タジキスタン共和国
Ҷумҳурии Тоҷикистон (タジク語) Республика Таджикистан (ロシア語)
国の標語:なし
国歌 :Суруди Миллии Тоҷикистон (タジク語) 『タジキスタンの国歌』
^ タジキスタン共和国憲法 (タジク語版 、英語版 ) , November 6, 1994, Article 2.
タジキスタン共和国 (タジキスタンきょうわこく、タジク語 : Ҷумҳурии Тоҷикистон )、通称タジキスタン は、中央アジア に位置する共和制 国家 。首都はドゥシャンベ である。内陸国 で、南にアフガニスタン 、東に中華人民共和国 、北にキルギス 、西にウズベキスタン と国境を接する。また、パキスタン とはアフガニスタンのワハーン回廊 によって隔てられている。
ソビエト連邦の崩壊 に伴い独立 し、ロシア連邦 など旧ソ連諸国 による独立国家共同体 (CIS)などに参加している。人口は現時点で約1千万人程度[ 5] 。
概要
タジキスタンは中央アジアにおいて国土面積が最小の国家であり、パミール高原 の麓に位置する。これに伴い国土の90%以上が山岳 地帯である。同国の人口の大多数はイスラム教 のスンニ派 を信仰している。
この地域は嘗てサラズム 市を含む新石器時代 と青銅器時代 の文化の中心地であり[ 6] 、その後、オクサス文明 、アンドロノヴォ文化 、仏教 、ネストリウス派キリスト教 、ヒンドゥー教 、ゾロアスター教 、マニ教 、イスラム教 を含む様々な信仰と文化を持つ人々が統治する王国の中心地となった。
当該地域は、アケメネス朝 、サーサーン朝 、エフタル帝国 、サーマーン朝 、モンゴル帝国 を含む複数の帝国 と王朝 によって支配されて来た。ティムール朝 とブハラ・ハン国 によって支配された後、ティムール朝ルネサンス (英語版 ) が栄えた。後にロシア帝国 に征服され、その後ソビエト連邦 (以下は ソ連)の一部 (タジク・ソビエト社会主義共和国 。以下は タジク・ソビエト)となる。
1991年 、ソ連が崩壊 する中でタジク・ソビエトは「独立した主権国家」であることを同年9月9日 付で宣言し共和制 へ移行した。独立後は、内戦 が勃発し1992年 5月から1997年 6月にかけて続いた。戦争終結後、新たに確立された政権と外国援助 により、国内の経済は成長した。1994年 以降は権威主義 体制を敷くエモマリ・ラフモン によって率いられており、その政権下における人権侵害の記録は現今も批判されている[ 7] [ 8] 。
タジキスタンは4つの州からなる大統領制 の共和国である。タジク人 が同国の民族的多数派を形成しており[ 9] 、彼らの主要言語はペルシア語 の一種であるタジク語 [ 10] でロシア語 がソ連時代の名残から共通語 として使用されている。反面で随一の自治州 となるゴルノ・バダフシャン では言語の多様性が見られ、タジク語 以外にルシャン語 (英語版 ) 、シュグニー語 、イシュコシム語 、ワハン語 などが話されている。
また、この国の国境 は1929年 のソ連時代に、同連邦の構成共和国となる前のウズベキスタン地域 の自治共和国 として区分されていたときに制定されたものを基本としている[ 11] 。
同国は憲法上では世俗主義 とされているが、名目上は国民の97.5%がイスラム教を信仰している。傍ら、出稼ぎ による送金 とアルミニウム および綿花 の生産に依存する移行経済 (英語版 ) を構成する発展途上国 となっている。
天然資源 が豊富な土地であるものの、国土の 93%が山地で占められている点や開発途上状態である点からインフラストラクチャー の未開発が顕著であり、インフラ不足によってその採掘が妨げられている問題を今も抱えている。
タジキスタンは現在、国際連合 (UN)、独立国家共同体(CIS)、欧州安全保障協力機構 (OSCE)、イスラム協力機構 (OIC)、経済協力機構 (ECO)、上海協力機構 (SCO)、集団安全保障条約 (CSTO)の加盟国であり、北大西洋条約機構 (NATO)の平和のためのパートナーシップ (PfP)の一員でもある。
国名
正式国名は、Ҷумҳурии Тоҷикистон (読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、Тоҷикистон 。
公式の英語表記はRepublic of Tajikistan で、通称Tajikistan 。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistani である。
日本語の表記はタジキスタン共和国 で、通称タジキスタン 。
タジク人 たちは遊牧をしていたアーリア系 スキタイ 遊牧民である。タジク人たちはテュルク人 たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 Тоҷик (タージーク、トージーク)と、タジク語 で「~の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語 ではタージーク、tājīk)の語源は明らかではないが、中国 の唐朝 がイスラム帝国 を指した「大食 」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人 」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教 を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる[ 12] 。アラビア語、タジク語、ペルシア語、ダリー語 で "تاج Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
歴史
タジキスタンの衛星写真
紀元前から近世
紀元前2000年 から紀元前1000年 にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア・ステップ の草原 から中央アジアに移住し、オアシス 地方で独自の文化を作り上げていた。
現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代 より最盛期のアケメネス朝 ペルシア帝国 の東部辺境としてギリシア世界 に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。パミール高原 を境とする中国 、インド 、アフガニスタン 、イラン 、中東 の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス (タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語 、シュグニー語 、ルシャン語 (英語版 ) 、ワヒ語 などのパミール諸語 を話す民族を今日まで存続させてきた。
サーマーン朝 のイスマーイール・サーマーニー廟
7世紀 のイスラーム教徒のペルシア征服 の後、8世紀 に西方からアラブ人 が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教 を信奉するようになり、9世紀 には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラ を首都にサーマーン王朝 を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがてテュルク民族 が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム (イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族 と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となった。双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「タジク 」という呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド 人」や「ブハラ 人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティ を求めることが多かったようである。
16世紀 にはタジクたちの中心地域であるマー・ワラー・アンナフル (ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川 流域で強大になったウズベク人 (シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国 の支配下に入る。
アングロ・ペルシア戦争 (英語版 ) (1856年 - 1857年 )後にパリ条約 が締結されると、ガージャール朝 がヘラート から手を引いた。19世紀 にロシア帝国 では軽工業 を基幹とする産業革命 が進行していたが、1860年代 前半にアメリカ合衆国 で勃発した南北戦争 の影響から、それまでアメリカ合衆国南部 で奴隷制 プランテーション 農業によって生産されていた綿花 の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国 による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム )、1868年 にブハラ・ハン国はロシアの保護国 となった。
20世紀以降
ブハラ人民ソビエト共和国 の国旗
20世紀 初頭のオスマン帝国 は1904年 から1905年 にかけての日露戦争 での日本 の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国 の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国 の首都ベルリン でロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている[要出典 ] 。その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新 だと知ると、同じような自由主義革命 の気運がガージャール朝 ペルシア (1906年 から始まったイラン立憲革命 )やオスマン帝国(1908年 から始まった青年トルコ人革命 )に拡大した。しかし、ロシアの力があまりに強大だったウラル山脈 地域や中央アジアでは、社会主義革命 に民族自決 のための希望を見出した。
ロシア革命 の影響を受けたブハラ青年らは保守 的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年 にブハラ人民ソビエト共和国 を打ち立てた。しかし、1924年 、ソビエト政府 は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト 」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国 の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国 が設置された。
このように、中央アジア地域ではナポレオン やフィヒテ の唱えた西欧型「民族自決 」の言葉と引き換えに、本来の民族共生というアジア的な優れた生き方を少なくとも政府のイデオロギー レベルでは失うことになり、本来は中央アジア諸国が一団となれば巨大な経済圏となるはずであったのが、結果的に諸国の分立と少数民族 と多数派民族とのあらゆる格差を生み出すことになった。以上のような考え方はタジクへももたらされたものの、第一次世界大戦 後のトルコ革命 後にパミール地方へ逃れたエンヴェル・パシャ 将軍らが唱えた「汎テュルク主義 」はロシアとの対立を望まないケマル・アタチュルク 率いる新生トルコ共和国 により却下され、反ロシア・反ソヴィエトのバスマチ抵抗運動 は旧地主・支配階層による抵抗運動の枠を超えられず、中央アジア諸民族の結束力の弱さを体現している。この旧地主・支配階層は、その後アフガニスタンに逃れ、一部はペルシャ湾 岸諸国やイラン、あるいは西欧に亡命して現在に至っている。一方で1929年 12月5日 に、タジクはウズベク・ソビエト社会主義共和国 から分離し、ソビエト連邦構成国の一つであるタジク・ソビエト社会主義共和国 に昇格した。
ソ連時代のタジク・ソビエト社会主義共和国は、スターリン批判 後の中ソ対立 の文脈で1969年 に発生した珍宝島 /ダマンスキー島 をめぐる中ソ国境紛争 の調停の結果、タジキスタンの東部パミール地域にあるゴルノ・バダフシャン自治州 にあるムルガーブ県 (英語版 ) の一部領土が中華人民共和国 に割譲されるなど、中央政権にとってのタジキスタンのパミール地域は「削られても痛くない辺境地域」として見られているかと見間違うほどであった。
こうして形成されたタジク国家は1990年 に主権 宣言を行い、1991年 に国名をタジキスタン共和国に改めるとともに、ソ連解体 に伴って独立を果たした。1991年11月、タジキスタンの大統領 選挙でラフモン・ナビエフ が当選し、共産党 政権が復活。1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS)に参加する。ロシアとは集団安全保障条約 (CSTO)を通じて軍事同盟 関係にあり、国内にロシア連邦軍 が駐留している[ 13] (「国外駐留ロシア連邦軍部隊の一覧#タジキスタン 」参照)。
タジキスタン内戦 (1992年 )
1992年 、タジキスタン共産党 系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦 が起こった。11月に最高会議(共産党系)はエモマリ・ラフモノフ (1952年 - )を議長に選び新政権を樹立し、1993年春までにほぼ全土を制圧した。1994年 4月、最初の和平交渉が行われた。11月の大統領選挙が行われ、1997年6月の暫定停戦合意で反対派は政府ポストの3割を占めた。5万人以上の死者を出した内戦が終わった。エモマリ・ラフモノフ(現在はラフモンと改名)大統領の就任以来、国際連合タジキスタン監視団 (UNMOT)の下で和平形成が進められてきたが、1998年 には監視団に派遣されていた日本の秋野豊 筑波大学 助教授が、ドゥシャンベ東方の山岳地帯で武装強盗団に銃撃され殉職する事件が起こった。
1997年 に内戦は終結した。UNMOTは2000年 に和平プロセスを完了させ、以後は国際連合タジキスタン和平構築事務所 (UNTOP)が復興を支援した。2001年 の対テロ戦争 以来、フランス空軍 も小規模ながら駐留している(2008年時点)。
ラフモン大統領の長期政権によって、上海協力機構 に加盟してロシアや中国 と関係を強化し、アメリカ合衆国 とも友好を築き、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、21世紀 に入ってからは年10パーセントの高成長率を維持しているようである。和平後のマクロ経済成長は順調で負債も順調に返済していたが、2006年 に中国が道路 建設支援を目玉に大規模な借款を行ったために、タジキスタンのマクロ経済指標の状況はアフリカ 諸国並みであり、将来にわたる世界不況に対する不安が残っている。特に、もともと資源・産業の多様性は乏しいうえ、所得の再分配 がうまく機能せず、国民の大多数は年収350ドル未満の生活を送っている。旧ソ連各国の中でも最も貧しい国の一つであるが、近年のロシア経済 の好転により、出稼ぎ 労働者からの送金額が上昇したことから、公式経済データと実体経済との乖離、および出稼ぎ労働者のいない寡婦世帯 における貧困の深化が問題となっている。特に、ロシア語 の話せない村落部出身の男性は、ロシアでの出稼ぎ先では低賃金肉体労働しか選択肢がなく、過酷な労働による死亡、AIDS 若しくは性感染症 の持ち込み、あるいはロシア国内での重婚 による本国家族への送金の停止など、都市部・村落部を問わず社会的問題は単純な貧困を超えた現象となりつつある。
2011年 1月12日 、タジキスタン下院は、中国との国境画定条約を批准し、パミール高原 の約1,000平方キロメートルが中国に割譲されることになった。アフガニスタンへの支援に適している地政学 的重要性からインド が海外初の軍事基地を設置しているほか[ 14] [ 15] 、中国人民解放軍 の駐留基地も存在していることを、米国の『ワシントン・ポスト 』は衛星写真や現地取材などをもとに報じている[ 16] 。
21世紀
ラフモン政権下の同国は自国民の愛国心 を高めるためとして、2007年 、大統領自らペルシア 風の名前に改名すると、ほぼ全ての公務員 が倣ってペルシア風の名前に改名した[ 17] 。また、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語 としての)ロシア語を2009年 に廃止。2016年 には出生届 に関する新法を施行し、産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止している[ 18] 。最近では、テレビ番組 に外国風の衣装 を身に着けたキャラクター を登場させることを禁止するほか、仕事で海外から渡ってきた人間の母語 を含む多言語 の使用にも制限が設けられる事態が起こっている[ 19] 。
このほかには、ソ連の名残を払拭する目的から祝祭 を規制する法律を厳格化したことが挙げられる。新年 を祝うことを禁じ、ヒンドゥー教 のホーリー祭 を祝う行事に参加した若者を「ハラーム に該当する行為」だとして強制的に解散させるといった取り締まりが執行されたほか、学校の卒業パーティーを禁止する方針が固められたり、個人の誕生日を「自宅だけで祝う」ようにさせるなどの措置がとられたりしている[ 20] 。
2018年 7月29日 、首都ドゥシャンベからアフガニスタン国境に向かう道路を南に約150キロメートル下った付近の地域で、観光目的で現地を訪れていた外国人グループが襲撃され4名が死亡する事件が発生した[ 21] 。
キルギスとの国境線は半分近くが確定しておらず、水資源 の奪い合いなどの住民同士のトラブルが国境紛争に発展する危険性をはらんでいる。2021年、2022年には死傷者が生じる軍事衝突が発生した[ 22] [ 23] 。2022年の衝突は両国首脳が参加して行われた上海協力機構 首脳会議の期間中に発生しており、互いに部隊を撤収させることで合意を見たが現地では戦闘は続いた[ 24] 。
2022年10月14日にカザフスタン首都アスタナ で開かれた、ロシアと中央アジア5カ国の首脳会議では、ラフモン大統領がロシア連邦大統領 ウラジーミル・プーチン に、中央アジア諸国を、ソ連時代のように軽視し、属国 のように扱うべきではないと要求する一幕があった[ 25] 。
政治
首都ドゥシャンベにある大統領官邸 「タジキスタンのホワイトハウス 」「タジキスタンのパレ・デ・ナシオン 」の異名を持つ
エモマリ・ラフモン 大統領
政治体制
タジキスタンの政体 は共和制 をとる立憲国家である。現行憲法 は1994年 11月 に採択されたもの。
行政府
タジキスタンの大統領 は国家元首 として強大な権限を憲法により保障されており、国民の直接選挙で選出される。大統領は首相 を任命する。副大統領 (英語版 ) 職は1992年 に廃止されている。大統領の任期は7年だが、2016年の国民投票で、現職のラフモン大統領に限り任期制限が撤廃される憲法改正案が承認された[ 26] 。
内閣 に相当する閣僚評議会 のメンバーは、最高会議 の承認のもとに大統領が任命する。
立法府
立法府 は二院制 の最高会議 (マジリシ・オリ)で、国民議会 (上院 、マジリシ・ミリー)と人民代表議会 (下院 、マジリシ・ナモヤンダゴン)で構成される。国民議会は33議席で、うち25議席は地方議会による選出枠、残りは大統領が任命する。人民代表議会は63議席で、そのうち41議席は小選挙区制 、22議席は比例代表制 で選出される。両院とも任期は5年。
2015年 3月1日 には下院選挙が行われた[ 27] 。
政党
主要政党 には大統領エモマリ・ラフモン (2007年 4月14日 、ラフモノフから改名)率いるタジキスタン人民民主党 、旧ソ連時代の政権党であったタジキスタン共産党 、そしてイスラム主義 の宗教 政党タジキスタン・イスラム復興党 の3つがある。この3党は、比例代表制での5%障壁を超えることができた。タジキスタン人民民主党以外は野党つまり反政府派であり、当初の和平協定では反政府派に政府閣僚級ポストの5%が所定枠として当てられ、「民主的国家」を目指すことになっていたが、2006年11月の大統領選挙で現大統領が再選すると野党反政府派は主要ポストからほぼ退かされた状況にある。
司法
最高司法 機関は最高裁判所 で、その裁判官は大統領が任命する。
国際関係
タジキスタンは欧州安全保障協力機構 の加盟国の一つとなっている。
2020年 4月30日 に下院は、今後出生届 にロシア風の姓やミドルネーム を禁止する改正案を可決した[ 28] 。
日本との関係
タジキスタン大使館全景
タジキスタン大使館表札プレート
軍事
地理
タジキスタンの地図
タジキスタンの山々
国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高 3,000メートル以上であり、中国との国境 に至る東部は7,000メートル級に達するパミール高原 の一部である。砂漠 地帯も存在するが、先に述べたように山岳地帯が多くの割合を占めている点から他の中央アジア各国とは異なり、砂漠地帯特有の自然災害などは発生していない。
首都のドゥシャンベの標高は700 - 800メートルほどとそれほど高くなく、北西部のフェルガナ盆地 は標高300 - 500メートル前後と最も低くなっており、ウズベキスタン、キルギスと入り組んで国境を接している。
一方、パミール地方のゴルノ・バダフシャン自治州 の州都ホログ は標高2,000メートルを超す。最高峰はイスモイル・ソモニ峰 (7,495メートル)、次いでレーニン峰 (7,130メートル)、コルジェネフスカヤ峰 (英語版 ) (7,105メートル)と3つの7,000メートル級の山がある。主要河川は、アムダリヤ川 、ヴァフシュ川 、パンジ川 、バルタン川 (英語版 ) 、ザラフシャン川 (旧ソグド川)。
気候
ケッペンの気候区分で見たタジキスタンの地図1
ケッペンの気候区分で見たタジキスタンの地図2
タジキスタンの気候は大陸性、亜熱帯性、半乾燥性といった3種類の異なる気候が一つに纏まった状態となっている。また、標高によって気候が大きく変化する特徴を持ち合わせている。
フェルガナ盆地やその他の低地は、山岳によって北極 からの気団 の影響を受けずにいるが、その反面でこの地域の気温は年間100日以上が氷点下 となる。平均気温が最も高い南西部の低地は、亜熱帯性の気候である為に乾燥しているが、一部の地域が現在、農業のために灌漑 されている。
水系
国土の約2%が湖 や池沼 で占められている。最もよく知られているのはカラクル湖 やイスカンデルクル湖 (英語版 ) 、クリカロン湖 (英語版 ) 、サレス湖 (英語版 ) 、シャダウ湖 (英語版 ) 、ゾルクル湖 (英語版 ) の6つの湖と、カイラックム貯水池 (英語版 、ロシア語版 ) 、ヌレック貯水池の2つの貯水池 である。また氷河 も存在していて、その数は10000を超えるほどに多い。代表的な氷河にはフェドチェンコ氷河 が挙げられる[ 29] 。
生態系
タジキスタンには5ヶ所の陸生生態地域が存在する。アライ・西天山草原 (英語版 ) 、ギサロ・アライの開放森林地 (英語版 ) 、パミール高山砂漠・ツンドラ地域 (英語版 ) 、バドギズ・カラビル半砂漠 (英語版 ) 、パロパミサス乾燥森林地 (英語版 ) がこれに該当する。
環境問題
タジキスタンの環境問題のほとんどは、ソ連時代に課せられた農業政策に関連している。鉱物肥料 と農薬 の大量使用は、同国の土壌汚染 の主な原因として1991年までに問題視されていた。
タジキスタンの地震
地方行政区分
タジキスタンの行政区画
地方は3つの州と1つの自治州に分けられる。すなわち、共和国直轄地 (首都ドゥシャンベ を含む)、南部のハトロン州 (州都ボクタール )、北部フェルガナ 盆地方面のソグド州 (州都ホジェンド )の2州と、東部パミール高原のゴルノ・バダフシャン自治州 (州都ホログ )である。
州より下の行政単位は、行政郡(nohiya)- 地区(jamoat)- 村(deha)あるいは集落地が一般的であり、行政郡の中心部に市(shahrak)を置くこともある。ただし、地方の大きな都市は独立した行政単位であり、特に首都のドゥシャンベは非常に権限の強い行政単位である。ドゥシャンベの内部は区(nohiya)が置かれ、住民自治の一端を担っている。
主要都市
その他の主要都市はパンジケント 、ガルム 、クリャーブ などがある。
経済
色と面積で示したタジキスタンの輸出品目
首都ドゥシャンベ
首都ドゥシャンベは西の平野部に位置する
タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しいが、タジキスタン内戦 終結後の経済発展は著しく、2000年から2004年のGDP成長率は9.6%に達した。主要歳入源はアルミニウム 生産、綿花 栽培、国外出稼ぎ 労働者からの送金である。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金し、その額は2016年時点、国内総生産 (GDP)の3分の1にあたる。国営Talco社が世界的規模のアルミ精錬を行っている。おもにロシアなど国外での安い労働力提供で得られる仕送りはGDPの36%を超え、貧困層を多く抱えるタジキスタンにとって重要な収入である。
一方、2006年には麻薬 押収量世界3位だった。ただし、アフガニスタンからロシアなどへの移送取締りを国連などの協力で実施したため、その効果は上がっているという。アフガニスタン国境の橋が米国により建設されるなどインフラストラクチュア 整備が少しずつ進んでいる。
なお、タジキスタンは2013年から世界貿易機関 (WTO)に加盟している。傍ら、中央アジア地域経済協力機構 (英語版 ) (CAREC)の加盟国ともなっており、中央アジア内の4つの共和国と同様に経済協力機構 や上海協力機構 など幾つかの国際機関へ加入している。
通貨はソモニ である。
2038年より、新紙幣の発行が計画されているが、現軍事紛争の継続により、安易に貨幣変更ができない状況となっている。
農業
穀物 では小麦 や米 が栽培されている。農産物の中で重きを置かれているのは、ソ連時代から栽培されている綿花であり、ソ連全体でも綿花栽培の重要地域の一つだった。ソ連崩壊後から状況が一転し、近年では農業改革によって作付けの農作物を自由に選べるようになっていることも加わり、栽培の割合が減少傾向にある。作付面積はソ連時代と比べると60%強ほどである[ 30] 。
鉱業
アンチモン 鉱を2002年時点で3,000トン採鉱した。これは世界第4位であり、世界シェア2.1%に相当する。この他、金 、銀 、水銀 (20トン、世界シェア1.1%)、鉛 を産する。有機鉱物資源は亜炭 、原油 、天然ガス とも産出するが量は多くない。ウラン 鉱も存在する。天然ガスはサリカミシュ・ガス田 (英語版 ) から産出されている。
エネルギー
タジキスタンのエネルギー 供給は、世界一高いヌレークダム や中央アジア - 南アジア電力供給計画 (英語版 ) の一環として設計され近年完成間近であるサングトゥーダ・ダム などで行っている水力発電 に完全に依存している。水が足りなくなる冬季には、首都では都市セントラルヒーティング 用のボイラーを使った小さな火力発電所 しかない。その他には、ザラフシャン川 などに大規模ダムなどを作らず、夏季に安定した水供給を約束する見返りとして、冬季にウズベキスタンやトルクメニスタンから電力を輸入している。7,000メートルを超える高山、深い谷と急流、比較的雨量の多い地中海性気候という条件下、年間発電量144億kW/h(2001年)のうち、97.7%を水力発電で賄っている。
安価で大量の電力生産は精錬 に膨大な電力を必要とするアルミニウム 工業を発達させるためであり、生産量は世界シェアの1.2%に当たる31万トンに達するが、原料となるボーキサイト はウクライナ などの外国からの輸入に頼っている。輸出金額に占めるアルミニウムの割合は53.7%にも達するが、その利権の全てがタジク国内にあるわけではない。
交通
鉄道
科学技術
タジキスタンでは科学技術 が急速に発展しつつある。科学開発は、2030年までの国家開発戦略において優先事項とされており、実施期間を5年間かつ3段階に分けて進められている。
その主な目標は、エネルギーの確保、電気通信と輸送における開発計画、食料安全保障政策の保証ならび生産的な雇用を拡大することである[ 31] [ 32] 。
国民
タジキスタンにおける人間開発指数ならび指標の傾向(1970年~2010年)
民族
タジク人の子供たち
主な民族 はタジク人、ウズベク人、ロシア人など。タジク人の話すタジク語 はペルシア語 に近く、方言の一種とされる。民族的にはイラン人 に近いと考えられるが、タジク人を含めたタジキスタンのムスリム (イスラム教徒)の間ではスンナ派 が多数を占め、イラン・イスラーム共和国 の国教 と同じシーア派 の十二イマーム派 の信徒はほとんどいない。むしろ、東部のパミール高原ではシーア派のイスマーイール派 の信徒が大部分を占め、パキスタン 北部と同様に寛容と自由に溢れるイスラム文化を築いている。
人名はソ連時代の名残りでロシア語風の姓が多く見受けられるが、2009年からロシア語が公用語での使用を廃止されるに至り、現在はロシア式の接尾辞を取り去った形のタジク語風の姓名あるいはタジク語そのものの姓名を用いる世帯 が増加しつつある[ 注釈 1] 。
タジキスタンの人口比率は2010年センサスの時点で、タジク人 (84.3%)が多数を占める。ウズベク人 (13.8%)、キルギス人(0.8%)、ロシア人(0.5%)が次ぐ。
同国は中央アジア諸国で人口が最も急速に増加[ 注釈 2] しているものの、人間開発指数 では同エリア内の共和国の中で最下位[ 注釈 3] となっている[ 33] 。なお、ロシア人人口は1959年に全人口の13.3%、ソ連からの独立前の1989年時点では7.6%を占めていたが、1990年代の内戦により大部分が流出し2010年には0.5%にまで低下した。
言語
チュルク系 の言語が使われている中央アジアの中では唯一、住民の大多数の母語がペルシア語 方言のタジク語 であり、公用語 となっている。帝政ロシアからソ連時代にかけて共通語であったロシア語 は第二言語 として教育・ビジネスなどで多く使用されている。ただし、2009年 10月から国語法が成立し、公文書や看板、新聞はタジク語を用いることを義務づけられた[ 34] 。それにともない、違反者には罰金が科される。
ソビエト連邦の崩壊 後に起きたタジキスタン内戦 によるロシア人の大量流出によりロシア語の通用度が急激に低くなったが、現在では出稼ぎ先の大半はロシアであることと、高等教育にはロシア語習得が不可欠であることから、ロシア語教育も重要視されつつあり[ 34] 、国民の間ではロシア語学習熱が強い。また、独立後にトルコ語 系のウズベク語 やトルクメン語 がキリル文字 からラテン文字 へ変わったが、ペルシャ語 系のタジク語はキリル文字のままである。なお、ペルシャ文字 風のキリル文字表記もみられ、ペルシャ文字への表記への移行も議論されている。
また、他にウズベク語、キルギス語、コワール語 、シュグニー語 、パミール諸語 、ヤグノブ語 なども使われている。
宗教
タジキスタン国民の多くはムスリム であり、スンナ派 が大半を占める。また、歴史的にペルシャ との結びつきが強く、哲学者 イブン・スィーナー などのペルシャ人 は尊敬されている。その他、ダルヴァーズ郡、ヴァンジ郡ならびにムルガーブ郡を除くゴルノ・バダフシャン自治州 では、服装・戒律ともきわめて緩やかで、開放的なシーア派 のイスマーイール派 が大多数を占める。イスマーイール派のリーダーは「アーガー・ハーン」の称号を用い、宗教的指導者よりも精神的・思想的指導者としての面が強く、国境をまたいだアフガニスタンとタジキスタンのイスマーイール派の居住する地域と周辺部では、ビジネスおよび人道的支援の両面にわたる社会的事業を展開している。
2003年の推計では国民の85%がスンナ派 ムスリム、5%がシーア派 ムスリム、10%がその他であった[ 35] 。
婚姻
教育
タジキスタンは旧ソ連時代から続く無料教育制度により、国家の貧困状態にも拘わらず識字率 の高さを保持している。2011年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は99.7%(男性:99.8%、女性:99.6%)である[ 35] 。2011年の教育 支出はGDPの3.9%だった[ 35] 。
教育制度は11-4制で、初等・中等教育(6歳~17歳)が義務教育 である[ 36] 。後期中等教育にはリツェイ(8~11年生)が該当する[ 36] 。大学は4年制[ 36] 。全ての教育機関は教育科学省の管轄下にある(農業大学や芸術大学など例外あり)[ 36] 。外国語教育として、義務教育1年生からロシア語が必修であり、4年生以降は第二外国語(英語、ドイツ語、フランス語など)を学習する[ 36] 。
保健
治安
タジキスタンの治安は最近良くなりつつある傾向を見せているものの、政治や経済が安定しておらず、貧困層による富裕層を狙った窃盗 や強盗 など金銭的な犯罪が多発している。
同国の統計資料によると、2020年の犯罪認知件数は23,460件(前年比106.7%)と2019年と比べ増加している。中でも、金品などの窃取を目的とした犯罪(窃盗:前年比15.9%増、侵入盗:同25.1%)は大きく増加しており、その背景には他国への出稼ぎ労働が深く関わっている[ 注釈 4] 。2020年からの新型コロナウイルス感染症の世界的感染拡大により、労働移民による送金額が大幅に減少するとともに、経済格差や物価が上昇したこと(2020年:前年比7%増)が挙げられている[ 37] 。
なお、外国人は旅行者を含めて多額の現金を所持していると捉えられており、犯罪者に狙われ易い傾向にあることから、多くの人が集まるバザール 、観光地 、空港 、駅 周辺などでは外国人を狙ったスリ やひったくり 被害が発生している。
一方、1998年7月に秋野元国連タジキスタン監視団(UNMOT)政務官他が殉職して以来、テロによる日本人・日本権益を直接標的としたテロ事件の被害は確認されていないものの近年、単独犯によるテロや一般市民が多く集まる公共交通機関など(ソフトターゲット)を標的としたテロが世界各地で頻発する他、爆弾テロなどの発生も後を絶たない為、テロの発生を予測し未然に防ぐことがますます困難となっている。
人権
マスコミ
文化
イド・アル=フィトル を祝うタジク人家族
タジキスタンの文化は、ウズベキスタンの文化 と同根であるが、ソビエト時代の共産政権下においては地域の文化組織は崩壊し、ウズベキスタンの文化とは分断された。しかし、このことはすべて悪い結果をもたらしたわけではなく、ソビエト時代には、タジキスタンは劇場 と有名な小説家 を輩出することにより知られていた。これらタジク知識人 士は、タジク語とアラビア語 ・ペルシャ語 との関連性を調節し、タジク語をより洗練されたものにした。
食文化
文学
音楽
映画
被服
伝統的な民族衣装を身に纏ったタジク人
建築
世界遺産
タジキスタン国内には、UNESCO の世界遺産 リストに登録された文化遺産 が1件、自然遺産 が1件存在する。
祝祭日
スポーツ
サッカー
タジキスタン国内ではサッカー が最も人気のスポーツ となっており、1992年 にサッカーリーグのタジク・リーグ が創設された。FCイスティクロル・ドゥシャンベ が圧倒的な強さを誇っており、2023年にはリーグ10連覇を達成している。
タジキスタンサッカー連盟 (TFF)によって構成されるサッカータジキスタン代表 は、これまでFIFAワールドカップ には未出場である。AFCアジアカップ には2023年大会 で初出場を果たし、ベスト8の成績を収めた[ 38] 。
著名な出身者
脚注
注釈
^ ラフモン大統領の姓はタジク語風に変更したものであり、2007年以前まではロシア語風の「ラフモノフ」と名乗っていた。
^ 2014年時点では 2.42%
^ 2013年時点では 133位
^ タジキスタンは主にロシアで働く労働移民からの国外送金に依存する国家の一つであり、2019年の国外からの送金額はタジキスタンのGDPの約3分の1であった。
出典
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関連項目
外部リンク
政府
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その他
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