外山 正一(とやま まさかず、1848年10月23日〈嘉永元年9月27日〉 - 1900年〈明治33年〉3月8日)は、明治時代の日本の社会学者、教育者。文学博士。号は丶山()。
東京帝国大学(現東京大学)文科大学長・総長、貴族院議員、文部大臣を歴任した。
経歴
父は家禄220俵の旗本で幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義。江戸の小石川に生まれる。幼名は捨八。家族は武芸での功名を望んだが、正一は学問で頭角を表し、13歳で蕃書調所で英語を学び、1864年には16歳にして開成所教授方になるほど、若くしてその英才を謳われる。
勝海舟の推挙により1866年(慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府の瓦解により1868年(明治元年6月)帰国[5]。主家徳川氏の駿府移封に従い静岡学問所教授を務めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ、森有礼少弁務使の秘書として、南北戦争後の復興期アメリカへ赴任した。1871年(明治4年)、現地において外務権大録になるも、1872年に辞職。奨学金を得てミシガン州アナーバー・ハイスクールを経て、1873年にミシガン大学に入学[6]。哲学と理学を専攻し、1876年(明治9年)に帰国した。
帰国後は官立東京開成学校教授に就任。1877年(明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で、エドワード・S・モースを東京大学に招聘した。幕末期から明治初期にかけて欧米で学んだ外山の新知識は当時の政府には重要であった。しかし彼の講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始した。これに対し学生たちより『スペンサーの番人』と揶揄された[7]。
1882年(明治15年)、同僚の矢田部良吉、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表。いずれも習作の域を出ないが、従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索し、近代文学に多大な影響を及ぼした。
1887年(明治20年)、東京学士会院会員に任命され、1888年(明治21年)5月には学位令に基づき、小中村清矩、重野安繹、加藤弘之、島田重礼とともに日本初の文学博士となる。
1889年(明治22年)、元良勇次郎(元東大教授)、神田乃武(元東京高商教授)とともに、芝に正則予備校(現在の正則高等学校)を開設。
日本語のローマ字化推進のため「羅馬字会」を結成して漢字や仮名の廃止を唱え、九代目市川團十郎や依田学海らが実践していた演劇改良に参加、西洋列強と伍するためには教育の向上が必要であり、そのためには女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍した。また、1899年の読売新聞懸賞東洋歴史画題募集では、外山の「素戔嗚尊」が第一等とされた[8]。
晩年は東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣などを歴任。
1900年(明治33年)3月8日、中耳炎からの脳症により死去、享年51。なお前日には日本で初めて、勅旨を以て東京帝国大学名誉教授の称号を授与された(改正帝国大学令第13条に依る)[9]。墓所は谷中霊園。
著作活動も盛んで、『演劇改良私案』(1886)、『日本絵画の未来』(1890)、『日本知識道徳史』(1895)他多数の著書を残し、唱歌『皇国の守り』の作詞(作曲は伊沢修二)も手がけた。
エピソード
- エリート階級で、大学や政府の要職を務めた外山だが、生活は質素で、「あのくらいの位置にいるのに、内には下女一人に、老僕しか使わない」(勝海舟『氷川清話』)暮らしぶりで、谷中墓地の墓も小ぶりである。
- スタイリストであった外山は、山高帽に派手な色の外套という当時最新のファッションに身を包み「赤門天狗」と呼ばれていた。散髪のやり方次第で頭脳は発達すると考えて、どの店の散髪がよいか理髪店を絶えず替えていた。
- 東大文科大学学長のときの1883年、ある新入生の面接を行った。外山が「君は何の為に勉強するのかね」と問うと、件の新入生は「我、太平洋の架け橋とならん」と答えた。この新入生が新渡戸稲造である。
栄典
- 位階
- 勲章等
著作
- 『丶山存稿』前・後編、丸善、1909年3月
- 『丶山存稿』前・後編、湘南堂書店、1983年12月
- 著書
- 訳書
- 『学校管理法』ジョーセフ・ランドン原著、丸善商社書店、1885年9月第一部巻之上
- 編書
- The Monbusho conversational readers (正則 文部省英語読本). 文部省編輯局、1889年11月
脚注
関連文献
関連項目
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外部リンク
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再編前 |
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再編後 | |
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省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。
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東京大学総長(東京帝国大学総長:第4代:1897年 - 1898年) (帝国大学総長事務取扱:1886年) (東京大学総理事務取扱:1886年) |
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前身諸学校長 |
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南校校長 | |
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第一大学区第一番中学長 | |
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開成学校長 | |
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東京開成学校長 | |
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明法頭 |
- 権頭/頭 楠田英世 1871-1873/1873-1875
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司法省書記局学務課長 |
- 第二局法学課長 杉山孝敏 1875-1877
- 学校課長 青山貞 1877-1879
- 学校課長/生徒課長 植村長 1879-1880/1880
- 生徒課長/第七局長 黒川誠一郎 1880-1881/1881-1884
- 書記局学務課長 加太邦憲 1884-1886
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東京法学校長 | |
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東京帝国大学臨時附属医学専門部主事 | |
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東京帝国大学附属医学専門部長 |
- 部長/事務取扱 颯田琴次 1944-1947/1947
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東京大学附属医学専門部長 | |
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