荒川 義太郎(あらかわ よしたろう、1862年 11月19日(文久2年9月28日)- 1927年(昭和2年)4月1日)は、日本の内務官僚・政治家。官選県知事、横浜市長、貴族院議員、錦鶏間祗候。
荒川利貞の長男として武蔵国豊島郡に生まれる。1884年、東京大学法学部を卒業し、内務省に入り御用掛となる。
1886年8月、岡山県書記官に就任。以後、内務省参事官、富山県・群馬県・神奈川県の各書記官、兼臨時横浜築港局次長などを歴任。
1897年11月、35歳の若さで鳥取県知事に就任。産業振興、賀露港修築を推進した。1899年5月、三重県知事に転じた。1900年1月、香川県知事となり、同年10月には長崎県知事に転じた。長崎県細菌検査所設置などの伝染病対策、長崎港第二期改良工事を推進し、1910年9月まで在任し退官。同年同月から1913年11月まで横浜市長を務めた。
1910年12月3日、錦鶏間祗候となる[1]。同年12月27日、貴族院勅選議員に任じられ[2]、茶話会に属し死去するまで在任。その他、日本大博覧会評議員、神奈川県防疫顧問、臨時大都市制度調査会委員などを務めた。