ブータン王国
འབྲུག་ཡུལ་
国の標語:なし
国歌 :འབྲུག་ཙན་དན་ (ゾンカ語) (雷龍の王国)
ブータン王国 (ブータンおうこく、ゾンカ語 : འབྲུག་ཡུལ་ 、英語 : Kingdom of Bhutan )、通称ブータン は、南アジア に位置する立憲君主制 国家 。首都 はティンプー 。北は中国 、東西南はインド と国境 を接する。
国教 は仏教 (ロ・ドゥク派 )。民族 はチベット 系8割、ネパール 系2割。公用語 はゾンカ語 。
国旗 はその模様が複雑で、竜 のうろこ が細かく描かれている。国花 はメコノプシス=ホリドゥラ 、国樹はイトスギ 、国獣 はターキン 、国鳥 はワタリガラス 、国蝶はブータンシボリアゲハ 。
長年鎖国 政策をとっていたが、1971年 に国際連合 加盟。翌年に国民総幸福量 という功利主義 を採用した。
国名
チベット語 の正式表記は འབྲུག་ཡུལ་ ('brug yul、ドゥクユル、竜の国)。
正式名称のラテン文字 表記は『CIA WORLD FACT BOOK』によればDruk Gyalkhap 。Druk Yul という略称が使用されることが多い。
公式の英語 表記はKingdom of Bhutan 。通称、Bhutan 。
日本語 の表記はブータン王国 。通称、ブータン 。漢字 では不丹 と表記し、不 と略す。
この国名の起源については様々な説がある。例えば、サンスクリット語 で「高地」を意味する「ブーウッタン」説がある。これはインドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥクユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派 に属するドゥク派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる[ 4] 。
歴史
1646年 建設のパロ谷 のゾン
ブータンの地では13世紀前半、パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教 のドゥク・カギュ派 が伝えられ、以後、同地に定着していった。
ドゥク派では、開祖ツァンパ・ギャレー(1161年 - 1211年)以来、ギャ氏の血統に属するものが総本山ラルン寺の座主職をはじめ教団の指導的地位を独占してきたが、16世紀末より化身ラマ が同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 - 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。
第16代座主ミパム・チェキ・ギャルポは1606年、自身の孫ガワン・ナムゲル を同派の有力な化身ラマ、ペマ・カルポ(1527年 - 1592年)の転生者と認定し、第17代の座主に据えようとした。ギャルワン・ドゥクチェンをギャ氏の勢力に取り込もうという試みである。
ペマ・カルポ自身はチョンギェ地方に生まれ変わると遺言しており、同派はペマ・カルボの転生者としてギャ氏のガワン・ナムゲルを正統と見なす一派と、チョンギェの領主家出身のパクサム・ワンボ(1593年 - 1641年)を正統と見なす一派とに分裂した。
両派は、当時の中央チベットの覇者デシー・ツァンパ政権に裁定をあおぎ、チョンギェ側に有利な裁定が下された。ガワン・ナムゲルは、総本山ラルン寺を離れ、1616年、ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。
ドゥクパ教団は、ギャ氏(およびガワン・ナムゲル)を支持するロ・ドゥク(南ドゥク派)と、ギャルワン・ドゥクチェンを支持するチャン・ドゥク(北ドゥク派)に分裂した。
1772年 、当時インドのクーチ・ビハール王国 に侵出していたブータンはイギリスの援軍によって駆逐され、以来イギリス との関係が始まる。この紛争はパンチェン・ラマ の調停によって平和的に解決したが、その後もブータン人によるドゥアール 地方への侵入が度々起こると、イギリスは特使イーデン を派遣して交渉に当たらせた。イーデンはブータン側が強硬に主張するドゥアール地方の占有、またその他の要求をも呑んでやむを得ず条約の調印に応じたが、この報告に接した英国インド総督 が直ちにこの条約を破棄して、同地方の英国領併合を宣言した。対するブータンは1864年 にイギリス駐屯軍を襲って敗退させたが(ドゥアール戦争 )、イギリスはさらに強力な軍隊を派遣してこれを破り、1865年 にブータンへの補助金(年額5万ルピー)支払いと引き換えにドゥアール地方を手に入れた(シンチュラ条約 )[ 6] 。
その後、1906年 にイギリス人のブータン入国が正式に承認されると、1910年 には先のシンチュラ条約(第四条及び第八条)を改正して、補助金を年額10万ルピーに倍加すること、イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと、さらにシッキム王国 及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャ との抗争はイギリス政府の仲裁に託すことが両国間に締約された(プナカ条約 (英語版 ) )[ 6] 。イギリスによるこの外交指導権買収は、英領インド 保全のためにその東北方から他国の勢力を排除するのが目的で、当時その対象となっていた国は、ブータンを「チベットの属部」と認識し、度々その宗主権を主張していた清国 と、南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていたロシア帝国 であった[ 7] 。イギリス政府はプナカ条約締結と同時に北京 駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であること、またブータンに対する清国の勢力をイギリスは容認しないことを正式に通知した。イギリスによるブータンの外交権束縛は、イギリスから独立したインドによって引き継がれた。
初代国王ウゲン・ワンチュク
従来ブータンの政治形態は、僧侶の代表者であるダルマ ・ラージャ (仏法王)と、俗人の代表者であるデパ・ラージャ(執政王)による二頭体制であった。しかし1885年 に内乱が勃発して以来国内が安定しなかったことから、1907年 ダルマ・ラージャを兼ねていたデパ・ラージャが退き、代わって東部トンサ郡の領主ウゲン・ワンチュク が世襲の王位に選ばれ、初代ブータン国王 となった。次いで1926年 にその子息ジグミ・ワンチュク が第2代国王となり、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュク が1972年 に崩御すると、僅か16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュク が永らく第4代国王の座に即いた。2005年 に総選挙が実施されると翌年12月に国王は譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク が第5代国王に即位した。2008年 7月18日には初の成文憲法典が公布され、名実ともに立憲君主国 へと移行した。
年表
ブータンの国獣、ターキン
国鳥ワタリガラス
政治
第5代国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政 が成立するまで約300年間維持された[ 11] 。1907年 のワンチュク朝 成立以降、国王を中心とする絶対君主制 だったが、近年の四代国王主導の政治改革により議会制民主主義への移行準備を開始、代替わり後の2008年 に憲法 (英語版 ) が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制 に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制 が採用されている。
立法
1953年に第3代国王により設置された国民議会 (下院に相当。英語: National Assembly 、ゾンカ語: Gyelyong Tshogdu)と、2008年新憲法により新設された国家評議会 (上院に相当。英語: National Council 、ゾンカ語:Gyelyong Tshogde)による両院制 である。2008年7月の新憲法制定までは議席数約150の一院制 国会(国民議会)であった。旧国民議会の議員は、一般選挙を経た国民代表106名・仏教界代表10名・政府代表34名で構成され、任期は3年、再選、再任が認められていた。
現在の国民議会は、普通選挙 ・単純小選挙区制 により選出される47人の議員で構成される。一方の国家評議会は、国内20県から各県1人ずつ普選で選出される20人と国王が任命する有識者5人の計25人で構成される。両院とも議員の任期は5年だが、国民議会は解散の可能性もある。
2007年12月31日と2008年1月29日に初の国家評議会(上院)選挙が実施され、20人の選挙議員が確定した。2008年3月24日には、初の国民議会(下院)選挙が実施され、ブータン調和党 (DPT) が45議席を獲得して圧勝し、第2党の国民民主党 (PDP) は2議席にとどまった。3月28日、国家評議会の任命議員5人が決定し、両院の構成が確定した。4月9日、DPT党首ジグメ・ティンレー が初代民選首相として選出された。
2013年7月13日に国民議会(下院)選挙が実施され、野党のPDPが32議席を獲得して与党のDPT(15議席)を破り、政権を奪取した。7月19日に、PDP党首ツェリン・トブゲ が第2代首相として選出された[ 12] 。
行政
1629年 行政の中心となる最初のゾン[ 注 1] がシムトカ・ゾンであった。
1968年 から採用された省制度により、2005年 現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1964年 の首相暗殺以来、首相職は再設置されていなかったが、1998年 に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制 が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。2008年3月24日の国民議会選挙の結果、第1党となったDPTの党首ジグメ・ティンレー が同年4月9日に初の民選首相に任命された。
その他に、かつては王立諮問委員会(英語: Royal Advisory Council 、ゾンカ語: Lodroe Tshogde)が独立機関として存在した。国家の重要事項について国王と閣僚会議に必要な助言を行い、法律や議決が、政府と国民によって忠実に実行されているかを確認する役割をになった。会議は9名の諮問委員から構成され、内訳は、国民代表6名、仏教界代表2名、国王指名1名となっており、任期は5年であった。しかし、王立諮問委員会は2007年 にその役目を終えて廃止されている。
地方自治 組織として、新憲法制定以前は、ゾンカク発展委員会(英語: Dzongkhag Development Committee 、ゾンカ語: DYT)、ゲオク発展委員会(英語: Gewog Development Committee 、ゾンカ語: GYT)などを通じて国民の意見を国政に吸収するシステムが採用されていた。ゾンカク発展委員会は、県知事、国会議員、郡長、村長で構成され、ゲオク発展委員会は国会議員、村長、集落責任者、地域住民で構成される。2008年の新憲法制定に伴い、発展委員会は地方議会へと改組された。
国際関係
非同盟中立政策をとり、国際連合安全保障理事会常任理事国 のいずれとも外交関係を持っていない[ 14] 。2016年の時点で52カ国、そして欧州連合 との間に外交関係を有している[ 14] 。域内外交関係に注力し、南アジア地域協力連合 の原加盟国であり、アジア協力対話 や多面的技術経済協力のためのベンガル湾構想 (英語版 ) に参加している。1971年には国際連合に加盟している[ 14] 。
中国との関係
2016年時点において国交は樹立していないが[ 14] 、事実上の領事館が香港 とマカオ にある。1971年にアルバニア決議 に賛成しているように一つの中国 政策の支持を明言しており[ 15] [ 16] [ 17] 、中華民国 (台湾)とも国交を持っていない。1974年には中国政府の代表がジグミ・シンゲ・ワンチュク国王の戴冠式に出席した[ 18] 。1984年から定期的な協議を行い[ 19] 、ブータンの外務大臣も中国を度々訪問しており[ 20] [ 21] 、1998年に中国とブータンは国境地帯の平和安定維持協定を締結している[ 22] [ 23] 。
北部から西部にかけてのガサ・ティンプー・パロ・ハの4県で中華人民共和国(西蔵自治区日喀則市の亜東県・康馬県、山南市の浪卡子県・洛扎県)と接し、帯状の係争地がある[ 24] 。ドクラム高原は紛争地の最南端に位置する[ 24] 。1990年代以降、中国が係争地の内部に道路、基地の建設をすすめるなどの形で紛争が顕在化。2000年代に入り、ブータン領域内において中国が道路建設を行い、軍及び民間人の越境行為が行われたことから、ブータン政府が抗議を行っている。中国の越境行為は冬虫夏草 の採集がその一因と見られている。ブータン政府は協定の遵守を求め、折衝を行っている[ 25] [ 26] 。なお2014年9月時点での中国との関係について、首相のツェリン・トブゲはNHKの取材に対し、「両国関係は友好的であり良好」との見解を示している。また、国境画定作業が進行中であることも明らかにした[ 27] 。2017年6月28日、ブータンの駐インド大使ナムギャルは、「中国人民解放軍が最近、ドクラムにあるブータン陸軍の兵舎に向かう道路の建設を始めた」として、中国側に抗議した[ 24] 。
インドとの関係
英領インドとの条約に、「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド・ブータン条約 (英語版 ) にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国 的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。また、2007年3月の条約改定で、「外交への助言」についての文言が「相互協力関係の維持及び拡大」をうたうものに差し替えられるなど、現状に合わせた新たな規定が定められた。
ブータンとインドは相互の国民が、互いの国を観光するときにビザなどは必要なく、身分証明書のみでよい。また、ブータン国民がインド国内で就労する際に法的規制はない。
日本との関係
領土問題
北部が中国の領土にされる前のブータン。北部が北側に出ている。2006年より前の国境
北部が中国の領土にされた後のブータン。2006年の新国境線
国土面積は、従来約46,500km2 であったが、2006年に発表した新国境線では、北部の多くが中国領と主張されているため、約38,400km2 にまで減少した[ 31] 。国境線をめぐる問題が長期化している(領土問題 も参照)。
軍事
志願制 の陸軍 であり、総兵力は約1万人(ブータン王国軍約7,000人、ブータン国王親衛隊 約2,000人、警察官 約1,000人も含む)。軍事費 がGDPに占める割合は約2パーセント程度で、約1,700万ドル(2006年推計)。
陸軍の装備品は迫撃砲 や分隊支援火器 などの小火器 のみである。砲兵 戦力および機甲 戦力は有さず、装甲兵員輸送車 も一部の部隊に若干数が配備されるにとどまる。小火器 は、84ミリ迫撃砲、AK-101 、FN FAL 、H&K G3 、FN ブローニング・ハイパワー の装備が確認されている[要出典 ] 。
内陸国 ゆえに海軍 は存在せず、大きな河川も無いため河川軍も編成 していない。空軍 も存在せず、防空 はインド軍 に一任している。ブータン軍が保有している航空機 はヘリコプター のMi-8 (7機)と固定翼機 のドルニエ 228 (1機)のみである。
また、世界軍事力ランキング(world global fire)ではブータンは最下位となっている。
国内にインドの軍事顧問団 と陸軍部隊 が1000~1500人駐留[ 32] している。また、インド政府 はブータン軍人のインド留学を随時受け入れている。
2003年、ブータン軍はアッサム独立運動に参加するインド系ゲリラ集団3,000名と交戦。インド軍と連携し、ブータン軍の「大元帥 」である第4代国王自ら前線で指揮を執り、国内の拠点をほぼ壊滅させている(オールクリア作戦 (英語版 ) )[ 9] 。
地理
ブータンの衛星写真
インドとは、東をアルナーチャル・プラデーシュ州 と、西をシッキム州 と、南を西ベンガル州 ・アッサム州 と接しており、その国境線 は605km に達する。また、北の国境線470kmは中華人民共和国 のチベット自治区 と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈 の上を走っており、国境線が確定していない部分が多く、国境画定交渉が現在も進められている。
ヒマラヤ山脈南麓に位置し、ブータン最高峰は標高7,561mガンカー・プンスム 。国土は、南部の標高100m から、北部の標高7,561mまで、7,400m以上の高低差がある。
気候 は、標高3,000m以上の北部ヒマラヤ山脈の高山・ツンドラ 気候、標高1,200mから3,000mの中部のモンスーン 気候、標高1,200m未満の南部タライ平原 の亜熱帯 性気候が並存する。
殺生を禁じている宗教上の理由と、資源保護の観点から、川で魚を取る事を禁じており、食用の魚は川の下流にあたるインドからの輸入に頼っている。
ブータン国内に鉄道は通っていない。地方には悪路が多く、自動車事故は衝突事故よりも崖下への転落事故が多い。転落事故に関しては、シートベルト を着用しているほうが救命率が低くなるという考えから、着用は法で強制されておらず、民間では着用を勧めていない。
地方行政区分
ブータンのゾンカク
ゾンカク を4つの地方に分けた場合 西部 中部 南部 東部
20のゾンカク (英語版 ) (Dzongkhag、県)に分かれている。各県の県庁には基本的にゾン (城砦)があり、聖俗両方の中心地(行政機構、司法機関及び僧院)として機能している。ゾンカクの下に205のゲオ (Gewog、郡)が設置されている。ただし、首都ティンプー などの人口密集地にはトムデ (英語版 ) (Thromde)という独立した行政区分がある。複数のゲオをまとめたドゥンカク (英語版 ) 、ゲオの下のチオ (英語版 ) といった単位もあるが、行政区画というよりも、ドゥンカクは司法区、チオは選挙区として機能している[ 33] 。
都市
順位
都市名
人口(2017年 )
県
1
ティンプー
114,551
ティンプー県
2
プンツォリン
27,658
チュカ県
3
パロ
11,448
パロ県
4
ジェレフ
9,858
サルパン県
5
サムドゥプ・ジョンカル (英語版 )
9,325
サムドゥプ・ジョンカル県
6
ワンデュ・ポダン (英語版 )
8,954
ワンデュ・ポダン県
7
プナカ
6,262
プナカ県
8
ジャカル (英語版 )
6,243
ブムタン県
9
ナングラム
5,418
ペマガツェル県
10
サムツェ
5,396
サムツェ県
1.ティンプー
2.プンツォリン
3.パロ
4.ジェレフ
5.サムドゥプ・ジョンカル
経済
首都ティンプー の街並み
IMF の統計によると、ブータンの2020年 のGDP は25億ドルであり[ 2] 、日本 の人口6万人程度の市に相当する経済規模である。同年の一人当たりのGDPは3359ドルであり[ 2] 、世界平均の3割以下の水準である。2011年 にアジア開発銀行 が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層 は17万人と推定されており、国民のおよそ25%を占めている[ 34] 。国際連合 による基準に基づき、後発開発途上国 (最貧国)に分類されていたが、2023年12月13日に指定が解除されており、現在は開発途上国 に分類されている[ 35] 。
主要産業はGDP の約35%を占める農業 (米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は電力 である。国土がヒマラヤ の斜面にあることをいかし、豊富な水力 による発電 を行い、インド に電力を売却することにより外貨を得ている。輸出品は電力、珪素鉄、非鉄金属、金属製品、セメントなどで、輸入品は高速ディーゼル、ポリマー、石油、米など。2007年統計では貿易総額は輸出入合わせて約10億ドルで貿易収支は若干黒字。
なお、2007年の一人あたりGNIは1,800ドル(2021年は3,040ドル[ 36] )、経済成長率は19%であった。
観光 業は有望だが、文化・自然保護の観点からハイエンド に特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズ などの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカー としての入国は原則として不可能。かならず旅行会社を通し、旅行代金として入国1日につき200米ドル以上(交通費、宿泊代、食事代、ガイド代を含む。ローシーズンは若干減額される)を前払いし、ガイドが同行する必要がある。ただし、治安の悪い南部地域への渡航制限を除き、自由旅行が禁止されているわけではない。
ブータン政府は、1961年以降は5年毎の開発計画に基づく社会経済開発を実施している。2002年7月からは新たに第9次5ヶ年計画が開始されている。国内経済では、農業がGDPの約36%、就労人口の約9割を占める最大の産業であり、対外経済では貿易をはじめインドとの関係が圧倒的に高い割合を占める。
1972年代にワンチュク国王が提唱した国民総幸福量 (いわゆる幸せの指標、GNH (Gross National Happiness))の概念に基づき、「世界一幸せな国ブータン」として、特にGDP/GNP増加を主眼としている先進国から注目されている。日本も経済援助などを通じブータンのGNH発現と実現に貢献をしている[ 37] 。昨今、日本においてもGNHに関するシンポジウムが行われるなど、その概念の理解と導入への取り組みがみられる[ 38] [ 39] 。ただしGNH達成はいまだ目標の段階にとどまっており[ 40] 、2010年 の調査で示された平均幸福度は6.1と、日本の6.6を下回っている[ 41] 。
2012年からは国際連合が世界各国の幸福度をランキング化しており、当初ブータンは世界8位と「世界一幸せな国ブータン」を裏付ける結果となっていた。しかし、年を追うにつれて急激に順位が低下し、2010年代後半にはランキング圏外となった。これは国の経済発展とともに様々な情報が国外から入るようになり、国民が他国の生活水準と比較するようになったためと見られている[ 42] 。
農業
色と面積で示したブータンの輸出品目
ブータン経済において農業は非常に重要な基幹産業である。1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは国民経済計算 の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実態よりも小さくみえる。国内総生産 においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木、キノコ類である。マツタケ は国内で食べる習慣が無かったが、1990年代からは日本向けに輸出されている[ 43] 。
ブータン農業の問題点は生産能力が向上しないことにある。人口が増え続けているにもかかわらず、労働人口に占める農業従事者の割合は高い数値で横ばいに推移しており、農民の数は増え続けている。一方、厳しい地形に阻まれて農地の拡大は望めない。小規模な農地が大半を占めるため、土地生産性も改善されない。このため、1986年・1987年時点と、2003年・2005年時点を比較すると、農民が倍加しているにもかかわらず、生産量がかえって微減している。
具体的には、1986年時点の国土に占める農地の比率が2.2%、牧草地4.6%、森林70.1%だったものが、2003年に至ると、同2.7%、同8.8%、同68.0%に変化している。農地は約2割拡大した。
生産量が1万トンを超える農産物を比較すると、
1987年時点 米8.5万トン、とうもろこし8.5万トン、ばれいしょ5.0万トン、コムギ1.9万トン、サトウキビ1.2万トン、オレンジ5.0万トン
2005年時点 米4.5万トン、とうもろこし7.0万トン、ばれいしょ4.7万トン、コムギ0.5万トン、サトウキビ1.3万トン、オレンジ3.6万トン
となっており、主食のコメが半減している。2003年時点ではブータンの輸入品目に占める穀物の割合は7.6%に達した。この傾向は牧畜業にも及び、主力のウシは同じ期間に51万頭から37万頭に減少している。
労働力
失業率は4%(ブータン政府資料2009年)。
交通
ブータンのポストバス ティンプー - プンツォリン間を往復しており、路線バス としては最も重視されているものになる
道路
鉄道
航空
パロ空港 、ヨンプラ空港 (英語版 ) 、バトパラタン空港 (英語版 ) 、ゲレフー空港 (英語版 ) の4つが主要となっている。
国民
民族衣装を着たブータン国民
民族
民族構成(ブータン)
ガロン族(チベット系)
50%
ローツァンパ(ネパール系)
35%
その他
15%
ドゥクパ(ブータン民族)は、ガロン (英語版 ) (Ngalong)、ブムタンパ (Bumthangpa)、ツァンラ (英語版 ) (Tshangla/Sharchops)の3つに分けられる。南部低地地帯(タライ平原 )には、ネパール 系ローツァンパ (Lhotshampa)が居住している。
その他、北部や南部には独自の文化を持つ少数民族の存在が確認されている。
言語
ブータンの言語分布
ブータンでは、英語も含めると20以上の言語が話されている[ 44] 。公式には、チベット語 系のゾンカ語 が公用語である他、ネパール語 と英語 も広く使われている。その他、ツァンラ語 、シッキム語 、ザラ語 、リンブー語 、ケン語 、バンタワ語 などが話されている。英語・ネパール語を除いたすべての言語はチベット・ビルマ語派 に属する。
国内の言語分布は、西部はゾンカ語、東部はツァンラカ語(シャチョップカ語)、南部はネパール語(ブータンではローツァムカ語と呼ばれることもある)が主要言語となっている。地方の少数民族を中心にゾンカ語を話せない人も多く、ブータンで最も通用性が高いのはヒンディー語 やそれに類するネパール語である。これは近代教育初期の教授言語がヒンディー語で、インド製娯楽映画やテレビ番組が浸透しているためである。2006年の統計上は、ゾンカ語話者は全人口の25%、ネパール語話者は40%である。80年代まで政府は、南ブータンの学校でのネパール語教育に助成金を供出していたが、ゲリラ勢力の台頭以降、教授科目から外れる事となった。
1949年までの長い間イギリスの保護国であったことから政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。また、1980年代半ばにほぼ全ての教育機関で英語が教授言語 となった。ゾンカ語は国語という科目名で教えられている。これは、英語を教授言語とすることで国際的に通用する国民になることを目指すことが理由ではない。ブータン人教員の不足のために隣国インド から英語を話す教員を大量に雇い入れた。また、ゾンカ語は国語として制定されたのが比較的最近であり、3割程度の国民にしか理解されない。長年口語として使われてきたものの、文語としては使われてこなかったために表記法などの整備が遅れていることや、仏教関係以外の語彙 に乏しく、さらに教材などの点で圧倒的に不足しており教授言語にはなりえないという実情がある。
現在でもブータンの学校ではインド人をはじめとする多くの外国人教員が教鞭を執っている。最大の新聞である『クエンセル 』は、英語 、ゾンカ語 、ネパール語 で発行されているが、購読者が最も多いのは英語版である。しかし、教授言語が英語でなくヒンディー語やネパール語であった中年以上の世代にはあまり通じない。英語教育を受けた世代には、国語であるゾンカ語は話せても読み書き出来ない者もいるなどの問題も起きている。したがって近年では伝統文化を守るためにゾンカ語教育が強化されており、国語以外の教科でもゾンカ語で教育が行われるようになった。今後、ゾンカ語の教授言語としての整備と合わせ、順次ゾンカ語での教育の割合を増やし、共通語として確立させていく予定である。国語としてのゾンカ語の整備を行う主体については、ゾンカ語開発委員会 の記事を参照されたい。
婚姻
ブータンでは一夫多妻制 が合法とされているが、ブータンにおける民法(または慣習法)の下でこれまで一夫多妻の配偶者へ法的承認がなされた事例は存在していない。
また、一妻多夫制 の存在も確認されているが、現在、一妻多夫制はラヤのような特定の地域にのみ通用している程度であり、さらにブータンでは一夫多妻制と一妻多夫制の両方が否定される傾向にあり消滅へ向かっている[ 45] 。
人名
ブータンにおいては、氏は「家の名」ではなく個人それぞれに名付けられる。婚姻によって改姓することもなく夫婦別姓 [ 46] 。
宗教
3つの宗教集団に大別される。
他には少数派としてキリスト教 徒の存在が確認されている。
近代化 の進むなか、チベット仏教 は現在でも深くブータンの生活に根差している。ブータン暦の10日に各地で行われるツェチュ (英語版 ) という祭 は今でも交際の場として機能している。その他、宗教的意匠が身近なところにあふれ、男根信仰 も一般的である。宗教観や古い身分制度に基づく伝統的礼儀作法(ディグラム・ナムジャ (英語版 ) )は厳格で、国家公務員の研修や学校教育に取り入れられている。公的な場所に出るときは正装が義務付けられる。
ブータンは「幸せの国」と称されているが、これは『「執着しない」思想』たる観念が存在し、その観念が仏教に根ざしている点にあるとされている。京都大学 の准教授である熊谷誠慈は、ブータンにおける仏教思想で重要な概念として「輪廻 」を挙げており、ブータン研究者の今枝由郎 は、ブータン人の気質を「かつて一度も外国の支配下に入ったことがなく、頑なに鎖国を続けてきたために、外国人に対して何らの偏見もコンプレックスも持たない。自尊心を失うことなく、かといって肩肘張ることもなく、ブータン人はあるがままにブータン人自身である」と記している[ 47] 。
教育
ブータンの大学 はタシガン 県にある王立ブータン大学 (英語 : The Royal University of Bhutan ,通称:カンルン大学)が唯一の大学である。この大学には言語文化学部 (英語版 ) (CLCS)と呼ばれる専門機関が設立されている。
また、王立舞台芸術学院 (英語版 ) (RAPA)が存在しており、この教育機関はブータンの伝統文化の保存を支援する目的で国務省 (英語版 ) によって設けられたものである。
保健
ジグメドルジ・ワンチャック国立紹介病院 (英語版 ) 首都ティンプーに設けられている同国の主要病院である
煙草規制
ブータンでは1792年 から煙草を取り締まる法律が存在した。理由は国民の大半が信仰する仏教 上のものである(葉タバコ は、女悪魔の血液で育つと考えられている)。2004年 12月 より、環境保護及び仏教教義的な背景から世界初の禁煙 国家となり、煙草 の販売、製造、流通が禁止された。しかし、200%の関税が課されるが、国外からの一定量の輸入は許されたため、隣国インド からの輸入で闇市場が繁盛した。
2020年 のパンデミック で政府がインドとの国境を封鎖したため、闇価格は4倍に跳ね上がった。その折、インドと往来していた行商人が新型コロナウイルスで陽性を示した。そのためロテ・ツェリン 首相(週末に医師の仕事を続けている)は密輸 品への需要を減らすための一時的な措置として、また、自宅待機中のヘビースモーカー から煙草を取り上げることによって家庭内の緊張が高まることを防ぐため、煙草の販売を解禁し、ロックダウン 中の生活必需品に加えられた[ 48] 。
社会
習俗の面では、ブータン東部では最近まで残っていた「夜這い ・妻問婚 」や「歌垣 」などが比較的注目される。
南部問題
ブータンのパスポートを提示するベルダンギ難民キャンプ の人々
1958年 の国籍法を下敷きにして、1985年 に公民権法(国籍法)が制定されたが、その際、定住歴の浅い住民に対する国籍付与条件が厳しくなり、国籍を実質的に剥奪された住民が、特に、南部在住のネパール系住民の間に発生した。そもそも、ブータン政府は彼らを不法滞在者と認識しており、これはシッキム のような事態[ 注 2] を避けたいと考えていたための措置だったといわれる。
その一方で、ブータンの国家的アイデンティティを模索していた政府は、1989年 、「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが実施された。1988年 以降、ネパール系住民の多いブータン南部において上記「国家統合政策」に反対する大規模なデモが繰り広げられた。この件を政府に報告し、ネパール系住民への対応を進言した王立諮問委員会のテクナト・リザル(ネパール系)は反政府活動に関与していると看做され追放された。
この際に、デモを弾圧するためネパール系住民への取り締まりが強化され、取り締まりに際し拷問 など人権侵害行為があったと主張される一方、過激化したネパール系住民によるチベット系住民への暴力も報告されている。混乱から逃れるため、ネパール系住民の国外脱出(難民 の発生)が始まった。後に、拷問などの人権侵害は減ったとされる。国王は、国外への脱出を行わないように呼びかけ現地を訪問したが、難民の数は一向に減らなかった。この一連の事件を「南部問題」と呼ぶ。後に、ネパール政府などの要請によりブータンからの難民問題を国連で取り扱うに至り、ブータンとネパールを含む難民の流出先国、国連 (UNHCR ) により話し合いが続けられていたが、2008年3月、難民がブータンへの帰国を拒んだため、欧米諸国が難民受け入れを表明し、逐次移住が始まる予定である。
人権
マスコミ
ブータンにおける新聞 には『クエンセル 』が広く知られている。また、1999年 まではTV 放送が禁止されていた。
通信
文化
ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。これはモンスーン 気候に代表される照葉樹林 地帯(ヒマラヤ 山麓-雲南 -江南 -台湾 -日本 )に属しているためで、一帯では類似の文化的特徴を見い出すことができる[ 49] 。
食文化
ブータンの主食は米 である。食文化においてはトウガラシ の常食と乳製品 の多用という独自の面を有しつつ、ブータンで広く食される赤米 たるブータン赤米 を中心に、パロ米(日本米)、プタ(蕎麦 )の栽培、リビイッパ(ブータン納豆 )、酒文化(どぶろく に似た醸造酒 「シンチャン」や焼酎 に似た蒸留酒 「アラ」)などの日本人の琴線に触れる習慣も多い。
文学
ブータン文学はかつて宗教的な教義に傾注されていたが、現在では民間伝承 に焦点を当てているものが多い。
音楽
ブータンのミュージックパレード
ブータンの音楽にはボエドラ (英語版 ) 、ジャンドラ (英語版 ) と呼ばれる民俗音楽 があり、この2つが古くから国民の音楽文化を支えて来た。
また、リグサール (英語版 ) と呼ばれる大衆音楽 が1960年代に登場しており、電子楽器 を用いる点やロック のように「より速いリズム 」を追求する点から殆どの伝統的な音楽とは対照的な存在となっている。
ブータンを代表する音楽家 にはジグメ・ドゥクパ (英語版 ) が挙げられる。ドゥクパはブータンにおける主要な音楽学者としても知られている。
美術
ブータンの芸術はチベットの芸術 (英語版 ) との類似点が多く、どちらもヴァジュラヤナ (英語版 ) に基づいている事が共通している。また、伝統工芸においては日本の漆器 や織物 などとの類似点もある。
衣類
ゴ の一例。 ゴはカムニ (英語版 ) との組み合わせで着用するのが一般的である
ブータンの男性の民族衣装 「ゴ 」は日本の丹前 やどてら に形状が類似していることから、呉服 との関連を指摘する俗説もあるが、「ゴ」の起源は中央アジア とされており、日本の呉服とは起源が異なる。
男性の民族衣装がチベット 系統であるのに対して、女性の民族衣装「キラ 」は巻き衣の形式を取り、インド ・アッサム 色が濃い。この点により、ブータンの服飾は北から流入したチベット系文化と元来存在した照葉樹林文化が混在しているといえる。
また、ゴはカムニ (英語版 ) と呼ばれるスカーフ 状の装飾品がセットとなっている点が最大の特徴である。
建築
ブータンにおける伝統的な民家の一つ。 パロにて撮影
ブータンにおける建築はゾン建築 (英語版 ) が主体となっている。ブータンでは法令により、全ての建物が色とりどりの木製の間口、小さなアーチ型の窓、傾斜のある屋根の3点を必ず取り入れる形で建設することが定められている。
映画
祭礼
ツェチュ (英語版 ) と呼ばれる祭り がブータン暦(12か月)の毎月10日に開催されている。ツェチュはチベット仏教における伝統的な祭礼の一つでもある。
祝祭日
日付
日本語表記
現地語表記
備考
2月21-23日
現国王誕生日
太陽暦
5月2日
第3代国王誕生日
6月2日
現国王戴冠記念日
7月30日
第3代国王逝去日
9月22日
安雨居
Blessed Rainy Day
11月11日
第4代国王誕生日
12月17日
建国記念日
1月1日-2日
新年
Losar
ブータン暦
4月15日
花祭り
Lord Buddha’s Parinirvana
5月10日
パドマサンババ生誕記念日
6月4日
初転法輪
The First Sermon of Lord Buddha
ダサイン
Dashain
ネパール暦
9月22日
神降祭 ラパウトゥーチェン
Decending Day of Lord Buddha
ブータン暦
11月5日
Meeting of Nine Evils
12月1日
Traditional Day of Offering
この他、ツェチュなど各ゾンカク独自の祝祭日がある。また、ティンプーでは初雪の日は休日になるという慣例がある。
観光
近年、ブータン政府が打ち出している観光政策は「高品質な旅を少数の人に(High Value, Low Volume)」である。新型コロナで外国人旅行客を制限していたが、2022年9月に受け入れを再開。それに関して観光に関わる政策を大きく2点見直した。一つはいわゆる観光税の値上げで、これまで旅行者からは65ドルを徴収していたが、これを一人一泊200ドルに大幅に値上げした。二つ目は公定料金の見直しで、外国人観光客は公定料金と呼ばれる定額料金を支払うのが原則だった。これには、いわゆる観光税、ホテル代、ガイド料金、交通費、食費を含めて250ドル前後であった。この制度は廃止され個別に支払い、料金は業者側が設定できるようになった。
スポーツ
サッカー
ブータンには国技 の「ダツェ」と呼ばれる弓術 があるが、他のアジア 諸国同様にサッカー が圧倒的に1番人気のスポーツ となっており、特に2000年代 よりケーブルテレビ の普及によって爆発的に人気を獲得した[ 50] 。さらに2012年 には、プロサッカーリーグのブータン・プレミアリーグ (英語版 ) も創設された。ブータンサッカー連盟 (BFF)によって構成されるサッカーブータン代表 は、首都 ・ティンプー にあるチャンリミタン・スタジアム を本拠地 としている。
2002年 のFIFAワールドカップ・決勝 (ブラジル 対ドイツ )が行われる同じ日に、FIFAランキング 202位 のサッカーブータン代表 は最下位203位 の英領モントセラト代表 との間で、最下位決定戦を行った。試合はティンプーのチャンリミタン・スタジアムで開催され、ブータン代表は4-0で勝利した。この試合のドキュメンタリー映画 、『アザー・ファイナル 』が、オランダ人 のヨハン・クレイマーによって作られた。
クリケット
クリケット も他の南アジア 諸国同様に人気の高いスポーツである[ 51] 。1990年代にテレビが普及し、イングランドなどで開催された1999年クリケット・ワールドカップ の影響で人気を高めた[ 52] 。その後、2003年に国内競技連盟 のブータンクリケット委員会は国際クリケット評議会 に加盟することが認められた[ 52] 。ブータンは2003年から国際大会に参加し、2004年にマレーシアのクアラルンプールで開催されたACCトロフィーでイランに勝利し、国際試合においての初勝利となった。[ 52] 。ブータンはクリケットへの参入が後発であったが、その後中国、ブルネイ、サウジアラビアなどに勝利を重ね、名声を高めた[ 52] 。
著名な出身者
脚注
注釈
^ 行政の中心として、また、宗教活動の中心であった。ゾンはあるものは非常に大きく、またあるものは小さいなど規模の面で多様であった。また、その建設立地は外敵からの攻撃に対して人々が防衛しやすいものであった。ゾンは谷に突き出していて一面の眺望を得られる場所や、片面が川になっている岸壁の上もしくは急峻な山腹、あるいは尾根に意図的に建設された[ 13] 。
^ シッキム王国 はもともとはチベット系民族が主導権を握る国家であったが、ネパール系の移民が急増した結果として両者の人口比率が逆転し、それが王国の崩壊とインド への併合の遠因となったとみなされている。
出典
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参考文献
関連文献
関連項目
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