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水町 袈裟六(みずまち けさろく、元治元年3月11日(1864年4月16日) - 1934年(昭和9年)7月10日)は、日本の官僚。大蔵次官、英仏駐在財務官、日本銀行副総裁、会計検査院長、枢密顧問官を歴任。横浜正金銀行頭取。法政大学総長。
生涯
佐賀藩士水町邦実の次男として生まれる。水町家は佐賀藩の重臣の家系。佐賀変則中学校、大学予備門を経て、1891年に帝国大学法科大学(現東京大学法学部)を卒業後、同年大蔵省(現在の財務省)に入省。
理財局長、大蔵次官、1908年から英仏駐在財務官を歴任する。1911年に大蔵省を退官して日本銀行副総裁に就任した(1919年まで)。1913年には横浜正金銀行(現三菱UFJ銀行)の頭取も兼任している。日銀副総裁を退任した後は、会計検査院長(1924年 - 1929年)も務め、明治、大正期の金融財政のプロフェッショナル、国家財政の重鎮として活躍した。
その功績が認められて、1929年には枢密顧問官に抜擢され、晩年は法政大学の総長として逝去するまで務めた。なお、母校の東京帝国大学から法学博士の学位を受けている。墓所は港区賢崇寺。
長女の壽賀は駒井重次の妻、次女の鶴は荒井静雄(荒井賢太郎の長男)の妻、四女の稜は濱口巌根の妻[1]。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
脚注
- ^ 『人事興信録 9版』人事興信所、1931年、ミ59頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「水町袈裟六」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178700
- ^ 『官報』第2816号「叙任及辞令」1892年11月15日。
- ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第4943号「叙任及辞令」1899年12月21日。
- ^ 『官報』第5710号「叙任及辞令」1902年7月17日。
- ^ 『官報』第6291号「叙任及辞令」1904年6月21日。
- ^ 『官報』第7209号「叙任及辞令」1907年7月11日。
- ^ 『官報』第8424号「叙任及辞令」1911年7月21日。
- ^ 『官報』第106号「叙任及辞令」1927年5月10日。
- ^ 『官報』第1016号「叙任及辞令」1930年5月22日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
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