内海 忠勝(うつみ ただかつ、天保14年8月19日(1843年9月12日) - 明治38年(1905年)1月20日[1])は、日本の武士、官僚、政治家。内務大臣(第16代)、長崎県令、三重県令、兵庫県知事(第9代)、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)、会計検査院長、貴族院議員などを歴任。吉田治助の四男。長州藩士である。従三位勲三等、死後に従二位勲一等旭日大綬章。男爵。
生涯
周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市)出身。長州藩士として禁門の変に参加。維新後新政府に登用され、岩倉使節団に大使随行員として参加。地方官として長崎、三重、兵庫、長野、神奈川、大阪、京都の各県令・知事を歴任。1901年、第1次桂内閣で内務大臣に就任し初入閣を果たした。
1899年(明治32年)11月29日、貴族院議員に勅選され[2]、1900年(明治33年)3月19日まで在任[2]。1904年(明治37年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し[3]、死去するまで在任した[1][4]。
山口市に「内海忠勝顕彰碑」が建立されている。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』65頁。
- ^ a b 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、13頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 『太政官日誌』明治6年、第154号
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1891年6月30日。
- ^ 『官報』第5141号「叙任及辞令」1900年8月21日。
- ^ 『官報』第6467号「叙任及辞令」1905年1月23日。
- ^ 『官報』第544号「賞勲叙任」1885年4月28日。
- ^ 『官報』第1476号「叙任及辞令」1888年6月2日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
- ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
- ^ 『官報』第2545号「叙任及辞令」1891年12月22日。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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