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青函連絡船 十和田丸 函館駅到着後、航送車入換中の風景 (函館駅 1987年)
鉄道連絡船 (てつどうれんらくせん、英語 : Train ferryまたはrailway ferry )は、鉄道 輸送において、本土・離島連絡など海洋 、湖沼 などの水面によって隔絶され鉄道軌道 を設置することが困難である場合に、両端を連絡する目的で当該水面上に設けられた航路 に就航する船 である。当該航路自体をさすこともある。
広義には、鉄道会社 ないしは、その関連会社が管理・運航するものを指し、狭義には、鉄道輸送と一体となって効率的な輸送を行うために、鉄道軌道を船内に設置した船舶(車載客船 、車両渡船 )を特に建造して鉄道車両 を輸送するものをいう。世界的には、車両航送を行うものを指してtrain ferryと呼ぶことが多い。また日本では、旧国鉄 が運航した航路全般を指すことが多い。過去の海難事故 より、車載客船は、自動車用フェリー (カーフェリー)同様の安全装備、接客設備等が義務づけられる。
車載客船では、並行して自動車航送 を行っている場合が多い。日本でも宮島連絡船 が自動車航送を行っており、過去の青函連絡船 、大島連絡船 でも行っていた。
なお、アメリカ合衆国 では、1950年代 まで鉄道連絡船のことをカーフェリーと称していた。今日ではカーフェリーという言葉では日本と同じく自動車用のフェリーを指す。
歴史
1833年にイギリス 、スコットランド のモンクランド・アンド・キルキンティロック鉄道 (Monkland and Kirkintilloch Railway ) がフォース・アンド・クライド運河 (Forth and Clyde Canal ) で車両を搭載する船を運航した[1] 。1836年4月にはアメリカで最初の鉄道連絡船、サスケハナ号(the Susquehanna)がメリーランド州 のハバディグレイス とペリービル (Perryville ) の間のサスケハナ川 に就航した[1] 。
最初の近代的な設計のフェリーであるリバイアサン号 (the Leviathan) は、1849年にトーマス・グレンジャー (Thomas Grainger) により、スコットランドのグラントン (Granton ) とバーンティスランド (Burntisland ) の間でフォース湾 を横断するためにエジンバラ・パース・アンド・ダンディー鉄道 (Edinburgh, Perth and Dundee Railway) 向けに設計された。この連絡船は、鉄橋が建設されるまでの一時的な連絡手段として考えられていたが、トーマス・バウチ (Thomas Bouch ) が設計したテイ橋 の崩落事故の影響を受けて建設が遅れ、開通したのは1890年のことになった。バウチはまた、連絡船への積み込み機構の設計も行っている[1] 。
車両航送
車両を搭載している鉄道連絡船がミシガン州デトロイトの桟橋に接近している様子、1943年4月
車両航送船の車両甲板の一例 (青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 展示。なお、この写真に写っている車両の種別についてはテーマ展示目的のもので、現役当時を再現したものではない)
車両航送とは鉄道連絡船において航路を挟んだ鉄道同士の輸送を円滑に行うために鉄道車両ごと連絡船を使用して運搬する方法のことである。このためには、船体(甲板)に軌道を有した船を使用し、また岸壁では船に接岸する際に軌道を連絡させるように「角折れ」に対応した特殊な桟橋を使用するなど、高度な技術を持つ必要がある。ヨーロッパ の例では、自動車航送 を並行するために車両甲板を鉄道、自動車併用にしている例もある(日本では別途設置されていた)。
しかし、鉄道車両ごと乗客・貨物の移動が可能であることから、貨物については積み込み作業の効率化に繋がり、旅客の場合、列車と船の乗り換えや手荷物の移動などの手間が省ける。鉄道車両の航送を行う船舶のことを車両渡船 と呼び、車両渡船のうち、旅客設備のあるものは客載車両渡船と呼ぶ。また、客載車両渡船のうち、車両航送よりも旅客輸送に重点をおいたものを車載客船 と呼ぶ。
車両航送は、輸送する車両区別により貨車航送と客車航送とに区分される。
ヨーロッパでは客車航送が現在でも行われているが、日本では1948年 12月 - 1955年 5月11日 までのごく短期間に行われたに過ぎない。当初は、1946年 2月21日 より運行を開始した連合軍専用列車 「1101・1102列車」で開始され、一般の日本人が利用できるようになったのは1950年 の急行列車 「みちのく 」からとされるが、1954年 9月の青函連絡船の洞爺丸事故 、1955年5月11日の宇高連絡船の紫雲丸事故 により、相次いで廃止された。また、カーフェリー でも航海中は車両甲板に立ち入ることが出来なくなった。
貨物輸送については、日本の場合関門連絡船 において始めたのが最初といわれ、後に、青函連絡船 ・宇高連絡船 まで拡大、共に通常運行終了まで行われた。これは、旅客とは異なり鉄道貨物の場合、鉄道事業者である国営 ・公社 であった日本国有鉄道 のみが独占的に取扱ってきたことや、郵便物 の輸送等で、輸送量そのものが本土四島を結ぶため膨大であったことが挙げられる。
船の構造
宇高連絡船伊予丸で航送されてきたキハ185系(1986年、高松駅)
車両航送に用いる鉄道連絡船では、船の中のあるデッキ(車両甲板)に線路 が敷かれており、前部または後部またはその両方に扉を備えており、桟橋 と接続して車両の出し入れができるようになっている。桟橋には可動橋 が備えられており、潮の満ち引きにより水位が上昇・下降するのに合わせて適切に地上の線路と船を接続するようになっている。
通常の船の甲板や船倉に鉄道車両を搭載することもできるが、専用に建造された鉄道連絡船は車両の積み降ろしがより速くでき、何両もの車両を一度に積み降ろせるという利点がある。
事故
ノルウェー の1965年 に建造された鉄道連絡船、スカゲラック号(Skagerak)は、1966年 9月7日 にノルウェーのクリスチャンサン とデンマーク のヒァツハルス (Hirtshals ) を結ぶ航海の途中に、荒れた海によって後ろ側の車両甲板扉を破壊された後、強風によって沈没した。1人の乗客が負傷が元で後に死亡し、6両の貨車 と多数の自動車 が船と共に海に沈んだ。
同様の事故は、1970年 4月19日 に、ケープ・ブレトン島 の北東岸沖で沈んだトロール船 の捜索救難活動に参加していたカナダ の鉄道連絡船パトリック・モリス号(Patrick Morris)が沈んだ際にも起きている。9メートルを超える波により後部扉をもぎ取られて、船体を守るために位置を維持しようとしているところであった。30分以内に沈没して何両かの車両と4人の乗務員がカボット海峡 の底へと沈んだ。生存者は47人であった。
日本の洞爺丸事故 では、車両甲板扉自体を設置しておらず、ここから海水が船内に浸入した。浸入した海水は船の復原力 を奪うほどの量ではなかったものの、漏水で機関が停止して操船が不可能になり、暴風雨の中で沈没につながることとなった。
鉄道連絡船は鉄道車両をレール に載せたまま輸送するという特性に関連した以下のような弱点を持っている。
鉄道車両を喫水線より高い位置に搭載するため、重心 が上昇しトップヘビーになる。
車両甲板を細かく区切ることは困難であるため、侵入した水が動き回って船を不安定にする。
車両を出し入れする部分の扉は、船の最後尾に置かれたとしても弱点となる。
時化た海を航海する際には特に、鉄道車両が中で転覆してしまわないように、車両を強く固定しておかなければならない。
ミシガン州 のアン・アーバー鉄道 (Ann Arbor Railroad ) が、他の多くの会社でも採用された車両固定方法を開発した。スクリュージャッキが貨車の四隅に据え付けられ、貨車を若干持ち上げて車輪に掛かる荷重を減らす。チェーンとターンバックルで車両の台枠 とレールが結ばれてきつく締められる。さらに輪止めを車輪にかます。担当の甲板員が航海中常に点検を行い、ターンバックルを締めなおす。この方法により、荒天下でも車両を効果的に固定しておくことができた。
五大湖 では、SSミルウォーキー (SS Milwaukee ) 、SSペレ・マルケット18 (SS Pere Marquette 18) 、SSマルケット・アンド・ベッセマー第2(SS Marquette & Bessemer No.2)が失われている。これらの沈没事故は、原因が不確定な点も残るが船の後部の車両搭載口が保護されておらず、激しい嵐により水が浸入したことと関係している。結果として、新造船では搭載口の扉が義務付けられ、古い船にも改造して取り付けることになった。これに加えて、五大湖では木造の鉄道連絡船2隻が火災を起こしている。
可動橋を使って搭載作業を行っている時にも事故が発生している。これは安定性が主な問題点である。鉄道連絡船は、船内の線路の片側に車両を積載していない状態で反対側の線路に重い車両を載せる時にしばしば傾く。標準の搭載作業は、片方の線路にまず半分の車両を搭載し、もう片方の線路に一杯に車両を搭載した後に、最初の線路に残り半分を搭載する。この手順が守られないと、結果は悲惨なものとなることがある。1909年 、SSアン・アーバー第4(SS Ann Arbor No.4)がミシガン州マニスチーク (Manistique ) の桟橋で、左舷側の線路に8両の鉄鉱石を積載した車両を搭載した際に転覆した。乗組員は脱出に成功し無事だったが、引上げ作業は費用も時間も掛かるものとなった。
世界の鉄道連絡船
アルゼンチン
1907年 から1990年 まで9隻の鉄道連絡船が使われてきたが、川を横断する橋が架けられて廃止になった。Lucía Carbó、the María Parera、the Mercedes Lacrozeの3隻は、ブエノスアイレス州 北東部にあるパラナ川 を、Zárate とIbicuyの間で横断していた。1913年 に外輪船 のRoque Saenz PeñaとJavier Ramos Mejíaがミシオネス州 の南西側でやはりパラナ川を横断する航路に加わり、Posadas の港を利用した。1928年 、Delfina Mitre、Dolores de Urquiza、Carmen Avellanedaの3隻が建造されてZárate-Ibicuy間航路の3隻を置き換えた。最初の2隻は貨物船との衝突事故で沈没した。新しい方の3隻のうちの2隻は今でもZárate地方で浮き桟橋として使われており、残りは売却されて艀やスクラップとなった。Posadasの2隻の連絡船はいまでも残っており、うち1隻は内部を鉄道博物館にしている。
これらの8隻の連絡船は、グラスゴー のポイントハウス (Pointhouse) にあるJ.A.イングリス (J.A. Inglis) が建造し、アルゼンチンのEntre Rios Railwaysによって運用された。9番目の連絡船、Tabareはアルゼンチンで1966年 にAstarsa (ASTilleros ARgentinos S.A.) によりブエノスアイレス 南方のラプラタ そばのリオ・サンティアゴ (Rio Santiago) 造船所 で建造された。今でも存在しているが運航されておらず、ブエノスアイレスの古いドック にいる。
オーストラリア
アゼルバイジャン
バングラデシュ
Balashi Ghat - Bahadurabad Ghat間、1,000mmゲージ[4] 。
ボリビア
ペルー との連絡、両側の軌間 は1,435mmと1,000mm。
ブラジル
ブルガリア
カナダ
車両航送艀 (railbarge) は、タグボート が牽く艀 に車両を載せたもので、鉄道連絡船の一種である。
運航中
かつて運航されていた車両航送艀
かつて運航されていた鉄道連絡船
中国
渤海1号
キューバ
キューバとアメリカ合衆国を結ぶカーフェリーや鉄道連絡船は、全て米国の対キューバ禁輸措置 により運航が中断されていた。
両国の国交回復に向けた動きのなかで、2015年5月5日にアメリカ合衆国財務省 はフロリダ とキューバを結ぶフェリー の就航に向け、少なくとも4社の運航会社に事業免許を交付した[7] (キューバの雪解け#渡航・貿易規制の緩和 )。
デンマーク
運航中
廃止
Strib - フレゼリシア — 1872年から1935年まで運航され、リトル・ベルト橋 (Little Belt Bridge ) により置き換えられた。
コセーア (Korsør ) - ナイボルク (Nyborg ) — 1883年から1997年まで運航され、グレート・ベルト橋により置き換えられた。
オーデスン南 (Oddesund Syd) - オーデスン北 (Oddesund Nord) — 1883年から1938年まで運航され、オーデスン橋により置き換えられた。
マスネード (Masnedø ) - Orehoved — 1884年から1937年まで運航され、ストーストレム橋 (Storstrøm Bridge ) により置き換えられた。
Glyngøre - Nykøbing Mors — 1889年から1977年まで運航された。
ヘルシンゲル - スウェーデン、ヘルシンボリ — 1892年から2000年まで運航され、その後カーフェリーのみになった。
コペンハーゲン Frihavn - スウェーデン、マルメ — 1895年から2000年まで運航され、エーレスンド橋 により置き換えられた。
ゲサ (Gedser ) - ドイツ、ヴァーネミュンデ — 1903年から1995年まで運航され、ロストック と結ぶカーフェリーに置き換えられた。
ファーボー (Faaborg ) - モンマルク (Mommark) — 1922年から1962年まで運航された。貨物専用。
Assens - Aarøsund — 1923年から1950年まで運航された。貨物専用、1,000mm狭軌。
スヴェンボー (Svendborg ) - Rudkøbing — 1926年から1962年まで運航された。貨物専用。
Hvalpsund - Sundsøre — 1927年から1969年まで運航され、カーフェリーのみとなった。
スヴェンボー - エーロスキュービン (Ærøskøbing ) — 1931年から1994年まで運航された。貨物専用。
ゲサ - ドイツ、グローセンブローデ・カイ (Großenbrode Kai) — 1951年から1963年まで運航され、ロービュ - プットガルテン航路に置き換えられた。
ヒルツハルス (Hirtshals ) - ノルウェー、クリスチャンサン — 1960年から1991年まで運航された。貨物専用。
コペンハーゲン Frihavn - スウェーデン、ヘルシンボリ — ダンリンク (Danlink) 、1986年から2000年まで運航された。貨物専用。
ロービュ (Rødby ) - ドイツ 、プットガルテン (Puttgarden ) — 1963年から1日6往復の旅客列車を航送、渡り鳥コース 。2019年12月14日をもって運行休止。
エジプト
車両航送をするフェリーではないが、エジプト の1,435mmゲージ区間とスーダン の1,067mmゲージ区間を連絡している。
フィンランド
ドイツ
運航中
ザスニッツ・ムクラン港 (Sassnitz Mukuran) - リトアニア 、クライペダ — 1986年から運航、軌間の差あり、貨物専用。
ザスニッツ・ムクラン港 - ロシア 、バルチースク — 2007年から運航、軌間の差あり、貨物専用。
ザスニッツ・ムクラン港 - ウスチ=ルガ (Ust-Luga ) — 2008年から運航開始予定、軌間の差あり、貨物専用。
プットガルテン - デンマーク、ロービュ — 旅客列車専用、1963年から運航。
ロストック - スウェーデン、トレレボルイ (Trelleborg ) — 1994年から運航、貨物専用。
ザスニッツ・ムクラン港 - スウェーデン、トレレボルイ — 1909年から運航され、貨物列車に加えて1日1便の旅客夜行列車を通している。1998年にザスニッツからムクランに変更された。
廃止
ボン - オーベルカッセル鉄道連絡船
ボーデン湖 — 1869年から1976年まで運航。
ラウエンブルク (Lauenburg ) - ホーンストルフ (Hohnstorf) — エルベ川 、1864年から1878年まで運航。
ケールブラント (Köhlbrand) - ハンブルク — エルベ川、運航開始不明、1974年まで運航。
ヴォルムス - ローゼンガルテン — ライン川 、1870年から1900年まで運航。
ビンゲン・アム・ライン - リューデスハイム・アム・ライン — ライン川、1861年から1900年まで運航。
ボン - オーバーカッセル (Oberkassel ) — ライン川、1870年から1914年まで運航。
ラインハウゼン (Rheinhausen ) — ホッホフェルト (Hochfeld) — ライン川、1866年から1874年まで運航。
ルールオルト (Ruhrort ) - ホムベルク (Homberg) — ライン川、1852年から1912年まで運航。
シュピック (Spyck) (エメリッヒ・アム・ライン (Emmerich am Rhein ) 近郊) - ヴェレ (Welle) (クレーヴェ 近郊) — ライン川、1865年から1912年まで運航。
グローセンブローデ - フェーマルンスント (Fehmarnsund) — 1903年から1963年まで運航。
グローセンブローデ - デンマーク、ゲサ — 1951年から1963年まで運航。
トラーヴェミュンデ - フィンランド、トゥルク — 1975年から2007年まで運航、貨物専用。
トラーヴェミュンデ - スウェーデン、マルメ
ジョージア
アブハジア を迂回してロシアとジョージアを結んでいる。
イラン
イタリア
どちらの航路も、フェッロヴィーエ・デッロ・スタート (イタリア国鉄)の傘下の管理会社RFI(Rete Ferroviaria Italiana )のさらに子会社のBluviaが運航している。現在、本土とシチリア島を結ぶ便は頻繁に定期運航がなされているが、本土とサルデーニャ島を結ぶ便は本数が少なく、実際の交通需要に応じて日々運航されている。
イタリアの鉄道連絡船に関して、非公式のページであるが このページ で詳細を見られる。
日本
#日本の鉄道連絡船 を参照。
リトアニア
クライペダ - ドイツ、ムクラン — 軌間1,520mmと1,435mmを結ぶ、1986年から運航。
メキシコ
ニュージーランド
ノルウェー
かつてティン湖 に1909年から1991年まで鉄道連絡船が運航されており、TinnosbanenとRjukanbanenを結んでいた。リューカン (英語版 ) やノルスク・ハイドロ の重水 工場への貨物を輸送していた。
クリスチャンサン - デンマーク、ヒルツハルス — 1960年から1991年まで運航された。貨物専用。
パラグアイ
アルゼンチン との連絡航路、1985年頃橋に置き換えられた。Encarnacion - Posadas間。
ペルー
チチカカ湖 を経由した車両航送艀がボリビア との間に運航されている。Manco Capac号はペルーの標準軌とボリビアのメーターゲージの両方に対応した三線軌を備えている。ペルー側のPunoとボリビア側のGuaquiから短い区間の三線軌が使われている。車両の積み降ろしはドックで行われている。イギリスが建造した蒸気船Ollanta号はPunoに繋留されており既に運航用には整備されていない。運航を担当するペルー・レイル では、観光客を呼び込むプロジェクトを開始する予定である[9] 。
ロシア
黒海
太平洋
カスピ海
Caspian Shipping Company(Kaspar)は7隻の鉄道連絡船を所有し、さらに2隻を建造している[12] 。#イラン の項目も参照。
バルト海
バルチスク - ドイツ、ザスニッツ・ムクラン — 2006年運航開始。
バルチスク - ウスチ=ルガ
スリランカ
必ずしも鉄道車両航送ではないが、連絡船がインド とスリランカ を狭い海峡を横断して結んでいる。
スーダン
必ずしも鉄道車両航送ではないが、連絡船がエジプトの1,435mm軌間とスーダンの1,067mm軌間の区間をナイル川 経由で結んでいる。
他に、南スーダンの首都のジュバ とウガンダ のパクワチ をナイル川に沿って結ぶ連絡船が運航されている。
スウェーデン
運航中
イースタッド - ポーランド 、シフィノウイシチェ — 1974年から運航。
ヨーテボリ - デンマーク、フレデリクスハウン — 1987年から運航。
トレレボルイ - ドイツ、ロストック — 1996年から運航。
トレレボルイ - ドイツ、ムクラン — 1998年から運航、スカンドラインズ (Scandlines)運航。
ストックホルム - フィンランド、トゥルク
これらの航路は全て貨物列車と、一部では自動車を積載するのみである。ただし、マルメとドイツのベルリン を結ぶ夜行旅客列車がトレレボルイ - ムクランの連絡船を使用している。
廃止
ヘルシンボリ - デンマーク、ヘルシンゲル — 1892年から2000年まで運航。
ヘルシンボリ - デンマーク、コペンハーゲン — 1992年?から2000年まで運航、貨物専用。
マルメ - デンマーク、コペンハーゲン — 1895年から1986年まで運航。
トレレボルイ - ドイツ、ザスニッツ — 1909年から1998年まで運航。
トレレボルイ - ポーランド、グダニスク — 1946年運航。
トレレボルイ - ポーランド、グディニャ — 1947年から1950年まで運航。
トレレボルイ - ポーランド、オドラ・ポート(Odra Port) — 1950年から1954年まで運航。
トレレボルイ - ドイツ、ヴァーネミュンデ — 1948年から1953年まで運航。
ベルクバラ(Bergkvara) - モービーロンガ(Mörbylånga ) — ベルクバラの1,067mm軌間とモービーロンガの891mm軌間を結ぶ標準軌の連絡船、1953年から1955年まで運航された。
カルマル - Färjestaden — 891mm軌間、1957年から1962年まで運航された。
ストックホルム - フィンランド、ナーンタリ — 1967年から1972年まで運航。
マルメ - ドイツ、トラヴェミュンデ — 1980年代半ばから近年まで運航。
タンザニア
#ウガンダ の項目を参照。
トルコ
ボスポラス海峡 — ヨーロッパ 側の、ギリシャ のテッサロニキ やルーマニア のブカレスト からイスタンブール のシルケジ駅 へ来る列車と、アジア 側のハイダルパシャ駅 の間を鉄道連絡船が結んでいる。貨物専用で、旅客は旅客船を使用する。2013年完成予定で進行中のマルマライ プロジェクトにより海底トンネルで連絡船を置き換える予定。
デリンジェ(Derince ) - ウクライナ、Illichivsk — 黒海を横断し軌間の差がある。
ヴァン(Van) - タトヴァン(Tatvan) — ヴァン湖 を横断する鉄道連絡船で、イスタンブール - テヘラン やダマスカス - テヘランの旅客列車が各港から運行されている。荷物車 だけが連絡船に載せられて運ばれており、旅客は乗り換える必要がある。この連絡船は、イスタンブールとシンガポール を結ぶ計画中のアジア横断鉄道 の一部でもある。イスタンブールからカザフスタン への定期貨物列車が運行されている。この鉄道連絡船は、山がちな湖の南岸に沿って鉄道を建設するコストを回避するために運航されているが、交通量が充分増加すれば置き換えられる可能性がある。航路長は96kmで、これに対して北岸を迂回する検討中の鉄道路線は250kmにもなり、山がちな地形を経由することになる。2隻の16両の客車を搭載可能な連絡船がそれぞれ1日3往復している[13] 。
M/F Erdeniz号は貨車を輸送する鉄道連絡船で、カラデニズ・エレーリ とゾングルダック(Zonguldak )を結んでいる。日曜日以外の毎日運航されている。Erdemir Logisticsによる運航。
ウガンダ
ウクライナ
イギリス
アメリカ合衆国
運航中
廃止
日本の鉄道連絡船
日本では、旧日本国有鉄道 が運航した航路を指すことが多い。国鉄が運航した航路には、鉄道間を連絡するために開設した航路の他に、民間鉄道会社が運航していた航路を買収後引き続き運航したものも含まれるため、宮島航路 などの鉄道間連絡という性質が全くない航路や、大島航路 における鉄道路線と自動車路線との繋ぎ連絡航路もあるが、それらも鉄道連絡船と称する。
国鉄時代、すべての船舶は船籍港を東京港 としていたが、分割民営化 後青函航路は函館港 、宇高航路は高松港 、宮島航路は広島港 が船籍港となった。
鉄道車両航送が可能な鉄道車両渡船を就航した本格的な鉄道連絡航路
その他の鉄道連絡航路
鉄道連絡船の多くは、鉄道路線の延長、太平洋戦争敗戦による領土の喪失、トンネル及び橋の完成、利用客の減少などといった理由で廃止されている。
なお現在、稚泊航路に相当する稚内 - コルサコフ 間には北海道サハリン航路が、関釜航路に相当する下関 - 釜山間には関釜フェリー が、博釜航路に相当する博多 - 釜山間にはカメリアライン 、JR九州高速船 の「ビートル 」、韓国 の未来高速の「コビー 」が運航されている。
また青函フェリー ・宇高国道フェリー (2012年10月17日の運航を以って運休)などのように、国鉄 - JRによる航路が廃止された後でも、同区間に車輸送や地元の便を図った民間の航路が存在する区間は数多く存在する。しかし、これら路線は広大な車両待機所を確保するために、港の位置が鉄道の駅から離れていることが多く、鉄道連絡船とは言いがたい。
鉄道連絡船とはみなされない航路
観光色の強い箱根海賊船 の場合は、歴史的経緯などにより、通常は鉄道連絡船とは見なされない。
同じように、鉄道事業者 の系列・非系列問わず、鉄道路線と連携する形で対岸の観光地 などへ航路を運行している例は幾つかみられ、航路によっては当該鉄道路線との連絡運輸を結んでいる例も存在しているが、自動車航送を実施している後述の航路を除いては、鉄道連絡船とみなされないのが一般的である。
現在の日本の鉄道連絡船
利用可能な区間は下記である。
提案中の鉄道連絡船
アジア横断鉄道の構想ではいくつかの鉄道連絡船が含まれている。
連水鉄道
鉄道連絡船の反対が連水鉄道(ポーテッジ・レールウェイ、portage railway )である。鉄道連絡船が陸路のない場所を結ぶのに対して、連水鉄道は川や海などの航海可能な場所がないところを鉄道で代行するものである。例えば、パナマ運河 ができるまでの間パナマ地峡鉄道 が大西洋 と太平洋 を結ぶ役割を果たしていた。
脚注
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、
鉄道連絡船 に関連するカテゴリがあります。
外部リンク