杉浦 重剛(すぎうら じゅうごう、1855年4月19日(安政2年3月3日)- 1924年(大正13年)2月13日)は、明治・大正時代の国粋主義的教育者・思想家・政治家。幼名は謙次郎。父は膳所藩の儒者杉浦重文。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身。
若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講する。号は梅窓または天台道士。学生時の渾名は紙魚(しみ)。後に『人格高邁の国士』と評される。理学宗の世界観を確立。
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文(蕉亭)と妻・八重の間に次男として生まれる。3歳のとき、護送される頼三樹三郎を目撃する。数え年6歳で藩校・遵義堂に入学を許され、高橋正功(坦堂、作也)、黒田麹廬、岩垣月洲に漢学・洋学を学ぶ。「予の精神は之を坦堂先生に受け、学問は之を麹盧先生に受け、識見は之を月洲先生に受けた」と後に懐述するように、この三人より受けた教育的感化は彼の一生を支える程強かった。15歳で句読方に任ぜられる。
15歳のおり藩より貢進生に選ばれ東京に下り、大学南校に学ぶ。在学中は猛勉強の結果、明治6年(1873年)10月、明治天皇への御前講演に選ばれ理化学の実験を行う。首席の鳩山和夫、小村寿太郎、高平小五郎らが同期生だった。のちに小村の外務省入りのきっかけとして、小村を外務卿・井上馨に紹介したのは杉浦であった。
明治9年(1876年)、第2回文部省派遣留学生に選抜されて櫻井錠二らと共に渡欧。化学を専攻。当初は農業を修めるつもりでサイレンセスターの王立農学校に入るが、英国の農業は牧畜が中心で、穀物は麦で、勉強をしても帰国後役には立たないと気付き放棄した。化学に転向し、マンチェスター・オーエンスカレッジに移り、ロスコー、ショーレマン両教授の指導下で研究に従事。更にロンドンのサウスケンジントン化学校、ロンドン大学等で学ぶうちに神経衰弱にかかり、明治13年(1880年)5月に帰国。
27歳で文部省と東京大学に勤める。その間、東大予備門(のちの一高)校長にあり、また大学予備門など旧制高校進学のために英語でもって教授する予備校であった東京英語学校(のちすぐに日本中学に改称)創立の中心の一人となる。
のちに、読売・朝日新聞の社説を担当となり、三宅雪嶺、志賀重昂らと政教社発行の「日本人」(のちに「日本及日本人」)や新聞「日本」の刊行に力を尽くす。それらによって国粋主義を主張し、当時の社会に影響を波及させる。明治22年(1889年)3月に文部省を非職[2]。同年には日本倶楽部をつくり、大隈重信の不平等条約改正案に反対する。小石川区議員を経て、翌年明治23年(1890年)第1回衆議院議員総選挙に大成会から出馬し当選。しかし翌年に辞職した。
その後は子弟の養成と共に東京文学院[3]を設立し、以後も國學院学監や東亜同文書院院長、東宮御学問所御用掛などを歴任[4]。官学崇拝も強く、当時の官公立中等教育のメッカである府立一中にも足を運び、「本校は帝都の第一中学であるのみならず、帝国の第一中学である」など講演にても折に触れ、国家の権威を高めることに尽力していた[5]。
迪宮裕仁親王(摂政宮、のちの昭和天皇)の御進講役も務め、さらに宮中某重大事件にては久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗した。大正13年(1924年)、腎臓炎のため死去[6]。墓所は東京文京区伝通院。
文士三羽烏
その他