篠崎 五郎(しのざき ごろう、1848年(弘化4年12月)[1] - 1909年(明治42年)8月15日[2])は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事。
薩摩藩士の家に生まれる[1]。薩摩国鹿児島郡鹿児島城下西田町出身[3]。戊辰戦争において奥羽鎮撫使護衛として従軍し、羽州各地に伝令使として転戦した[4]。
明治5年(1872年)、警視に任官。その後検事、鎮台二等大尉を歴任。1874年、台湾出兵に徴集隊指揮副長として従軍。1875年、宮崎県十三等出仕となる。以後、兵庫県二等警部、同一等警部、兵庫県少書記官、同大書記官などを歴任[2]。
1885年4月、新潟県令に就任。1886年7月、地方官官制改正に伴い同県知事となる。当時、新潟県は全国一の町村数であったため、市制・町村制の施行に向けて「市町村制実施取調委員」を設け、町村数削減に尽力した[5]。1889年12月26日、知事を非職となる[6]。1891年4月、島根県知事に就任[7]。1893年3月21日、知事を非職となる[8]。1898年1月、愛媛県知事に就任[1]。道路橋梁等が前年度の風水害で大きな被害を受けたため、予算編成ではそれらの大規模改修に重点を置き、新規事業は見送った。同年12月22日、依願免本官となり退官した[9]。
その後、牛尾金山会社長となった。1909年8月、鹿児島湾桜島温泉で病死した[2]。
なお、薩摩琵琶の振興に尽力した[10]。
寺田剛実 未赴任