本語表記
現地語表記
備考
1月1日
元旦
Жаңа жыл күні
3月8日
国際婦人デー
Халықаралық әйелдер күні
3月22日
ナウルズ
Наурыз мейрамы
イラン暦 の元旦
5月1日
民族同調記念日
Этникалық сәйкестіктің мерейтойы
5月9日
戦勝記念日
Жеңіс күні
独ソ戦 に敗れたナチス・ドイツ が1945年にソ連などに無条件降伏 した日で、ソ連時代から引き継いでいる。
8月30日
憲法記念日
Конституцияны еске алу күні
10月25日
共和国の日
Республика күні
1990年、カザフ・ソビエト最高会議が主権宣言をした日。2010年から2021年までは祝日から外されていた[62] 。
12月16日
独立記念日
Тәуелсіздік күні
1991年にカザフスタン共和国がソ連に対して主権宣言を採択した日。
2012年から2021年まで12月1日 は「初代大統領の日」と呼ばれる祝日であった[63] 。ヌルスルタン・ナザルバエフ初代大統領の功績を祝うものであったが、ナザルバエフ失脚後の2022年9月29日に廃止が決定された[64] 。
スポーツ
カザフスタンは、1991年 の独立時よりアジアオリンピック評議会 に加盟している。独立後初の国際大会となった1994年アジア競技大会 では、中国・日本・韓国に次いで金メダル数4位となり、以後アジア競技大会 では金メダル数4位の座を維持している。1996年アジア冬季競技大会 では日本や韓国を上回る14個の金メダルを獲得しており、アジア地域 における競技レベルは高い。また、2011年アジア冬季競技大会 はカザフスタンで開催された。
さらに2006年 から「首都 アスタナ 」の名義で、UCI が主宰するUCIプロツアー に出場する資格を有するチームのスポンサーにもなった。資金はカザフスタンの主要5企業が出資している。スペイン で開かれてるブエルタ・ア・エスパーニャ では、カザフスタン人のアレクサンドル・ヴィノクロフ が2006年度の総合優勝を果たした。
また、ラグビー ではワールドカップ への出場歴はないが、アジア五カ国対抗 では2009年大会と2010年大会で準優勝を果たしており、2011年W杯 予選では最終プレーオフまで進んだ。一方で、女子代表 はワールドカップ 出場の常連国となっている。
サッカー
カザフスタンサッカー連盟 は独立当初はアジアサッカー連盟 (AFC)に加盟したものの、2002年1月1日をもってAFCを脱退し、欧州サッカー連盟 (UEFA)に加入した。その影響により、ワールドカップ や欧州選手権 の予選を通じて、UEFA加盟の強豪国と対戦する機会が増えた。さらに国内リーグ の優勝チームは、UEFAチャンピオンズリーグ 予選やUEFAヨーロッパリーグ 予選にも出場できる。
国内リーグとしては、1992年 にカザフスタン・プレミアリーグ が創設された。FCアスタナ が2014年 から2019年 までリーグ6連覇を達成し、優勝回数もリーグ最多を数える。さらにUEFAチャンピオンズリーグ 2015-16 では本大会に出場しており、UEFAヨーロッパリーグ 2017-18 ではベスト32に進出した事もある。サッカーカザフスタン代表 は、これまでFIFAワールドカップ やUEFA欧州選手権 の本大会には未出場である。なお、AFC加入時代のAFCアジアカップ についても同様に未出場である。
著名な出身者
脚注
注釈
^ 主権宣言は1990年10月25日、「カザフスタン共和国」へ改称したのは1991年12月10日。
^ 現地では[кореец](ロシア語で「高麗人」の意)と呼ばれている。
出典
参考資料
歴史の項
関連項目
外部リンク
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