北白川宮成久王(きたしらかわのみや なるひさおう、1887年〈明治20年〉4月18日 - 1923年〈大正12年〉4月1日)は、日本の皇族。階級は陸軍大佐。北白川宮能久親王の第3王子。北白川宮第3代当主。
生涯
生い立ちと若年期
1887年〈明治20年〉4月18日、北白川宮能久親王と正妃富子(伊達宗徳侯爵の次女)の唯一の子として誕生。1895年(明治28年)10月28日、父宮の薨去により8歳で北白川宮を継承。
1901年(明治34年)9月、久邇宮家の鳩彦王・稔彦王兄弟とともに、東京陸軍地方幼年学校に第5期生として入校。美少年であった成久王は一部の上級生から人気を集めた[1]。陸軍では、その後、陸軍士官学校(20期)、陸軍大学校(27期)を卒業し陸軍砲兵大佐まで至る。
1907年(明治40年)4月18日、成年を迎え貴族院皇族議員となる[2][3]。
1909年(明治42年)に明治天皇の第7皇女・周宮房子内親王と結婚した。1917年(大正6年)に大勲位菊花大綬章を受ける[4]。
1917年(大正6年)秋、夫妻で台湾を訪問し、能久親王ゆかりの地を参拝した。10月26日に台南(能久親王の殉職地)の北白川宮御遺跡所(当時)を参拝[5]。10月28日には台北の台湾神社(当時)を参拝し、11月2日にも同神社を参拝した。
留学と自動車事故
1921年(大正10年)より軍事・社交の勉強のため、「キタ伯爵」の仮名でフランスのサン・シール陸軍士官学校に留学。
翌年には自動車免許も取得し、機械好きな人柄から自家用車(ヴォワザン23CV(フランス語版)、排気量3970 cc[7]。)も購入した。
房子妃も合流し、「ごく平民的」と謳われた夫妻は社交界でも評判が高かった。銀行家アルベール・カーンとは家族ぐるみで親交があり、カーンによるプライベートフィルムが残されている[注釈 1]。
1923年(大正12年)、滞仏中に自動車の運転を覚え、「一度、稔彦王に腕前を見てほしい」と、当時同じく留学中であり既に運転の覚えがあった東久邇宮稔彦王をドライブに誘った。成久王の腕前が怪しかったため、稔彦王は「あなたはまだ危ないからおやめなさい。よほど安全な広い通りならいいが、お気をつけになった方がいい」と忠告したが、成久王は聞き入れず、1923年4月1日には「ノルマンディー海岸の避暑地ドーヴィルまで泊りがけでドライブに行かないか」と稔彦王を誘った。稔彦王はここでも「あなたの運転は、失礼ですが、まだ十分でないからお止めなさい」と忠告したうえで、イギリスに行く約束があることを理由にこれを断って、ロンドンに向かった。
そこで成久王はドライブの相手を同じく留学中の朝香宮鳩彦王に変え、同日朝に妃の房子内親王、御用掛エリザベート・ソビー(フランス語版) (Elisabeth Sauvy)、運転手ヴィクトール・デリア (Victor Déliât) と共にドライブに出発した[7]。デリアの運転で出発し途中で鳩彦王を拾い、ノルマンディーのエヴルーで昼食を摂った後、成久王が運転を代わり、午後4時頃にシェルブール方面に出発した。
午後4時30分、成久王が運転する車はパリ西方約140kmの、ペリエ・ラ・カンパーニュ村の付近で、スピードの出し過ぎによりスリップし道路から逸脱、路傍のアカシアの巨木に衝突した。成久王は事故から20分後に医師が駆け付けた際には既に死亡していた[8]。また、助手席のデリアも死亡、後部座席の房子妃と鳩彦王はそれぞれ重傷を負った[8]。
成久王の亡骸はパリに移送され、4月3日夕に駐仏日本大使館に到着した[9]。霊柩は4月21日にパリを発ち、22日にマルセイユを経由して日本郵船の香取丸で帰国の途についた[10]。
5月29日に神戸港に到着し、5月30日に東京に帰還した[11]。神戸では長男永久王(当時13歳)と竹田宮妃昌子内親王が出迎え、東京まで付き添った[11][12]。6月8日に豊島岡墓地で斂葬の儀が執り行われた[12]。
1935年(昭和10年)、パリ日本人居留団により事故現場に碑が建てられた[13]。
栄典
家族
系図
北白川宮家
姻戚関係
脚注
注釈
- ^ この事が縁となりカーンが日本へ派遣したカメラマン、ロジェ・デュマは1926年の来日の際に皇族の撮影を許可され北白川宮家を中心とした写真と映像を残した
出典
参考文献
関連項目
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総裁 | |
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幹事長 | |
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幹事 |
- 高山昇1902年
- 賀茂百樹1903年4月-1905年10月
- 石川岩吉1909年
- 桑原芳樹1917年
- 副島知一1926年
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専務理事 |
- 桑原芳樹1918年
- 岩元禧1924年
- 副島知一1933年
- 高山昇1937年
- 吉田茂 ? 年
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理事 | |
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