安井 誠一郎(やすい せいいちろう、1891年(明治24年)3月11日 - 1962年(昭和37年)1月19日)は、日本の内務・厚生官僚、政治家。
東京都長官(第6・8代)、東京都知事(初・2・3代)、衆議院議員(1期)を歴任した。元自治大臣及び参議院議長の安井謙は弟。
経歴
生誕から都知事就任まで
岡山県御津郡伊島村生まれ。岡山県立岡山中学校、旧制一高、東京帝国大学独法科を卒業。内務省に入省、1920年茨城県庶務課長、休職しドイツ視察留学を経て、東京市社会局長として震災復興にあたる。その間茨城県・神奈川県で警視を務めた。
1928年に一旦退官し、茨城県から衆議院議員に立候補するも落選。その後内務省に復帰し、富山県・兵庫県・福岡県の警察部長を経て、東京市保健局長兼社会局長に就任する。1931年には同郷で朝鮮総督の宇垣一成に請われて秘書官となり、朝鮮総督府専売局長を務めた後、1936年、京畿道知事に就任した。のち拓務省拓務局長なども務め、植民地経営のポストを多く歴任した。
内地で1940年から新潟県知事を経て、東京市電気局長を務め、1946年に幣原内閣で厚生次官となる。しかし、同内閣総辞職により5月に退任。同年7月には官選では最後となる東京都長官に就任、歴任した。
東京都知事
1947年4月、安井は公選となった東京都長官の選挙に自由党・民主党の推薦を受け立候補。日本社会党推薦の田川大吉郎らを破って当選する。同年5月3日の地方自治法の施行により東京都長官は東京都知事に移行。初代東京都知事となった。51年、55年の都知事選にも連続当選し計3期都知事を務めた。任期中には、全国知事会の初代会長にも就任。任期中は主に戦災復興や食糧確保、カスリーン台風被害に尽力し、一方で、首都圏整備法制定の産婆役にもなり1964年東京オリンピック誘致も進めた。
戦後復興下での安井都政は、中央政治と直結した「安井保守王国」の巨大都市づくりに大いに力を発揮した。しかしその半面、都市の過密化と公害に拍車をかけ、1950年代から60年代の都庁・都議会・業者の癒着による大汚職の温床につながった。
都知事退任後
安井は1959年に執行された東京都知事選挙には立候補せず、都知事勇退を表明。退任後は名誉都民に推され、1962年に受賞している。1960年に旧東京1区から自由民主党公認で衆議院議員に立候補し当選したが、任期中の1962年1月19日に死去。70歳没。現在は多磨霊園に眠っている。
最晩年は議員活動の傍ら、東京都心と羽田空港を結ぶモノレール構想に深く関わり、運営会社の日本高架電鉄(後の東京モノレール)の会長に就任する予定もあったが、死去により実現せずに終わった[1]。
略年譜
主な就任ポスト
首長職
官職
その他
受賞
関連文献
- 『安井誠一郎小伝』馬島僴、大学書房、1962
- 『安井誠一郎傳』安井誠一郎氏記念像建設委員会編、東京商工会議所、1967
- 『第一次大戦後のドイツ : 安井誠一郎ドイツ留学日記より』尾平佳津江(二女)編・刊、1986。非売品
脚注
関連項目
外部リンク
東京都長官・知事(第6代長官:1946-1947 / 第8代長官:1947 / 初-3代知事:1947-1959) |
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