児玉 源太郎(こだま げんたろう、旧字体:兒玉 源太郞[注釈 1]、1852年4月14日(嘉永5年閏2月25日) - 1906年(明治39年)7月23日)は、明治時代の日本の陸軍軍人、政治家[1]。日露戦争において満洲軍総参謀長を務め、勝利に貢献した。階級は陸軍大将、栄典は正二位勲一等功一級子爵。
嘉永5年(1852年)閏2月25日、周防国都濃郡徳山の本丁[注釈 2]で、長州藩の支藩・徳山藩の上士(馬廻役、100石[2]。)児玉半九郎忠硯の長男として生まれる。当時、児玉家には長女の久子と次女の信子がいるのみで、児玉源太郎が初めての男子であったため、彼の誕生に家族一同は大いに喜んだ。児玉が生まれた時に父・半九郎は向かいの家に住む友人で漢学者の島田蕃根の家に赴き、四、五人で詩文に興じていたが、家人が慌ただしくやって来て男子誕生を告げたため、半九郎は歓喜して直ちに島田家から帰宅し、祝杯を挙げた[3]。幼名は百合若と名付けられ、長じて健、源太郎と改めた[4]。
嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになると、父・半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去。この時の児玉はまだ5歳と幼かったため、浅見栄三郎の次男で半九郎の養子となっていた児玉次郎彦が児玉源太郎の姉・久子と婚姻し、婿養子として児玉家の家督を相続した。児玉は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している[4]。
元治元年(1864年)8月12日、義兄・次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされる。更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となった[5]。児玉家には13歳の児玉、母・元子、姉の久子と信子、次郎彦と久子の間の子・文太郎が残され、生活は困窮した。しかし、児玉の母は家名を辱めないように努めつつ、児玉らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許され、児玉は中小姓として25石の禄を与えられた[6]。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻役、禄100石へ戻されている[7]。
明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊。同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日に品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊する[8]。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し、戦傷を受けている。
熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将をよく補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争でに生かされることとなった[9]。
1885年(明治18年)9月30日から陸軍大学校の幹事を務め、1887年10月25日から1889年11月まで陸軍大学校の初代校長を務めた。
桂太郎、川上操六、児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」が、ドイツからクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルを陸軍大学校教官として招聘した。 1885年3月から1888年3月までの3年間、メッケルは陸軍大学校で講義を行い、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官に改称)に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した[10]。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。2人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
明治36年(1903年)1月、故郷の生家跡地に私立図書館の児玉文庫を設立した[11]。この図書館は阿武郡立萩図書館(現・萩市立図書館)に次いで山口県で2番目の近代的図書館とされる[11]。児玉文庫は昭和20年(1945年)の徳山大空襲で焼失し、昭和23年(1948年)10月には公立図書館の徳山市立徳山図書館(現・周南市立中央図書館)が開館。平成31年(2019年)3月1日には周南市立中央図書館に「児玉文庫メモリアル」という愛称がつけられている。
日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉を台湾総督に留任させていた[12]。日露戦争のために新たに編成された満洲軍総参謀長をも引き続いて務めた。
満洲軍総参謀長として満洲に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。
奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。この時、外交の進行手段をめぐって、政府(首相・外相)と元老との間で意見が分かれたが、児玉の調整と周旋でアメリカを仲介役として早期講和をはかることで意見がまとまった。さらに、児玉は軍事作戦を手段として講和を促進するために、樺太や満洲で攻勢作戦をとることを主張し国家方針として認めさせるなどしている[13]。
早期講和を目指す児玉の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太、ウラジオストク方面へ攻勢をかけることで、ロシアに痛撃を与えることで、ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている[14]。
ただし、児玉もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道・道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していた[15]。
日露戦争後、参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55。戒名は大観院殿藤園玄機大居士[16]。当初は青山霊園に葬られていたが、昭和初期の区画整理により東京都府中市の多磨霊園に改葬された。また神奈川県藤沢市江の島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。
※明治5年までの日付は旧暦
旅順攻囲戦における児玉の功績によって、日本軍は児玉が旅順に到着した4日後に二百三高地を攻略した(『機密日露戦史』などの記述がある)。
ただし、そのことについては他の複数の資料から以下のように否定的な見解も示されている。
これらは、未だ決定的証拠とまでは至っておらず、今後の研究で解明が待たれている。なお、明治37年11月29日午後に、大山(総司令官)から児玉(総参謀長)へ宛てた訓令が、陸軍省『明治天皇御伝記史料 - 明治軍事史(下)』(原書房〈明治百年史叢書〉、1966年)に次のように収録されている[23]。「総参謀長へ/十一月廿九日午後/総司令官より/訓令」として、「本訓令は之を実施するに至らすして止む、十二月十三日総参謀長帰部の翌日総司令官に返納せらる」と注記し、「総参謀長派遣に関する訓令/一、貴官を第三軍に派遣す/二、余は第三軍の攻撃指導に関し要すれは満洲軍総司令官の名を以て第三軍に命令することを貴官に委す/三、貴官は明治三十七年十一月廿九日煙台を出発すへし/(終り)」(原文は旧字カタカナ)[23]。
史料に基づいた実証的な児玉研究書籍も刊行されている。長南政義は、参謀本部次長・満洲軍総参謀長としての児玉の役割について詳細に検証し、児玉が内務大臣を辞めて参謀本部次長に就任した人事を「降格人事」とする通説を批判し、降格人事ではなかった旨を証明すると共に、軍という個別利益よりも国家の全体利益を重視し、将来の国家像・戦争像を精確に洞察して必要な組織制度改革を断行した「予言的改革者」としての児玉像を描いている。また、小林道彦は、統帥権を憲法的秩序に適合させようとした「立憲主義的軍人」としての児玉像を提示したが、長南政義は、新史料を使用し小林道彦の児玉理解には史料的誤読が多いと指摘している[28]。
源太郎━━┳秀雄━忠康━━━━━━━┳健 ┣貞雄━信男━幸子┳純 ┣進 ┣友雄 ┣健 ┣実 ┣常雄 ┗博 ┣国雄 ┣ヌイ ┣ヨシ ┣仲子 ┣八郎 ┣九一 ┣モト ┗ツル
岩永秀松の娘マツ/松子(1856–1936)と結婚、7男4女を儲けた(養女も1人迎えた)[47]。
爵位は嫡男秀雄が継いだが、秀雄と澤子夫妻に息子が生まれなかったため、2人の間に生まれた孫娘貞子(1902年 - ?)の夫忠康(広幡忠朝の子、1898年 - 1990年)が婿養子に迎えられた。曾孫で忠康の息子進は映画監督・テレビ映画監督。
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