山田 文雄(やまだ ふみお、1897年5月14日[1] - 1978年8月16日)は、昭和期の経済学者。東京帝国大学経済学部教授、愛知大学第7代学長。
1897年、東京生まれ。海軍兵学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学経済学部を卒業。大学院に進み河合栄治郎に師事した。卒業後は京城帝国大学予科講師となり、同大学法文学部助教授を経て、1930年東京帝国大学経済学部助教授となった。1931年に教授に昇進し、工業政策を担当した。しかし、1939年に平賀粛学により河合栄治郎に殉じて木村健康助手とともに辞職。同年、鶴見祐輔の運営する太平洋協会に入り調査部長となる。
戦後は1947年東京都副知事を経て、1950年より愛知大学法経学部教授となった。1969年から1970年の大学紛争時には同大学学長を務める。1978年8月16日死去。墓は寛永寺谷中墓地。