瀬戸 虎記(せと とらき、1870年1月17日(明治2年12月16日) - 1920年(大正9年)2月9日[1])は、日本の教育者。第一高等学校長。
経歴
土佐国土佐郡高知街鷹匠町(現高知市鷹匠町)で、土佐藩士・瀬戸直道の長男として生まれる[1][2]。追手筋尋常小学校を経て、1888年7月、高知尋常中学校を卒業。その後、第一高等中学校英予科、同校本科二部(理科)で学び、1896年、帝国大学理科大学物理学科を卒業[1]。
その後、岩手県立盛岡中学校教諭、東京高等師範学校教授、第六高等学校教授、長崎高等商業学校教授、文部省視学兼第一高等学校教授、文部省視学官などを歴任[1][3]。1913年4月、第一高等学校長に就任し、1919年、病のため休職[1][2]。療養中に死去した[2]。
その他、臨時教育会議委員などを務めた[3]。
家族
三女の佐代子は三田村甚三郎と養子縁組し、甚三郎の養子・一郎の妻となった[4]。
脚注
- ^ a b c d e 『高知県人名事典 新版』410-411頁。
- ^ a b c 『大正過去帳 物故人名辞典』201頁。
- ^ a b 『臨時教育会議の研究』1025頁。
- ^ 三田村甚三郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
参考文献
- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。
- 海後宗臣編『臨時教育会議の研究』東京大学出版会、1960年。
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前身諸学校長 |
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南校校長 | |
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第一大学区第一番中学長 | |
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開成学校長 | |
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東京開成学校長 | |
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明法頭 |
- 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875
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司法省書記局学務課長 |
- 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877
- 学校課長 青山貞 1877-1879
- 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880
- 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884
- 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886
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東京法学校長 | |
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東京帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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東京帝国大学附属医学専門部長 |
- 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947
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東京大学附属医学専門部長 | |
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長崎大学学長(長崎高等商業学校長事務取扱:1908年 - 1909年) |
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前身諸学校・大学長 |
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第五高等中学校医学部主事 |
- 学部長/主事 吉田健康 1888-1890/1890-1894
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第五高等学校医学部主事 | |
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長崎医学専門学校長 |
- 心得/校長 田代正 1901/1901-1917
- 事務取扱 村上安蔵 1917
- 事務取扱/校長 尾中守三 1917-1919/1919-1920
- 事務取扱 国友鼎 1920
- 山田基 1920-1923
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長崎医科大学附属医学専門部主事 | |
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長崎医科大学長 | |
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