相川 勝六(あいかわ かつろく、1891年(明治24年)12月6日 - 1973年(昭和48年)10月3日)は、日本の内務及び厚生官僚、政治家、弁護士。宮崎・広島・愛知・愛媛各県官選知事。大政翼賛会実践局長、小磯内閣厚生大臣(第10代)、衆議院議員(8期)。
経歴
佐賀県藤津郡嬉野村(現嬉野市)出身。1911年、佐賀県立鹿島中学校卒業。1912年、第二高等学校入学。1915年、第二高等学校卒業。1919年、東京帝国大学法科大学独法科卒業。
同年、内務省入省[2]。千葉県属[3]1926年、徳島県労務課長から警視庁刑事部長に就任。神奈川県警察部長などを歴任。1934年、内務省警保局保安課長となり第二次大本教弾圧などを指導。
1936年の廣田内閣組閣においては、潮恵之輔の入閣に内務省内の有力革新官僚の一人として反対し、報復として二・二六事件を口実に朝鮮総督府警察部警務局外事課長に左遷される。同様に反対していた唐沢俊樹や安倍源基も共に左遷されている。
1937年、宮崎県知事就任。八紘之基柱建設を推進。1939年、広島県知事就任。部落会・町内会の結成。県主催紀元二千六百年奉祝博覧会開催。1941年、愛知県知事就任。1942年、大政翼賛会実践局長兼任。1943年、愛媛県知事就任、四国地方行政協議会長兼任。宮崎県知事在任中には高鍋に化学工業、日南に日本パルプ工業、小林と高鍋にアルコール工場を誘致し、県営で水力発電所を着工。愛知県知事に転任した際には、餞別を「相川厚生事業団」として引き揚げ漁民の託児所や福祉施設を広島に建設した。
1944年、厚生次官就任。1945年、小磯内閣の厚生大臣として労務行政を強化。
1946年、公職追放。
1952年、第25回衆議院議員総選挙で宮崎1区に自由民主党から立候補、初当選。1965年春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲二等からの昇叙)[4][5]。8期連続当選、1972年退任。衆議院では内閣委員会委員長、自民党では治安対策特別委員長を務めた。
1973年10月3日死去、81歳。死没日をもって銀杯一組を賜った[1]。
栄典
位階
勲章等
逸話
- 海軍の演習時に警察関係者として出席したが、折しも強風で相川の帽子が飛ばされた。この際、昭和天皇が「帽子がないと様にならないぞ」と風に飛ばされた相川の帽子を持ってこさせている。
脚注