江木 千之(えぎ かずゆき、1853年5月21日〈嘉永6年4月14日[1] 〉 - 1932年〈昭和7年〉8月23日[1])は、明治時代から大正時代にかけての日本の文部・内務官僚、政治家。号は狂塢。
文部省普通学務局長、内務省県治局長、茨城・栃木・愛知・広島各県知事、貴族院議員、文部大臣、皇典講究所長、全国神職会長、枢密顧問官を歴任した。
生涯
周防国岩国藩出身[1]。岩国藩士・江木仙左衛門俊敬の長男として生まれる(幼名・吉太郎)[2]。1870年(明治3年)、藩命により大阪開成所で外国語を学び[2]、翌年より開拓使仮学校、大学南校、工部省工学寮などに学ぶ。1874年(明治7年)に文部省に出仕し、会計局副長、視学官、参事官、普通学務局長を歴任[1]。1890年の第二次小学校令制定の際には、起草者となった。
1891年(明治24年)に一度退官したのち内務省に入り、大臣秘書官、県治局長、茨城・栃木・愛知・広島・熊本各県知事を務めた[1]。1904年(明治37年)8月22日に貴族院勅選議員に任じられた[1][3]。1907年(明治40年)の再退官後は貴族院議員として活動する他、同年6月22日に錦鶏間祗候に任じられ[1][4]、また臨時教育会議などの諸審議会委員にも選ばれている[1]。
1924年(大正13年)には清浦内閣の文部大臣に就任し、晩年は枢密顧問官、文政審議会副総裁を務めた[1]。文政審議会では軍事予備教育の特別委員会委員長を務め、1935年(大正14年)に発布された陸軍現役将校学校配属令につながる諮詢案を取りまとめた[5]。この間、養子の江木翼が憲政会・立憲民政党総裁の顧問となったことから同党に接近した。また、防長教育会、全国神職会両会長、大東文化協会副会頭、皇典講究所所長も歴任している。墓所は青山霊園。
親族
栄典・受章・受賞
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
著作
- 『江木千之翁経歴談』上下、江木千之翁経歴談刊行会編、江木千之翁経歴談刊行会、1933年11月 / 大空社〈伝記叢書〉、1987年9月 / 芳文閣、1992年3月
- 「詩集」「母を懐ふ記」(江木千之翁経歴談刊行会編 『江木千之翁経歴談附録』 江木千之翁経歴談刊行会、1933年12月)
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 「江木千之」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178000
- ^ a b 江木千之『人事興信録. 第8版(昭和3年)』(人事興信所, 1928)
- ^ 『官報』第6345号、明治37年8月23日。
- ^ 『官報』第7194号、明治40年6月24日。
- ^ 文政審議会総会で軍事教育案を可決『東京朝日新聞』大正14年1月11日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p159 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『官報』第578号「賞勲叙任」1885年6月6日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
- ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。
- ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
参考文献
関連文献
外部リンク
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総裁 | |
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副総裁 | |
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所長 | |
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幹事長 | |
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幹事 |
- 高山昇1902年
- 賀茂百樹1903年4月-1905年10月
- 石川岩吉1909年
- 桑原芳樹1917年
- 副島知一1926年
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専務理事 |
- 桑原芳樹1918年
- 岩元禧1924年
- 副島知一1933年
- 高山昇1937年
- 吉田茂 ? 年
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理事 | |
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再編前 |
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再編後 | |
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省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
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