樺山 資紀(かばやま すけのり、天保8年11月12日(1837年12月9日) - 大正11年(1922年)2月8日[1])は、日本の海軍軍人、政治家[2]。階級は海軍大将、陸軍少将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。薩摩藩士・橋口家の三男、政治的な問題により樺山家の養子になる。
警視総監(第3代)、海軍大臣(第2代)、海軍軍令部長(第6代)、台湾総督(初代)、枢密顧問官、内務大臣(第15代)、文部大臣(第14代)を歴任した。
生涯
薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場(高見馬場方限)に薩摩藩士・橋口家の三男に生まれ、覚之進と名づけられ育てられる。のちに同藩士、樺山の養子となる。
薩英戦争・戊辰戦争に従軍の後、明治4年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治5年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。西南戦争では熊本鎮台司令長官・谷干城少将の下、同鎮台参謀長として熊本城を負傷しつつも死守する。
治癒後も転戦して軍功を重ね明治11年(1878年)に大佐、明治14年(1881年)には警視総監兼陸軍少将に昇進した。その後は、西郷従道の引きで海軍へ転じ、明治16年(1883年)に海軍大輔[3]、同19年(1886年)には海軍次官となる。
国政では明治23年(1890年)から同25年(1892年)にかけての第1次山縣内閣と第1次松方内閣で海軍大臣をつとめる。第2回帝国議会(1891年11月21日召集)において、政府提出の軍艦建造案が「海軍部内の腐敗が粛清されなければ予算は認められない」と否決されると激昂、「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」と、薩長藩閥政府の正当性と民党の主張する「経費節減」「民力休養」を批判する趣旨の発言(いわゆる「蛮勇演説」)を行う。民党の反発により議場は騒然となり、予算は不成立となった。
日清戦争直前に海軍軍令部長に就任する。明治28年(1895年)に海軍大将に昇進する。同年5月10日、初代台湾総督に就任、台北に総督府を開庁する。
その後も枢密顧問官、第2次松方内閣で内務大臣、第2次山縣内閣で文部大臣を歴任した。なお、第2次松方内閣の内務大臣であった明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会委員長に就任している。
明治38年(1905年)11月20日に後備役となり[4]、同43年(1910年)11月20日に退役した[5]。大正11年2月8日薨去。享年84。
逸話
樺山がまだ生家の姓を名乗り橋口覚之進だった頃、同じ薩摩藩の指宿藤次郎が見廻組に殺された。お付きだった若侍は逃げ出したが葬儀に列席すると、橋口に焼香を一番先にするよう促され、遺体に近づいたところ橋口に首をはねられた。薩摩に伝わる郷中教育では卑怯が最も嫌われるため、この行為は周囲も納得の振る舞いだった[6][7]。
日清戦争中、「西京丸」に乗艦した[注釈 1]が、商船を改造した急ごしらえの船艇のため他の艦より取り残され、清の艦隊に狙い撃ちをされそうになった。この時、敵の旗艦へ突込み敵僚船が砲撃し難いようにし反転して逃げ切った[注釈 2]。
第2次松方内閣[注釈 3]時に、大東義徹、犬養毅、尾崎行雄らが、宮内省の腐敗などを批判した雑誌『26世紀』[注釈 4]の発行を停止させないように樺山に念押しをしに行った際、樺山は自分の首を叩きながら「これが飛んでも、発行停止などはしない、一度諸君に約束をした以上は、断じてそんなことはない」と言った[8]が、結局、政府は同誌を発行禁止にした(26世紀事件)。これに関して尾崎が問い詰めたところ、樺山は言葉少なく申し開きのようなことをしただけだった[9]。
1907年(明治40年)、樺山が指宿温泉を訪れた際、西郷隆盛が1874年(明治7年)旧暦12月27日から約1ヶ月間にわたり鰻温泉の福村市左衛門宅に長期滞在したことについて、福村の妻と長男から依頼を受けてその経緯を聞き書きし「樺山資紀文書」として残した[10]。この文書には西郷が鰻温泉に逗留していた時の様子や江藤新平の訪問等が記されている[10]。
晩年に脳溢血で倒れ1週間意識が無かった。当時かなりの高齢であるため、半ば諦めて皆が葬式の準備を始めたところ、むっくりと布団から身を起こしたという。この後遺症で右半身に少し麻痺が残ったが、(脳溢血が軽度であったため)リハビリもせず快復できたといわれる[要出典]。その後、食道癌を併発し、再び脳出血を起こした翌日に死去した[11]。
日本統治時代の台北市には初代台湾総督の樺山に由来する樺山町があった[12]。第二次世界大戦後に北京語で同じ発音の「華山」に改称されている[要出典]。
麹町区永田町にあった自邸はジョサイア・コンドル設計による洋館で、1930年に串田孫一の父・串田萬蔵に売り、のちに吉田茂の手に渡り、その後、参議院第二別館となった[13][14]。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
親族
著作等
〈樺山資紀関係文書〉(その2)> 書類 > 日清戦争関係・台湾総督時代 > その他。
- 樺山資紀(鹿児島県人在京有志者総代)『島津忠重公の海軍兵学校入学に当り島津斉彬公の肖像贈呈の挨拶』1枚、墨書、1904年(明治37年)11月10日、doi:10.11501/11898823。〈樺山資紀関係文書〉(その2)> 書類 > 日清戦争関係・台湾総督時代 > 電報・公信類。
樺山資紀関係文書(その2)> 書類 > 鹿児島関係 > 島津家。
、書写(自筆)、書写年不明[34]。
関連資料
本文の典拠ではないもの。発行年順。
脚注
注釈
- ^ 連合艦隊司令長官の伊東祐亨が慎重な性格であることを案じて督戦に行ったとされる[要出典]。
- ^ いわゆる「前退戦法」。
- ^ 第2次松方内閣の任期は、1896年(明治29年)9月18日–1898年(明治31年)1月12日)。
- ^ 『26世紀』の編集長であった高橋健三が内閣書記官長に就任しており、同誌の発売禁止が内閣と内務省の対立を引き起こすことが危惧されていた。
出典
参考文献
本文の典拠、主な執筆者の順。
- 大植四郎 編『明治過去帳』(新訂初版)東京美術、1971年、587頁。 (原著私家版1935年)
- 伊佐秀雄「二 松隈内閣の下で」『尾崎行雄』吉川弘文館〈人物叢書第48〉、1960年、105-108頁。doi:10.11501/2986622。全国書誌番号:60009284。 コマ番号0063.jp2-、公開範囲は国立国会図書館限定。
- 白洲正子『日本の伝統美を訪ねて』河出書房新社、2001年、214頁。
- 白洲正子「麹町区永田町一丁目十七番地」『白洲正子自伝』新潮社、[要ページ番号]頁。
- 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』吉川弘文館、2010年、96頁。
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