今泉 定助(いまいずみ さだすけ、文久3年2月9日〈1863年3月27日〉 - 昭和19年〈1944年〉9月11日)は、日本の神道家、思想家、国文学者。宮城県白石市出身。
神宮奉斎会会長。日本大学皇道学院院長。東洋文化研究所講師。前名は定介(さだすけ)、号は竹の屋主人[1]。
東京大学古典講習科入学以来、明治時代は純粋な国文学者としての道を歩む。初代司法大臣山田顕義にかわいがられ、将来を嘱望され、皇典講究所の講師を依頼された。大正の初期に川面凡児の実践的神道論に影響を受けてより、本居宣長以来の国文学的神道論に加え、実践に基づく信仰的な神道論を加えて「皇道」と呼び、それを国民の指針として普及する活動に尽力する。
福岡筥崎宮社家出身の葦津耕次郎[3]を通じて政府要人などに人脈を広げ、大正から昭和にかけての社会不安の中で、いかに日本を皇道精神に基づいて国家の再建をするのか、政治家・軍人・財界人に教えを広めた。「憂国慨世の神道思想家」と呼ばれた所以である。歴代首相のほとんどが教えを受けるほどの、影響力を持っていた。
国体研究の権威として昭和12年(1937年)、特別議会開会中衆議院議員議員有志間に(今泉定助)先生の国体に関する御講演を拝聴するの議起こり、広く政界、財界、軍部方面の篤志者を交え、毎日午前七時東京市麹町区富士見町神宮奉斎会本院に参集、6日間約十時間にわたり講演が行われた[4][5]。
しかし戦時中は、政府の海外神社政策や軍の政策などを手厳しく批判したため、著書の発禁処分を受けたりした。政府や軍に対しては「真正なる国体的道義に立つべき」であることを勧告し続けた。日本大学内に皇道学院を設けて社会教育を続け、日大総長の山岡萬之助やのちの日大会頭の古田重二良などが熱心に講義を聴講した(のちに日本大学内に今泉研究所が設けられた)。昭和19年(1944年)9月没。「世界皇化」の四字が絶筆となった。
ほか100冊以上。
ほか