藤野恵

藤野恵
藤野恵
藤野恵

藤野 恵(ふじの めぐむ、1894年明治27年)4月16日 - 1949年昭和24年)10月9日[1])は、日本の内務文部官僚。官選県知事文部次官

経歴

広島県出身。藤野玖三の四男として生まれる。広島県立福山中学校第六高等学校を卒業。1919年7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し群馬県属となる。同年10月、高等試験行政科試験に合格[1]

1920年10月、群馬県多野郡長に就任。以後、静岡県理事官・内務部社会課長兼調査課長、臨時震災救護事務局事務官、内務省社会局事務官、兼社会局書記官・社会部福利課長、同部保護課長などを歴任[1]

1935年1月、香川県知事に就任[2]1936年6月、文部省実業学務局長に転じ、さらに同普通学務局長を務めた[1]1939年4月、鹿児島県知事となる。『鹿児島県史』の編纂、戦時体制の整備などを推進した[3]1940年8月、文部省教学局長官に転じ、同省総務局長を経て、1944年7月から1945年6月まで文部次官を務めた[1]。1945年に退官し、戦後、公職追放となった[4]

著作

  • 『公益質屋法要論』良書普及会、1927年。
  • 『児童虐待防止法要義』松華堂、1933年。
  • 『融和対策としての教育』〈融和問題叢書;第14編〉中央融和事業協会、1939年。
  • 持永義夫共著『社会行政』〈自治行政叢書;第11巻〉常磐書房、1937年。

家族

  • 父の藤野玖三は大阪商船広島支店に勤務していたが、支店廃止に伴い、設備一式を譲り受けて同僚と代理店を共同経営していた[5]。大日本商工協会福山支部長。
  • 兄 藤野幹(台湾総督府官吏)1883年に藤野玖三の長男として生まれ、1908年東京帝国大学法科大学政治学科卒。台湾総督府専売局書記となり、翌年高等文官試験に合格して同府事務官となり、1919年明治製糖取締役に転じ、のち社長となった[6]。岳父に矢野二郎、娘婿に小松化成社長河合二良(河合良成二男)

栄典

脚注

  1. ^ a b c d e 『日本近現代人物履歴事典』447頁。
  2. ^ 『新編日本の歴代知事』903頁。
  3. ^ 『新編日本の歴代知事』1111頁。
  4. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』225頁。
  5. ^ 『海運興国史 附録』海事彙報社、1927年、p595
  6. ^ 『帝国大学出身名鑑』 校友調査会、1934年、p
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
公職
先代
菊池豊三郎
日本の旗 文部次官
日本の旗 日本文化大観編修会会長

1944年 - 1945年
次代
河原春作
先代
菊池豊三郎
長官事務取扱
日本の旗 教学局長官
1940年 - 1942年
次代
近藤寿治
文部省教学局長
先代
菊池豊三郎
会長事務取扱
日本の旗 日本文化大観編修会会長
1940年 - 1942年
次代
菊池豊三郎
先代
河原春作
所長事務取扱
日本の旗 航海練習所
1936年 - 1937年
次代
小笠原豊光
先代
青柳晴雄
群馬県多野郡
1921年 - 1922年
次代
湯原直平
その他の役職
先代
(新設)
勤労学徒援護会理事長
1945年 - 1946年
次代
阿原謙蔵

Strategi Solo vs Squad di Free Fire: Cara Menang Mudah!